47.

 ジークレストたちの後押しを受け、すぐにでも動き出したいシェリアだったが、タイミングを計るのはなかなか難しかった。
 ちょうど儀式の多い時期に差しかかってしまったというのもある。一つ一つは難しくもない儀式だが、数があれば時間もかかる。疲れも溜まる。
 それに立場上、街へ繰り出すこと自体が簡単ではない。いくらジークレストがいいと言ってくれたところで、他の者たちの承認まで得られるわけではないのだ。むしろ十人いれば九人が反対することだろう。ジークレストは、賛成した本当に稀有な一人なのである。
 そのため内密に街へ出ることにしたのだが、その「内密」というのが本当に難しい。急いて事を仕損じるよりはということで、もう少し状況を見極めてから動くことになったのだった。ネイサンは、シェリアが動けない間に、事情をよく知っていそうな情報屋を探しておいてくれるという。歯痒いが、シェリアにできることはほとんどない。あえて挙げるとすれば、いつもの通り儀式に出て、誰にも迷惑をかけず心配もかけず時間を過ごす。その程度だ。
 ――それすらも、果たすことができずにいるが。
 シェリアは礼拝の間で、流れる音楽を聴いていた。目を瞑り、しばし心地のいい旋律に身をゆだねる。隣にはアシュートがいる。この礼拝の儀ではいつもそうだ。今ではアシュートと肩を並べて席に着くことになんの違和感もなくなっていた。しかし、アシュートの方はどうだろうか?
 シェリアスティーナとアシュートの間に横たわる深い溝――覗き込んでみても、ただ果てしない暗闇が広がるばかりで、シェリアにはまるで底が見えない。アシュートの心の傷は未だに癒されぬままなのだ。こうして自分が側にいるだけでも、彼にとっては随分な苦痛に違いない。
 そんな思いがシェリアをアシュートから遠ざけていた。図書館に足を運んだあの日以来、まともに言葉も交わしていない。アシュートを前にするとつい腰が引けてしまうのだ。勝手な話だと分かっていても、自分から近づいてはっきりと拒絶されるのが怖い。
 やがて儀式はつつがなく終わった。
 祭壇の袖へ下がっていく。アシュートは反対側へ。先ほどまで触れるほど近くにあった存在が、どんどん遠ざかっていく。その感覚が、近頃ではきまってシェリアの身を震わせた。決して振り返ったりはしない。できるわけがない。だが、本当はそうしてアシュートを呼び止めたいのかもしれない。
 シェリアは袖にぽつんと置かれた小さな椅子に腰かけた。儀式に参加していた人々がまばらに立ち上がり、帰っていく音が響いている。シェリアはこのざわめきがなんとなく好きだった。全員が立ち去ったあと、無人になった礼拝の間を眺めるのも好きだ。だからこうして待っている。耳をくすぐるささやかな雑音がだんだんと小さくなっていき、やがて物音一つしなくなるまで。
 静まり返った礼拝の間に、再びシェリアは足を運んだ。中心まで辿り着いて顔を上げると、思わずため息が出るほど高い高い天井がシェリアを見下ろしていた。
 大きな天窓に視線を移した時だった。誰もいないはずのシェリアの背後から、硬質な足音が近づいてくる。まだ誰かがいたのだ――そう悟って振り返ると、やって来たのはアシュートだった。シェリアが控えていたのとは反対側の袖にいたらしい。
「アシュート、まだいたんだね。気づかなかった」
 笑ってみせたが、その表情がわずかに強張ってしまう。アシュートはそれに気がづいたのか、シェリアから瞳を逸らすように視線を落とした。
「あなたを待っていたんです」
「私を?」
「少し、かけましょう」
 アシュートに促されて、シェリアも長椅子に腰かけた。以前ナシャともこうして座って話をしたのだっけ。同じ礼拝の間、同じ長椅子……。しかし、同じような場面でありながら、隣にいるのがアシュートだというだけでなにもかもが違って感じられた。
「シェリアスティーナ様探しはその後いかがですか、と。……伺っても、今の私は恐らくなんの力にもなれません。ですから敢えて伺うのは止めましょう。それよりも、今日はまた別のことを」
「別のこと」
 シェリアはアシュートの言葉をなぞるように呟いた。
「……近頃、あなたは私を避けていらっしゃいますね」
 なんの飾りもない真っ直ぐな質問に、シェリアはうめくこともできなかった。並んで座るアシュートの顔を見ることもできない。ひたと視線を目の前に並ぶ椅子の背に貼りつけ、押し黙る。
 それからたっぷり時間をかけて、やっとシェリアは口を開いた。
「そんなこと、ないよ」
「これだけ時間をかけて、その答えが返ってくるとは思いませんでした」
 アシュートはやや呆れ声だ。
「分かっています。以前私があなたの前で取り乱したから、それを気にしていらっしゃるのでしょう。記憶を失う以前のシェリアスティーナ様とは、思った以上の確執があったようだと。だからなるべく私を刺激しないように気遣っていらっしゃる」
「そういうわけじゃ……」
 シェリアは口ごもった。確かにアシュートの言う通りだったが、突然それがひどく傲慢なことのように思えたのだ。
「本当に違いますか? 私の思い過ごしですか?」
「……」
 アシュートの強い視線を感じる。シェリアは目を合わせようとして、止めた。
「……ごめんなさい。アシュート、私に会うの本当に辛いんだなってやっと実感できたから、それで」
 これまでずっと分かったような気になっていたけれど、実際はアシュートの苦悩などこれっぽっちも理解できていなかったのだ。あの日、薄暗い部屋の中で震えるアシュートを見て、初めてそれに気がついた。
「前の記憶が無いからって、アシュートの気持ちを考えずに行動しすぎてた。自分勝手なことだったね」
「そうではないのです」
 しかし、意外にもアシュートは間を置かず否定した。シェリアはやっと顔を上げて、アシュートと目を合わせる。
「……もう覚えてらっしゃらないかもしれませんが、以前あなたは私に、第一神聖騎士である前に一人の人間として自分を大事にしろ、と仰ってくださいましたね」
 そういえばそんなことも言っただろうか。思い出すと、恥ずかしさと情けなさで顔が真っ赤になる。いかにも身勝手な発言の極みではないか!
「私には、その言葉がとても嬉しかったのです」
「……え?」
「確かにその場では、怒りを覚えました。私たちがそれぞれ負う責任の重大さを、あなたは全く分かっていない。初めに感じたのはそんな憤りでした。しかしあなたの言葉は一日中私の頭から離れなかった。その意味をひたすら考えて、やっと気がついたのです。そんな言葉をかけられたのは、生まれて初めてだったと」
 だから私はあなたの言葉を忘れられなかったのだ、とアシュートは呟いた。
「考えてみれば、誰一人、私を第一神聖騎士ではなく一人の人間として見てくれる者はいなかった。それは私自身も同じこと。私は、自分自身にさえ背中を向けられここまで過ごしてきました。後になって、あなたも、第一神聖騎士として周りの者に希望を与えることは素晴らしいと仰いましたが、逆にその時、どこか物悲しい気持ちになったものです」
 アシュートは小さく首を振って、軽く絡ませていた自身の両手をぐっと握る。
「勝手と言えば、私の方こそ勝手でした。あなたの言葉に救われたと感じながら、同時に強い反発心も抱いていた。あなたにだけは私の心をかき乱されたくないと――。そんな私の思いを感じ取り、あなたが遠ざかっていくのも当然だ」
 強く握り締めるほどに、アシュートの爪が手の甲へと食い込んでいく。
「しかしやっと認めることができたのです。記憶を失った『あなた』がもたらす様々な出来事が、私を――そしてこの王宮を少しずつ変えていくのだと」
 だから。アシュートの呟きは小さい。
「どうか、私と距離を置こうとなさらないでください。どうしようもなく自分勝手な言い分ですが、私はやっとあなたと向かい合いたいと思えるようになったのです」
「……」
 ふと、シェリアは思った。アシュートは――目の前にいるのが、シェリアスティーナではない他の誰かであるということに、うっすらと気づいているのではないか。彼の心情を吐露するその言葉は、シェリアスティーナではなく確かに「自分に」向けて投げかけられている、そんな気がした。
 私と、向かい合おうとしてくれている。
 そう思うと、太陽の匂いをたっぷり含んだシーツに包まれたように心地よかった。けれど一方では、遠くから響く雷鳴に怯える子供の気持ちにもなっていた。
 あまりアシュートと近づきすぎてはいけない。それはアシュートのためだけではなくて、きっと自分のためでもある。たくさんの人に囲まれながら、本当の意味では一人ぼっち。その事実に震える自らの手を伸ばして、アシュートにすがってしまったら。――きっと離せなくなる。
「ありがとう」
 シェリアは礼を述べて微笑むに止めた。その答えにアシュートが納得してくれたのかは分からない。しかし、これ以上の言葉で一歩を踏み出すことはできなかった。
(アシュートも、誰かすがれる人が側にいてくれればいいのにね)
 尊敬できる先輩、頼れる仲間……それももちろん大事だろう。でもアシュートがずっとずっと探し求めていたのは、己の弱い部分を晒すことのできる誰かなのかもしれない。
 アシュートの妹の存在が、再びシェリアの中で揺らめく。
 アシュートにとって唯一の肉親、とカーリンは言っていた。行方不明になってからずっと探していたというから、アシュートは妹を大切にしていたのだろう。そして妹も、アシュートを大切にしていたに違いない。きっと互いに、なんの見返りもなく相手を支えていける存在だった。
(私……、きっと見つけ出すから。アシュート、待っていて)
 シェリアは真っ直ぐ立ち上がった。
「私、もう行くね。今日は儀式がたくさんあるんだ。頑張って全部制覇してくる」
 冗談めかして明るく言ったが、アシュートは不安げにシェリアを見上げた。
 私と距離を置こうとなさらないでください――。
「……」
 シェリアは逡巡したが、やがて小さく口を開く。
「アシュート、私ね、近々街に出てみようと思うんだ。勝手に出かけて心配かけないように、言っておくね」
「街へ?」
「うん。ずっと王宮にいたから、少し気分転換がしたいなあと思って」
 アシュートも立ち上がった。途端にシェリアは見下ろされる形になる。
「いけません、今はこの王宮でさえも安全な場所とは言えないのですから。街に出るなど以ての外です」
「……反聖女派の勢力に、勢いが出てきたから?」
 アシュートは一瞬言葉を失ったが、すぐに頷いた。
「ご存知だったのですね。まさにその通りです。聖女を狙う勢力は街に潜伏している。そんな中へあなたが自ら飛び込むなど」
「大丈夫、ネイサンに付いてきてもらうから。それにすぐ戻ってくると思うし。反聖女派の人たちだって、まさか私が街中をうろついてるなんて思わないよ」
「彼らを甘く見ては……」
「アシュート、これはただの報告だよ! 反対してもらおうと思って言ってるんじゃない。そりゃあ、反対されるだろうなとは思ってたけど。でもアシュートに黙って行くのはもっと嫌だったから、こうして報告してるの。いくらだめって言われても、私、止めないよ」
 苦虫を噛み潰したような表情でアシュートは口をつぐんだ。
「……反対されると分かっていても、強行する理由はなんですか」
「だから、気分転換」
「まさかそんな理由ではないでしょう」
「私、じっとしていられないの。分かってくれるでしょう。どんなことだって今の私には必要なんだよ――どうしても」
「……」
 アシュートの瞳は真っ直ぐシェリアを射抜いている。しかしその瞳に揺らめきの色があるのをシェリアは感じ取った。
「無茶はしない。ちゃんと戻ってくる。だから……行ってきます」
 ついに、アシュートは頷いた。渋々という感じではあるが、認めてもらえたのだ。シェリアはほっと息をついた。黙って行かずによかった。伝えてよかった。
「シェリアスティーナ様、そろそろここを出ませんと次の儀式に間に合いませんよ」
 半分開いた扉からイーニアスが顔を出した。シェリアは手を振ってそれに応える。
「うん、すぐに行くよ!」