48.

 街というものは、きっと生きているに違いない――シェリアは久しぶりに雑踏の中へ身を置いて、それを強く実感した。
 見渡せば、目に入るのはどれも見慣れた風景だ。王宮のように豪華ではないけれど、しかし地味すぎることもない建物群。その脇にいくつも並べられた大きな樽や木箱。店の軒先に並ぶ色とりどりの野菜たち。それに負けじと咲き誇る、別の店の華やかな花々。人が寝転んで両手足を投げ出したくらいに大きい石が敷かれた通りは、この街の自慢の一つと聞いたことがある。
 そんな大通りを歩く人の多さもまた圧巻だった。あまりに人が多すぎて、十歩も進まぬうちに誰かと肩が触れ合うほどだ。そして誰しもそれが当たり前だと感じているのか、気にとめることなくそれぞれの世間話に花を咲かせて去っていく。
 結局シェリアは、アシュートに断りを入れた三日後に王宮を抜け出したのだった。すんなりと出てこられたのは、もちろんネイサンの手引きがあればこそだが、アシュートの密かな気配りも効いていたのは間違いない。
 街へ出るにあたって、万が一にも聖女であることがばれてはまずいとシェリアなりにうまく身を隠す服装などを考えていたのだが、それはネイサンによってあっさりと却下された。下手に隠そうとするとますます目立つものなのです。忍ぶプロがそう言うのだから間違いないのだろう。ネイサンに用意された服を身につけてみると、その素朴さが華やかなシェリアの外見とどうにも合わないような気がしたものだが、実際人込みに紛れてしまえば驚く程にしっくりと収まってしまった。
 以前はこの街中を普通に行き来していたのだなあと感慨を抱きながら、シェリアは辺りを見渡した。今となってはそれがにわかに信じがたい。本当に、これほど活気に溢れた空間に身を置いて、なにも感じずただ通り過ぎていたのだろうか。
「なにか気になるものでも?」
 昔を思い出して視線を飛ばすシェリアが、なにやら物欲しげに見えたのだろう。隣を行くネイサンが控えめに声をかけた。
「ううん、そういうわけじゃないんだ。ただ、今の私には珍しい景色だから」
 答えながらも顔は店の軒先を向いている。小さな女の子が背伸びをしながら、緊張した面持ちでパンを買う。シェリアは顔をほころばせた。
 ゆったりとした足取りでしばらく道を真っ直ぐ進むと、やがて自慢の石畳は小石と砂利の混じったそれに代わっていった。同じように商店も少しずつ数を減らし、静かな住宅街へ入ろうとしている。
 向かう先がどこだかわからないので、シェリアはただネイサンについていくのみだった。しばらくは道なりに歩いていたのだが、やがて路地が細くなっていくと頻繁に角を曲がるようになった。見える景色が、少しずつ、ただ「静か」なだけではない独特の雰囲気に変わっていく。
 しかしシェリアも元は地元民、土地勘はそれなりにあった。こんな路地裏に踏み込むのは初めてのことだが、自分たちが今どの辺りにいるのか多少なりとも察しはついた。大通りを真っ直ぐ突っ切って来たから錯覚しがちだが、実際は思うほど遠くまでは来ていないようだ。――おそらく王宮からそう離れていない。街中に興味を示すシェリアに付き合ってわざわざネイサンが迂回してくれたのか、それとも迂回しなければ入り込めない路地の造りになっているのかは分からなかった。
 馬車一台も通り抜けられないような細い道の両脇には、ぽつりぽつりと店が構えられていた。大通りにある店のように開放的ではなく、どれもぴったりと扉を閉めてある。それでも店だと分かるのは、小さいながらも看板が出ているからだ。
 こんなところを行き来する人間は、さぞかし怪しい身なりの者か、さもなくば浮浪者であろうと思ったシェリアだったが、意外にもすれ違うのはごく普通の人々ばかりである。それをこっそりネイサンに耳打ちすると、
「いかにも怪しい格好でうろつく犯罪者なんてそういません」
 と、にべもない答えが返ってきた。
 確かにその通りなのだが、その言葉を更に咀嚼して考えてみれば、この界隈に出入りするのはやはり後ろめたい事情を抱えた者がほとんどだということになる。
 同じような建物ばかりが並んでいるので、一見すれば一続きの壁のようだったが、ネイサンはある建物の前で足を止めた。見上げれば、壁から生えた小さな角のような看板に靴と金づちの絵柄がある。靴の修理屋ということか。
 靴? とシェリアが首をかしげる間に、ネイサンはあっさり扉を開いて中へ足を踏み込んだ。慌ててシェリアもその後に続く。
 扉の向こうには、靴と修理道具の山で埋まりかけた薄暗い部屋が広がっていた。そのどれにも埃が被っている。 
「いらっしゃい」
 部屋の一番奥に備えられたカウンターには若い女性が一人で座っていた。気だるそうに頬杖をついて本のページをめくっている。彼女にまで埃が降り積もっているのではと思ってしまうほどこの部屋に馴染んだ様子だ。客にかける言葉にもまるで愛想はない。
 シェリアたちが床を踏みしめるたびに、ぎしぎしと悲鳴のような音が上がった。その音をしばらく聞いてから、やっと女性は顔を上げた。
「なんだ、アンタか。また来たの」
 女性は頬杖をついたままネイサンに声をかけた。
「近々また来ると言っておいただろう、サラ」
「女連れで、とは聞いてなかったけどね。あてつけかい? ひどい男だね」
 口の端を持ち上げるように笑って、女性――サラは視線をシェリアに向けた。
「これまた大層美人なお嬢ちゃんね。この子がミリファーレ様の行方を知りたいって?」
 ミリファーレ、それがアシュートの妹の名前なのだろう。
「ミリファーレ様の情報は売らないつってんのに、ネイサンもしつこいったらないよ。まあ一応、とにかく調べておけって言う通りにはしたけどね」
「ということは、現在どちらにいらっしゃるか掴んだんだな」
「掴むもなにも。うちら仲間内では前から有名な話だよ。どこにいるかってだけなら、調べるまでもない」
 あっさりとサラは言った。
「その情報を買いたい」
「だぁから、あんたも分かんない男だね。この情報だけは売れないの。いくら馴染みのあんたに言われたってそれは無理。この間来た時にだって言っただろう? ミリファーレ様に関する情報は、うちらにとって最大のタブーなんだって」
 サラは煙を払うような仕草をして首を振った。それから視線を落とし、ほんのわずかになにかをためらう様子を見せる。
「……ネイサン、あんた騎士団で働いてるんだったよね? なら、これだけは教えといてあげる」
「……」
「王宮の関係者なら、ますますミリファーレ様の行方なんかに首を突っ込まない方がいいよ。あの人は、今は『ロクなことをしていない』」
 思わずシェリアは身を乗り出した。
「あのっ、それ、どういう意味ですか! ミリファーレさんはどこでなにをしているの? お願い、教えてください!」
 堰(せき)を切ったように畳み掛けるシェリアとは対照的に、サラは落ち着いた表情を崩さない。
「ねえあなた、さっきから気になってたんだよね。その髪、その瞳、その美貌。――もしかして、あなた、聖女シェリアスティーナ様ご本人なんじゃないの?」
 落ち着いているように見えたサラは、しかしうっすらとその額に汗を浮かべている。
「……そうです」
 ここで否定しても始まらない。シェリアがはっきり頷くと、サラは信じられないというように大きく息を吐いて頭(かぶり)を振った。
「ネイサン、あんたなに考えてんだよ。よくもまあこんなところに聖女様なんて連れてきたもんだね」
「ネイサンには、私が無理を言って案内してもらったんです。とにかく私、ミリファーレさんの行方をどうしても知りたくて」
 サラは眉間に皺を寄せて、瞳を閉じた。ひどい頭痛がするとでも言いたげだ。
「あのねえ……」
「細かい話は関係ないだろう。お前も情報屋なら分かっているはずだ、依頼主が望んだ情報がなんのために必要で、どう使われるのか――それは情報屋の感知するところじゃない。情報屋は、ただ報酬に見合った情報を渡すだけ」
「んなことは、あんたに言われるまでもないよ」
「今回に関して言えば、情報を売れないもっともな理由がお前にはあった。だからこちらはその原因を取り除いた。もうお前に情報の提示を拒否することはできないはずだ」
「だからってねえ。……ちょっとくらい、混乱させてくれたって、いいだろう。なんだって……、情報を流すなっつったご本人が、いきなり」
「事情が変わったんだ」
 ネイサンはあっさりと告げた。
「……ここで情報を渡して、私がぶっ殺されるってオチはないだろうね?」
「それはもちろんです! 絶対にあなたに危害を加えるようなことはしません。誓います」
 誓われたって仕方がないが、とサラはため息混じりに呟いた。
「まあいいだろう。こっちもせっかく調べたんだ、ただ追い返しただけじゃ骨折り損もいいとこだからね。ネイサンも、調べろって言うからにはなにかしら考えがあるんだろうとは思ってたが、まさか本人連れてくるとはねえ」
 サラは手元の本を閉じ、立ち上がった。
「裏に入んな。こっからは『情報』だ」
 顎で指し示した先は、ボロボロの壁と同化しかけた木の扉だった。シェリアはネイサンを見上げる。その視線を受けて、ネイサンは小さく頷いた。

 扉の向こうはやはり質素な部屋だったが、靴やらなにやらがひしめいていた表と違い、無駄なものの見当たらない空虚な空間だった。目に留まるのは小さなテーブルと、その上に乗せられたランタン、そして三脚の椅子といった程度だ。四方は土壁で囲まれており、窓は無い。
 シェリアたちはサラに促されるまま椅子に腰かけた。足が痛んでいるのか、座った椅子がぐらりと揺れる。
「早速本題だよ。ミリファーレ様がどこでなにをしているか」
 ごくり、シェリアは唾を呑み込んだ。

「ミリファーレ様は――反聖女派の組織に入り、その一員として活動している」

 ――え?
 シェリアはそう、呟こうとした。

 ――だが、口を開いても、かすれた声すら出てこなかった。
 今、この人はなんて言ったの?
 身体が全く動かなかった。思考回路も固まった。一体サラがなにを言っているのか――とっさには判断できなかった。
 しかし時間をかけて音を一つずつ噛みしめて、やっとその意味を理解した途端。
 頭の天辺から足のつま先まで、一気に悪寒が駆け下りていくのを感じた。
「聖女様はどうだか知らないけど、ネイサンは知ってるだろう? 反聖女派の人間が組織を作って裏で活動していること。ほとんどのメンバーが王宮で痛い目を見て追い出された人たちのようだけど、ここ最近では組織力も高まってきて、王宮側としても見過ごせなくなってる。アシュート様の妹君、ミリファーレ様は、その反聖女派の一員なのさ」
 ……手の感覚が、無くなっていく。
 シェリアはゆっくりと己の手を握り締めた。
「ミリファーレ様は、聖女シェリアスティーナ様に王宮を追い出されてからしばらくの間、安宿を転々としていたんだ。そうね、大体一月ぐらいはそうして毎日をやり過ごしていたらしい。だけど手持ちの金もそのうち底をつくでしょう。そろそろヤバいって頃になって、やっと働き口を探し始めたみたいだね。でもねえ、まだ年端も行かない女の子が、住む家も無い親類縁者も無いって状態で、まともな所に雇ってもらえるわけがないんだよね。そうなると、残された道はただ一つ」
 サラは言葉を切って、軽く肩をすくめた。
「……のはずだったけど、ミリファーレ様はそうじゃなかった。もう一つあったんだよ、春を売る以外の道ってやつがね。ミリファーレ様は、仮にも大貴族のご令嬢。しかも第一神聖騎士アシュート様の妹君だ。そんなお嬢様が王宮を追放されたとなれば、その動向を気にかけてる人間はたくさんいたのさ。もちろんアシュート様を始めとする王宮の面々もそうなんだが、逆に『王宮を追い出された面々』もミリファーレ様の様子を探っていたわけ。そして先に彼女を見つけたのは、そう――反聖女派の方だったのさ」
 物語を紡ぐような口調でサラは話し続けた。シェリアは彼女の口が動くのをただじっと見つめ続けた。
「その当時はまだ、反聖女派の面々もてんでバラバラでさ、組織って言えるほど大層なものでもなかったらしいけど。ミリファーレ様は彼らに迎えられ、それを受け入れた。それ以外どうしようもなかったんだろうけどさ。とにかく、そうして『大御所』を迎えたことによって、反聖女派は格段にまとまりがよくなった。間違いなく、ミリファーレ様は反聖女派の要だね」
「……今はどちらにいらっしゃる?」
 ネイサンは動揺も見せずに問いかけた。シェリアのすぐ隣に座っているはずなのに、はるか遠くからその声が響いているようだ。
「悪いけど、それは言えない。それを売っちゃあ、聖女様には殺されなくても反聖女派に殺されてしまう。ここまでがギリギリだよ」
 サラは強い眼差しできっぱりと拒絶した。
「今ではミリファーレ様も随分やる気だよ、色々とね。もうかつての大人しいだけのお嬢様じゃなくなっちゃったのさ。反聖女派は、いつか大きな行動を起こすだろう。その時ミリファーレ様は、ただ組織のお飾りとして高みの見物しているだけじゃなさそうだ。……どうしてもミリファーレ様を見つけ出したいってんなら、まずは反聖女派を根こそぎ捕えて鎮圧することだね。そこからだよ、話は」
 気持ちが悪い。
 吐きそうだ、とシェリアはぼんやりと思った。