50.
にわかに慌ただしくなった王宮内では、ほんの数歩歩くたびに誰かしらがアシュートに声をかけてきた。今後の見通しは、軍としての対応は、国王の考えは……。中には混乱に乗じて中身のない挨拶を寄こす者まで出る始末だ。
ここ十数年、あまりにも平和な時が続きすぎた。だから今回のように、ちょっとした内乱が起こっただけでも人々の興味は吸い寄せられてしまうのだ。もちろん軽視していい出来事ではない。しかし祭り気分で騒がれても困るのだ。
反聖女派との衝突は、確かにこれまでにない大規模なものだった。とはいえ、アシュートに言わせれば、王宮をひっくり返したような騒ぎになるほど切迫した話でもない。
やはり派閥はまだ地方にまで勢力を伸ばしきれていないのだ。態勢の整わない反聖女派に戦いを仕掛けたのは地方軍の方である。しかも、不釣合いなほどに圧倒的な兵力を以ってして。鎮圧まで瞬きをする間の出来事だったと聞いているし、どうやら負傷者もそう多くは出ていないらしい。それならば、後の始末は地方軍に任せても平気だろう。
今のアシュートにとっては、それよりも他に気にかけるべき大問題があった。気にかけるべき――いや、気にかけずにはいられないと言った方が正しいか。
妹、ミリファーレの行方について。
反聖女派との衝突の一報が入ってから、数え切れないほどの人間がアシュートに声をかけてきた。アシュートを取り巻くのは、つい聞き流したくなるような毒にも薬にもならない話題ばかり。しかしそんな中で、唯一実のある情報をもたらしたのが聖女の護衛役、ネイサンだった。
ついに、ミリファーレの行方が特定できた。――しかも、最悪の形で。
今はそのことばかりがアシュートの頭の中を駆け巡っている。
とっぷりと日が暮れ、やっと戻った私室のソファ。そこに浅く腰かけたアシュートは、まるで寛ぐ様子を見せなかった。唇を固く結び、ひたすら宙を睨みすえている。
覚悟はしていたのだ。ミリファーレの行方が長く掴めずにいたことで。
世を知らぬ若い令嬢が突然外に放り出され、したたかにやっていけると思う方がどうかしている。すぐに行き詰って世間からはじき出されるだろうと踏んでいた。だからこそ、街中の娼館にまで密偵を放っていたのだ。
それでもまるで消息は掴めなかった。街のごみ溜めのような場所にさえ彼女の足跡は見当たらないのだった。
――では、それが意味することはなにか。
意図的に捜索の網をかいくぐっているということ。
――しかし非力な娘が手練の目をくらますことができるのか。
否。
――それならば一体どうしているのか。
なにか大きな組織が、ミリファーレを抱え込んでいる。
――では、その組織とはなにか。
王宮を追い出されたミリファーレを手に入れることで利を得る組織。ここのところ急激に結束力を高め始めた反聖女派。
最悪の仮定ではあったが、また同時に十分起こりうる仮定でもあった。
そして実際に――。
(どうする……、どうする)
いくら自問しようと、天地をひっくり返すような名案が浮かぶはずもなかった。ミリファーレは自らの意思で反聖女派の一員として動いているという。聖女シェリアスティーナを排除するという明確な目的を持ち、その組織の一翼を担っているとするのなら。自分の妹だからといって見逃すことはもちろんできない。これから反聖女派との戦いが本格化していく中で、ミリファーレと対立するのは避けようのない必然となるだろう。
(対立……するのか、私は。ずっと探し続けていた妹と)
どうにか守ってやりたいという思いももちろんある。今すぐ王宮を抜け出し、反聖女派のアジトに突撃し、ミリファーレだけを連れ出すことができれば。そして失われた日々を取り戻すことができれば、どんなにいいだろう。
しかしそれは、きっと叶わない。漠然とした確信がアシュートの胸の内に漂った。
そして同時に、己の立場を捨てきれない自分に呆れも抱いた。この身はこうも「第一神聖騎士」の名に染まっているのか。唯一残された肉親を救うために動けない。そうしたいと思っても、実際身体はそのように動かない。この国に害なす者となれば、例えそれが生き別れた妹であっても見逃すことはできないのである。
(ミリファーレ……)
名前を、口にすることはできなかった。名を呼んでしまえば、色々なものが崩れてしまうと思った。
「アシュート、ちょっといいか」
ちょうどその時、扉越しにジークレストの声が聞こえた。
「ああ、鍵は開いてる」
アシュートは幾分ほっとしながらジークレストに応えた。これ以上一人で考え込めば、惑いと苦しみでがんじがらめになってしまいそうだ。
ジークレストは気楽な様子で部屋に入ってきた。すでに仕事は切り上げたらしく、軍服は脱ぎ捨てラフな私服に着替えている。帯剣もしていないが、たとえ曲者が束になってかかったところで、彼の太い腕によって地に沈められるのがせいぜいであろう。
「もう寝るところだったか?」
当たり前のようにソファの背もたれに腰を下ろしたが、アシュートもいちいち咎めたりはしなかった。
「いや」
「そうか、ならいいんだが。……それより、ついに動いたな」
なにが、と聞くまでもない。反聖女派との衝突の一件だ。王宮側から仕掛けた戦だったというのは、もちろんジークレストも知っている。
「そろそろやるかと思ってたけどよ」
「ああ。思っていた以上にすんなり片がついたらしいな」
「ま、その辺ちゃんと見極めてケンカ売ったわけだろうし。どう転んでも向こうにとっちゃ負け戦だ。気の毒なことだな」
「百人に満たない反聖女派に対して地方軍は千人近い規模だったんだから、確かに気の毒ではある」
ジークレストはにやりと笑った。
「うちの国王も人が悪いぜ。今までほったらかして好き放題やらせてたくせに、いきなり千人も送り出してぷちっと踏み潰すんだもんなあ」
「深いお考えあってのことだろう。いたずらに反聖女派を泳がせていたわけではないはずだ」
「うーん、思うに、このところの平和ボケを引き締める考えだったんじゃねーかな。反対勢力があることをわざと民や周辺地域へ知らしめて、緊張させる。さらにそいつを圧倒的な力でねじ伏せることで、王宮の軍隊の強さを見せつける――そういうことじゃないか?」
小さな芽のうちにそっと摘んでしまうのではなく、わざわざある程度まで育ててから派手に刈り取る。確かにそういうパフォーマンスは有効だとアシュートは思った。この平和な時代、軍隊は国のお飾りに成り下がっている。神聖騎士団の制服が眩しい白というのも、式典等での見栄えを重視したからこそ。実際戦いに明け暮れる軍隊ならけして白など採用しないだろう。それが今回の出来事で、この国の軍隊は「戦える集団」であることを皆に見せつることができたわけだ。
「だが、それだけじゃない」
アシュートは言葉を継いだ。
「もともと反聖女派は、聖女によって王宮を追い出された人間たちが裏街で集まったものだ。だが、その一方で、王宮をまだ追い出されていない『反聖女派』も存在する。つまり、今の王宮は身内にも敵を抱えている状態だということだ。今回こうして大々的に反聖女派と対峙することで、内に巣食う対立派を炙り出そうという目的もおありなんだろう」
王宮の外で大きな動きがあれば、必ず中にいる反聖女派もなにかしらの行動に出るに違いない。そしてきっとその時に、王宮側の次の行動が決まるだろう。今度の衝突は、そのための前哨戦に過ぎないのである。
ジークレストは、むう、と黙り込んで右手を口元に添えた。
「だがな、アシュート」
「なんだ」
「あのお気楽変人国王が、そこまで考えて行動してるとは思えねーんだが」
「……不敬だぞ」
「お前だってちょっとはそう思うくせに」
「……あの方は、時々側近にも胸の内を語らず行動に出られることがある。それには少し、困惑している」
「だろ」
ジークレストは満足げに頷いた。
「でさ。全然話変わるんだけどよ」
そして、今までの話の方がおまけだと言わんばかりの勢いで身を乗り出した。
「シェリアのことなんだが」
思わぬ名前が飛び出て、アシュートは面食らってしまう。
「さっき風呂から戻ってきたとこ見かけたんだけど、この世の終わりが来ましたって顔してたんだよな。シェリアのやつ、今度は一体どんな問題見つけてきたんだ?」
「……」
考えるまでもなかった。すぐにアシュートにはその理由が分かった。
それは、今しがたまで自ら没頭していた問題――妹ミリファーレの件に相違ない。
他ならぬネイサンが報告に来たということが、なにを意味するのか。アシュートが気づかぬはずがなかった。ネイサンは今日一日シェリアスティーナに付いて街へ出かけていたはずだ。そこで拾った情報というなら、共にいたシェリアスティーナも知らないわけがないのである。
いや、知らないどころか。そもそも彼女が頑(かたく)なに街へ出たがっていた理由こそがミリファーレに関することだと推測するのは、難しいことではなかった。
おそらくシェリアスティーナは、アシュートの妹の話を誰かから聞いたのだ。自らの緘口令が原因でいまだ行方を掴めないということも知って、じっとしていられなくなったのだろう。そして街へ出て情報を集めに走った。その結果得られた事実に――彼女ならば、きっとひどく責任を感じているに違いない。
「おいアシュート、なんだよ黙りこくって。心当たりがあるのかよ?」
一人考え込んでしまったアシュートに痺れを切らしたのか、ジークレストが乱暴に尋ねた。アシュートは重い表情のままそっと首を振る。
「……分からない」
自分の気持ちが。アシュートは心の中でそう付け加えた。だが、分からない、のだろうか。ただ考えたくないだけなのかもしれない。
今度のミリファーレの件を振り返ってみても、あのシェリアスティーナを責める気になれないことは確かだった。その件で彼女が自分を追いつめているのだと思うとやりきれない気持ちにすらなる。悪いのは彼女ではなく、以前の残虐な聖女シェリアスティーナなのだ。ごく自然にそう思っている自分がいる。
だが、それを告げたところで、あのシェリアスティーナは自分を責めることをやめないだろう。
(また私から距離を置くだろうな)
そう思うと憂鬱だった。これまで長く目を背け続けてきた存在。やっと正面から向き合おうと思った矢先に、彼女はどんどん自分から離れていく。
(だが、それも仕方がない)
走って追いかけていって、私から離れていくなと言えるわけがない。――いや、しかし。果たして本当にそうだろうか? もうすでに、自分は十分――。
はっとした。
「まあなんにせよ、これからもシェリアのこと気にかけてやってくれよ。あいつ、大人しくて人の言うことハイハイ聞いてそうなのに、実際は一人でどこまでも突っ走るようなタイプだからな。お前が時々手を引いて止めてやるくらいがちょうどいい」
アシュートはまじまじとジークレストを見つめた。
「これからも、だと?」
その問いかけに、ジークレストはきょとんとする。
「お前、なんだかんだでシェリアのことちゃんと見てやってるじゃねーか。だからこれから先も、って」
ジークレストは面白そうにアシュートの顔を覗き込む。
「そういうつもりじゃなかったって?」
「……」
アシュートは答えず、窓の外に視線を投げた。今夜は雲ひとつない星月夜だ。この夜空だけは誰の上にも平等に広がっている。シェリアスティーナも今頃はこの広い空を見上げているのかもしれないと、アシュートはなぜかそんなことを思ったのだった。