51.

 空が高い、とシェリアは思った。
 星の輝く夜空を眺め、一人庭に佇んでいる。建物の合間から見えるこの空は、まるで額縁に収められた絵画のようだ。降り落ちるほどの星が輝いているので、点在する控え目な照明がなくとも足元に不安はなかっただろう。
 こんな遅い時間に一人で中庭に来るなど、愚かなことをしていると自分でも分かっている。それでもシェリアは部屋から抜け出してしまった。
 ――ずっとずっと、ミリファーレのことを考えていた。
 どうするのが一番いいのか、これからどうなっていくのか、せめてなにか一つくらいは自分にできることはないのか。考えすぎて息がつまった。本当に、胸が苦しかった。深呼吸を何度も繰り返したけれど、それでも空気が足りない気がした。だから部屋を抜け出したのだ。外の空気を思い切り吸い込みたい、それだけを思って半ば発作的に部屋の扉を開いた。
 考え抜いて分かったこと、それは、ミリファーレの件で自分にできることはなにもないという空しい事実だけだった。
 シェリアが秘密裏にミリファーレを見つけ出すことは、不可能に近い。人に頼むにしても様々な点で危険が大きすぎる。それに、事は既に公になってしまったのだ。シェリアに限らず、個人が単独で行動してもいい時期は過ぎた。いや、そもそもミリファーレが反聖女派に迎えられた瞬間から、これは王宮全体で取り組むべき問題となってしまったのだ。全ての原因がこの身にあると知っても、もはやどう責任をとればいいのか分からない。
(アシュートは大丈夫かな)
 改めてシェリアに対し憎しみを抱くであろうことは分かっている。だが、怒りの矛先をシェリアに向けるだけならまだしも、それを彼自身に向けてしまうのではないかと思った。ミリファーレを守れなかった自分を許せないと思う、アシュートはそういう人だ。
(せめて……せめて、誰の血を見ることもなく解決しますように)

「シェリア」
 不意に声をかけられて、シェリアははっと身を強張らせた。夜空から目を離すと、吹き抜けの廊下に人が立っているのに気がついた。
 ライナスだ。
 そう気づいて、シェリアは大いに慌てふためく。夜更けに一人出歩いているところを見つかったという焦り。そしてなにより、声をかけてきたのがライナスその人であるという事実に対する困惑が大きかった。いつかは彼と話し合わなければならないと思っていたけれど、今この時点では心の準備もなにもできていなかったのに。
「なにをしているんだい?」
「……あ、あの」
「こんな時期に一人で出歩くなど、不注意が過ぎるよ」
「……ごめんなさい」
 ライナスはゆっくりと歩み寄ってきた。そして身にまとっていたストールをシェリアの肩にそっとかける。ライナスの声も、その動作もとても優しくて、シェリアは驚きよりも先に切なさがこみ上げてくるのを感じた。
 聖女の身体に入って生活するという不可思議な状況に置かれて、一番最初に笑顔を向けてくれた人。そして今でも唯一、シェリアの真実を知っている人。どんなことがあっても、シェリアにとってライナスは特別な存在だった。彼に敵意を向けられ、そのために疎遠になっていたことは、やはりどうしようもなくつらく悲しいことだったのだ。
「こうして話すのは久しぶりだね」
「……うん」
「すこしやつれたかな。だとしたら、その原因は私にもあるのだろう」
 ライナスは自嘲気味に笑みを浮かべた。
「この王宮内で暗殺者にも狙われたそうじゃないか。それなのに一人でこんなところでぼうっと立っている。君の姿を見つけて、私の心臓が縮んだよ」
「よく私に……気が、ついたね」
「すぐそこが、私の部屋だから。人の気配を感じて様子を見に来たんだ」
 言われてみれば、確かにこの中庭はライナスの部屋のすぐ側にあるのだった。以前、ここからライナスの部屋へ向かい、そこで彼の話を立ち聞きして――。
 シェリアはかすかに身震いをした。その時のことを思い出すのは、今でもつらい。そうだ、あの時ライナスがシェリアに向けた言葉が本心からのものだったなら、暗殺者を差し向けた黒幕こそが彼自身なのではないか? 一時期そんな疑念に捕らわれたことも思い出し、シェリアはライナスの表情を窺った。
「暗殺者を君のところに送ったのが、私だと思うかい?」
 シェリアの考えなどお見通しらしいライナスが、穏やかに微笑みながらそう尋ねた。なんとも答えられず、シェリアは慌てて目を逸らす。
「私ではない。君の存在を認められぬからといって、消してしまえばいいと考えるほど単純ではないつもりなのでね。信じる信じないは君次第だが」
「し、信じる」
 恐る恐る、シェリアはそう呟いた。
「――信じる、か」
 ライナスは顔を上げ、遠い夜空を眺めた。
「君はすぐに人のことを信頼する。そのために傷つくこともきっと多いのだろう。だが、だからこそ、無力でありながらも人からの信頼を得ることができるのかもしれない。……私にはとてもできないがね、他人を安易に信じることなど」
 その言葉はやはり胸に刺さった。シェリアはぎゅっと両手を握り締める。
「誰かを信じたいと思うこともある。だがそのためには、その『誰か』を知りつくさねば気がすまないんだ。そうでなければ信じられない。君のこともそう。私の立場上、いつも君を疑っていなければなるまい。だが、決して君の人間性まで否定したいわけじゃないんだ。そういう意味では君を信じたいと思うよ。しかし私は君自身のことについて、なにも知らない」
 だから君を信じられないんだ、とライナスは感情のこもらない声で囁いた。
「……まだ、教えてはもらえぬかい。本当の『君自身』のことを」
 感情はこもらずとも、ひたすら穏やかな声だった。心地いいとさえ感じる声。しかしシェリアが顔を上げると、ぶつかった瞳はとても真剣な色を宿していた。
「……私、は」
 ライナスの眼差しに気圧されて、シェリアは訥々(とつとつ)と語り出す。言葉より先に、押し寄せる感情が溢れ出てしまいそうで、上手く喋ることができなかった。
「私は、もともと、この国の人間だったの。普通の町娘で、王宮からもそう離れていない小さな家で、薬草売りをしながら家族と暮らしてたよ。本当に、なにもかもが普通だった。一人娘だったし、両親には本当に大切に育ててもらった。近所には同じ年頃の子供がたくさんいて、兄弟みたいに毎日遊んで。お店に来てくれるお客さんも、みんな親戚みたいだった。普通の毎日だったけど、私はとても幸せだったんだと思う」
 今はもう遠い昔の出来事のよう。本当にそんな日々を過ごしていたのか分からなくなってしまうほどに。
「でもね、ある日、私は馬車に轢かれて死んだ」
 あの時の衝撃――思い出そうとしても、もはや鈍い感覚がわずかに蘇るだけだ。
「本当だったら、そのまま天に召されていたんだろうね。でも、ちょうどその頃、シェリアスティーナの魂が限界に達してた。シェリアスティーナは」
 そこでユーナは口をつぐんだ。告げてしまってもいいものか。だがすぐに、ここまで来て隠し立てしても仕方がないと思いなおした。
「シェリアスティーナは、自分で命を絶とうとしたんだよ。でも彼女は聖女でしょう、そのまま死んでしまうわけにいかなかった。だからしばらくの間、神のもとで魂の休息を、取ることになったんだ。その間、私の魂がシェリアスティーナの代わりを務めることになって、この身体に宿されたの。つまり私は、ただの、普通の人間だよ。もう――本当は、死んでるんだけどね」
「では、シェリアスティーナの休息が終わったら?」
「その時は、今度こそ天に召されると思う。初めから、一時(いっとき)のことって言われているの。だからこのままこの身体に居座ることはありえない」
 ライナスは真面目な表情を崩さなかった。わずかな沈黙。彼がなにを考えているのか、シェリアには読み取ることができない。
「……なぜ」
「え?」
「なぜ、もうすぐ死ぬと分かっていてそれほど真っ直ぐ懸命に生きられるんだ」
 少し怒っているかのような物言いに、一瞬シェリアはたじろいだ。だが想いはこの胸にしっかりと息づいている。これまで何度も迷い、今も迷い、それでもどうにか前を向いていられる理由は、もう分かっている。
「もちろん怖いよ。もうすぐこの世からいなくなるって考えただけで、気が狂っちゃいそうなほど、怖い。その事実から目を逸らし続けたい気もするよ。でも私、こんな境遇に置かれて初めて知ったこともたくさんあったんだ。こうして息をしている毎日がとても尊いものだっていうこととか、目に映る景色が美しいもので溢れてるっていうこととか。一緒に過ごす人たちが、皆愛しいっていうことも、そう」
 くだらない綺麗事だと思われるかもしれないけれど、でも実際にそうなのだ。
「だから私、俯きそうになる顔、なんとか上げて歩いてる」
 言いながら、シェリアは不思議と満ち足りていくのを感じていた。今だけは、シェリアスティーナとしてではなく、本当の自分として自分自身の言葉を口にしている。そしてそれに耳を傾けてくれる存在があることは、救いとさえ思えた。
 ライナスは再び黙り込んだ。夜更けだというのにどこか眩しそうに瞳を細めている。深い海を思い起こさせる、穏やかな憂いが彼を取り巻いていた。
「シェリアスティーナも、君ほど強い子であったら」
「……」
 私は強いわけじゃない、いつも弱い心を抱えてる。シェリアは言葉にはせず、そう答える。
「君の、本当の名前は?」
 優しく問いかけられて、シェリアはゆっくりと瞳を閉じた。
 大きく息を吸い込む。夜の少ししめった空気が胸いっぱいに広がっていく。
 もう一度瞳を開いてそっと空を見上げると、変わらず星空は美しかった。

「――ユーナ」

 懐かしい名前。
 あの空の星のように遠い名前。

 ライナスは空を見上げるシェリアの横顔を眺めていた。それからシェリアに手を伸ばしかけたが、結局その手は宙を少し彷徨っただけで下ろされた。それから後ろを振り返り、軽くため息をつく。
「誰か来たようだ」
「え?」
 シェリアもつられて振り向いたが、誰もいない。しかしそう思ったのは一瞬のことで、よく目を凝らせば背の高い影が足音も立てず歩み寄ってくるのが見えた。
「ネ、ネイサン」
 背格好と歩き方ですぐに分かった。
「こんな時間も聖女の護衛とは、立派な心がけだな」
 ライナスは感心しているとも皮肉っているとも分からぬ調子で言った。
「お邪魔でしたか」
 ネイサンの方も皮肉と取れる言葉を返したが、彼の場合は深く考えての発言ではないだろう。
「いや、私としても助かるよ。不審者の跋扈(ばっこ)する王宮で、私がシェリアを部屋まで送り届けるのは荷が重過ぎる。君がシェリアを送ってやってくれ。私は気分が優れぬので、もう休むことにするよ」
 立ち去るライナスを呼び止めようとして、シェリアは口を開きかけた。もっと話がしたい、色々なことを話したいのだ――。
「シェリア、知りたいことがあるのなら、また日を改めておいで」
 途中一度振り返ったライナスは、見越したようにそう告げた。シェリアは遠ざかる彼の背中をしばし見つめ、風になびく髪をそっと押さえる。
 絹のような滑らかな髪は、どんどん手から零れていった。

 翌日、侍女カーリンが両手いっぱいに花束を抱えてやってきた。
 寝不足気味のシェリアだったが、その色鮮やかな花々を見て一気に目の覚める思いがする。
「うわあ、すごく綺麗!」
「この花は、以前シェリアスティーナ様が贈ってくださったものの一部なんです」
 随分元気になった様子のカーリンが、嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、まだ咲いてたの?」
「残念ながら、さすがにほとんどの花はお役目を全うしまして……。これは、最後の方に頂いたものです。シェリアスティーナのお部屋に飾らせていただければ、更に長く咲いてくれるのではないかと思ったものですから」
「わざわざありがとう、嬉しい」
「さっそく活けますね」
 しっかり花瓶を用意してきたらしいナシャが、張り切ってカーリンから花束を受け取った。
「そういえば、シェリアスティーナ様。最近また新しく花畑ができたんですよ」
 花の形を整えながら、何気なくナシャが話を振る。
「新しい花畑?」
「ええ、ずっとなにもない平地だったところなんですけどね。ここ最近で白い花が一気に咲き始めて、それはもう美しい光景だそうです」
「ナシャ、それは」
 さっと顔色を変えてカーリンが口を挟んだ。ナシャはきょとんとした表情で先輩侍女の顔を見返す。なぜ止められたのか分からないという様子だ。
 シェリアにはカーリンが焦った理由がすぐに分かった。ナシャの言う花畑とは、恐らく聖女シェリアスティーナが焼き払った白いセルミナ畑の跡地のことだ。先々代の聖女が作った白い花畑を全て燃やし、代わりとでもいうように、そのすぐ隣の土地に新しい花畑を作らせた。そして、以降旧セルミナ畑への立ち入りを一切禁ずる命令を出したのだ。
 カーリンは、聖女のかつての凶行をシェリアに思い出させたくなかったのだろう。シェリアの機嫌を伺うというよりも、思い出すことでシェリアの心が傷つくことを懸念しているようだった。
「白い花って、セルミナかな?」
 シェリアはカーリンを安心させるように、穏やかな声で話を続けた。
「ええっと、申し訳ありません、花の名前は存じてなくて」
「きっとそうだと思うな。あそこはね、もともとセルミナの花畑だったんだよ。それがなくなっちゃってからは淋しい土地だったけど……、そっか。とうとう花が咲いたんだ」
 自然と顔がほころぶ。ロノさん、頑張ってくれてたんだね。ここにはいない花畑復活の立役者にねぎらいの言葉をかけた。
「私、前にそこへ行ったんだ。花がなにもない状態のときにね。土地が本当に痛んでいて、なかなか花が咲きそうもないって聞いてた。でも、その時はちょうど、芽が一つ出たところだったの。それが順調に育ってくれたんだ」
 シェリアの落ち着いた話しぶりにカーリンも安心したようだ。強張らせていた表情を解き、二人の話に控え目に加わる。
「きっとそれも、シェリアスティーナ様のお力あってのことでしょう」
「そうかなあ。でも一番はやっぱり、長い間土地の世話をしてくれた人のお陰だと思う」
「そうだ! よろしかったら、これからセルミナ畑まで散歩にいらしてはいかがですか?」
 名案だというようにナシャが手を叩いたが、それに答えたのはシェリアではなくカーリンだった。
「なにを言っているのです。シェリアスティーナ様はこれから儀式がおありでしょう。お仕えする身で、シェリアスティーナ様のご予定も把握していないの?」
「あ……、そうでした。すみません」
「え……、そうだったっけ。私も知らなかった」
 ナシャとシェリアは、顔を見合わせ笑いあう。ナシャの笑顔を見ながら、シェリアは庭師ロノの穏やかな微笑みを思い出していた。また今度、花とロノさんに会いに行こう。シェリアは思う。彼ならば、あるいは求めている答えを授けてくれるかもしれない。ミリファーレのこと、シェリアスティーナのこと、これからの自分のこと。巨大な迷路を彷徨う自分に、どうか出口への手がかりを授けてください――。