55.

 近頃空を見上げる回数が増えたと思う。
 この日もシェリアは窓から見える広い空をぼうっと眺めていた。上の空、とはよく言ったものだ。
 アシュートへの気持ちを自覚してしまってから、ますます考えごとがまとまらない。なにを考えようとしても、最終的にはアシュートのことで頭がいっぱいになってしまうのだ。
(もう、どうしたらいいの?)
 途方に暮れて、シェリアは何度目かになる溜息をついた。
 この恋が成就する見込みはない。あれこれと思い悩んだところで無駄なのだ。そう自分に言い聞かせてみるものの、そんなことではまるで心が納得してくれない。深みにはまればはまるほど後で苦しいと分かっているのに、どうしても動けないのだ。――ああ、つまりもう既に深みにどっぷりはまってしまっているということではないか。
(アシュートに会えないよ)
 どんな顔をして彼に会えばいいのだろう。近頃のアシュートは雰囲気が柔らかくなったから、余計に気恥ずかしくてたまらない。この気持ちだけは絶対に悟られてはならないと思うが、目が合っただけで苺のように顔を真っ赤に火照らせてしまいそうだ。
(どうしてこんな風に出会っちゃったのかな)
 せめて自分自身の姿で彼の側にいることができたなら、なにかが違っていたかもしれない。例えばそれこそ、シェリアスティーナの侍女として王宮で働いていたとしたら。
(でも、もしそうだったら、そもそもアシュートと知り合いにすらなれなかっただろうけど)
 それを考えるとどちらがよかったのか分からなくなる。頭の中がもうぐちゃぐちゃだ。どちらがいいのかなんて、考えること自体無意味だと理解している。それでも考えずにはいられないのだ。
(アシュートとは縁のない人生を送ることが一番よかった?)
 極論とも言える結論に至りかけ、ぶるぶると頭を振った。――そんな風には考えたくない。
「シェリアスティーナ様、ただ今戻りました」
 その時、部屋の扉越しにカーリンの落ち着いた声が聞こえてきたので、シェリアはほっと息をついた。とにかくこの話は、しばらく止めだ。他に考えるべきことが山ほどある。今カーリンが持って帰ってくれた話も、その一つだ。
「お帰りなさい。どうぞ入って」
 カーリンにはライナスのところへ行ってもらっていた。この後シェリアと会う時間を少し作ってもらえないかと打診するためだ。
 ライナスときちんと話をしよう。
 ここへ来て、ついにそう心に決めることができた。シェリアスティーナの真実を、きっと唯一知っている存在。聞きたいこと、聞かなければならないことが山ほどあるのに、気まずくなって以来目を逸らし続けてきた。だがそれももう、終わりにしなければ。
 この間の晩、たまたま彼と話をする機会に巡り会えたのは幸運だったと思う。ああいう機会でもなければ、おそらくずるずると逃げ続けていたことだろう。
 ライナスは言っていた。聞きたいことがあるなら日を改めて来ればいい、と。それはつまり、ライナスを訪れれば、聞きたいことに答えてくれるということになる。ずっと謎に包まれていたシェリアスティーナという人物のことを、やっと知ることができるのだ。
「ライナス、なんだって? 大丈夫そうだった?」
「ええ、それが」
 カーリンは表情を曇らせた。
「今、ライナス様は床に臥(ふ)されていらっしゃるらしく」
「えっ。それって、具合が悪いってこと?」
「ええ、そのようです」
「……ひどいのかな」
 言いながら、シェリアはこれまでのことを無意識に思い返していた。自室で軟禁状態に置かれていたときのこと、精神的な衝撃から気を失ってしまったときのこと、それに、この間の晩中庭でライナスと話をしたときのこと。
 いずれの時も、ライナスは体調が優れないと聞かされていた。実際に寝込んでいる姿を見たことはないが、これだけ続けば「たまたま」などという簡単な言葉で済まされる話ではない。
「ライナス、病気なの?」
 単刀直入に尋ねると、カーリンは少し困ったような顔をした。
「ご存知なのかと思っておりましたが」
 それだけ言って口ごもったが、シェリアがじっと見つめると、観念したように先を続ける。
「ライナス様は生まれつき身体が弱くていらっしゃいます。聖女様の血を引いていらっしゃいますから」
「どういうこと?」
 聖女の血を引けば病弱、そんなことはまるっきり初耳だ。
「聖女様と騎士様の間にお子様が誕生する確率は限りなく低いのです。理由は存じかねますが、長い歴史の中でも、お二人の間にお子様がお生まれになったのは数人を数えるほどだとか。皆生まれつき身体が弱くていらっしゃって、早くに亡くなってしまわれる方がほとんどだそうです。ライナス様のお年頃まで生きておられた方は今までいらっしゃらないそうで」
「そんな」
 では、ライナスはいつ死んでもおかしくない状況にあるということか。
 知らなかった。誰もそんなことは言ってくれなかった。――ライナス当人でさえも。
 わざわざ知らせる必要はないと判断されたのだろうか。だが、知っているのと知らないのとでは、なにかが決定的に異なるはずだ。
 カーリンは思いついたように話を続けた。
「そういえば、昨晩は満月でしたね。満月の日には、特にひどく体調を崩されてしまうそうです。きっとライナス様はそのために臥せっていらっしゃるのでしょう」
 あの晩のライナスの言葉が思い起こされる。なぜ、もうすぐ死ぬと分かっていてそれほど懸命に生きられるのか――。あのときライナスは、どんな気持ちでそう尋ねたのだろう。自らの境遇とシェリアの境遇を重ねていたのには違いない。そして、同じ境遇でありながら自分とはまるで考え方の異なるシェリアが不思議で、歯痒くて……。
(ライナスは、一生懸命生きていくことなんてできないと思っているのかもしれない)
 シェリアは胸が締め付けられる思いがした。せっかくこの世に生を受けながら、その喜びを実感することのできぬ毎日。それではあまりに悲しく空しいではないか。だが、シェリアにはライナスの気持ちも分かる気がした。
 終わりが見えている短い時間の中で、一体自分になにができるのか。そもそもなにかをする必要があるのか。目標を見つけそれに向かって突き進もうにも、いつ「時間切れ」がやってくるのか分からない。突然断ち切られてしまった人生という名の糸は、果たしてその後になにを残すことができるのだろう。きっとなにも残せない――そんなものではないのか。
 人は誰でもいつかは死ぬもの。死は平等に訪れるのだから、その身を嘆いて人生を投げてはいけない。そんなふうに諭す者もライナスの周りにいたかもしれない。それならば、代わってその者に問うてみたい。この先の短い我が人生とまだまだ続くあなたの人生、取り替えられても同じことが言えますか?
 死は平等でも、それまでの人生は平等ではない。
「私、ライナスのお見舞いに行きたい」
 意を決した表情で椅子から立ち上がると、カーリンはその気配に圧倒された様子で一歩下がった。
「迷惑がられるかもしれないけど、でも行く」
 居ても立ってもいられなかった。とにかくライナスに会いに行きたい。会わなければならないという気さえした。今頃ライナスは一人きりで身を蝕(むしば)む苦しみと戦っているのだ。
「それでは、すぐにお伺いを立てて参ります」
「ううん、いいよ。私が直接行ってみる。それでどうしても誰にも会いたくないようだったら大人しく帰ってくるから。護衛に、イーニアスかネイサン呼んできてくれるかな」
 自分がライナスの苦しみを取り除けるとは思わない。
 それでも、ただ自分が側にいるということだけは伝えたかった。

 きっとライナスは、自分を拒絶するであろう予感があった。
 そもそも人をあまり寄せ付けない性質(たち)だ。己が弱っているときであればなおさら、他人を側に置きたがらないだろう。それを覚悟の上で向かったので、ライナスに「入っていいよ」とあっさり告げられて、シェリアは逆に驚いてしまった。
「……お邪魔します」
 おそるおそる部屋の扉を開ける。中を覗きこむと、窓際の大きなベッドで上半身を起こしているライナスが目に入った。ぼんやりと窓の外を眺めている。
 ゆっくりと顔だけをこちらに向けたライナスは、この間会ったときよりも若干やつれているように見えた。先にカーリンから話を聞いていたから、そう思ってしまうのだろうか。
「なにを持ってきたんだい?」
 シェリアの手には小さな盆があった。
「あ、これ、スープ。おいしいよ。ライナス、まだ今日はなにも口にしてないって聞いたから」
 そんな気を使わなくていいのに、とライナスは苦笑する。
「だがまあ、聖女様直々にお持ちくださったスープを頂かないわけにはいくまい」
 こちらもいらないと拒否されるかと思っていたシェリアは、ほっと息をついてベッドの側まで歩み寄った。盆ごとスープを手渡すと、近くにあった椅子に遠慮がちに腰を下ろす。ライナスがスプーンを口元へ運ぶのを見守ってから、シェリアは口を開いた。
「体調、少しはよくなった?」
「うん。満月を過ぎれば、あとは回復していくだけだから」
 穏やかに微笑むライナスを見て、シェリアは少し安心する。
「……私、知らなかったよ。ライナスの体調のこと」
「そのようだったね。だがわざわざ話すことでもないと思っていたから」
「うん……」
「そう拗ねた顔をしないでほしいな」
「うん、ごめん」
 ゆるやかな沈黙が広がっていく。この沈黙が、シェリアは嫌ではなかった。静かな水の中をたゆたう感覚に似ているかもしれない。
「生まれたときからこうだから、体調が優れぬといっても慣れたものだよ。ベッドの中でじっとしていれば、そのうち落ち着いてくると分かっているからね」
 その言葉は半分本当で、半分は嘘なのではなかろうか。満月が巡ってくるたびに、あともう少しで苦痛は和らぐと思いながらも、どこかで「今度こそはもう駄目なのかもしれない」と不安になってしまうのではないか。聖女の子供として生を受け、自分ほど長く生きた者は一人とていないと知っていればこそ。
「……私の場合、現実感がないんだよね、きっと」
「ん?」
「私はさ、いつかシェリアスティーナに身体を返すって頭では分かってるけど、今はこうして普通に元気に暮らしてるじゃない。だからまだ実感を得られないっていうか。本当にそんなときが来るのかなって、どこかで思ってるのかもしれない」
 シェリアは脈絡もなく思ったことを口にした。
「満月が来るたびに戦ってるライナスとは、身に迫る恐怖の大きさが全然違うのかも」
「そんなことはあるまい。普段実感が伴わない分、そのことを考えてしまったときの恐ろしさは、とてつもないものだろう」
「かもしれない。けど、私は普段考えないようにしちゃってるから。この間の晩、色々偉そうなこと言っちゃったけど、私も結局強くなんてないんだ」
「君は強いよ」
 ライナスは語気を強めてそう言った。
「正直、自分を取り巻く環境をここまで変えてしまうとは思わなかった。元のシェリアが作り出した目も当てられぬ惨状をそのまま引き受けて、ひたすら耐えて、そして『今』を作ったんだ。戻ってきたシェリアが今の状況から再出発をするというなら、あまりに恵まれすぎているよ」
 最後は茶化すように笑ったライナスだったが、すぐにまた表情を引き締め、声を低くした。
「……恵まれすぎていて、あのシェリアには却って厳しいことになるかもしれないが」
「え?」
 ライナスは窓の外に顔を向けた。しばらく黙って目を細めていたが、小さく息を吐くと再びシェリアに向き直る。
「君は、元のシェリアスティーナが平気で残虐な仕打ちをする娘になった理由を、まだ知らないね?」
 シェリアは頷いた。
「それを知りたいと思うのだろう」
「……うん。知りたい」
「そうだな、君には知る権利がある」
 不意にライナスの瞳がひどく暗い色を宿したので、シェリアは身体を強張らせた。
「長い話ではない。それほど難しい話でもない。だが――、単純だからこそ残酷なことも、この世にはあるんだ」
 シェリアはライナスの深い瞳に吸い込まれ、目を逸らすことができなかった。