56.

「全ては、シェリアスティーナの聖女としての『能力』が原因だ」
 ライナスの言葉に、シェリアはわずかに眉根を寄せた。
 聖女の特別な力。これまで文献などを読み、聖女それぞれになんらかの能力が備わっていたことをシェリアも知っている。例えば、透視ができる聖女や、未来のことを予言できる聖女がいた。前聖女マルヴィネスカは、その能力のため歌をとても上手く歌うことができたはずだ。
 そしてシェリアスティーナ。彼女に関しては、この身を以ってその能力を強く実感している。それは植物の成長を促す力。シェリアの摘んだ花はなかなか枯れないし、ただの平地をあっという間に花畑に変えてしまったのも、やはりこの力がある程度作用していたのに違いない。
 だがしかし、その能力とシェリアスティーナの残虐な振る舞いが、どう関係しているというのか。
 緊張のため心臓が強く波打った。自分でも気づかぬうちに、シェリアは膝の上の手でワンピースを握り締めている。

「シェリアスティーナの能力、それは、心通わせた者の『死』の力を増長させるというもの」

 ライナスは静かに告げた。
 極力感情を押し殺した言い方だった。
 シェリアは手の中のワンピースをますます強く握り締める。皺になるのも構わずに、強く、強く。それ以上は身体がまるで動かなかった。ライナスの言葉を咀嚼(そしゃく)して飲み込むまでに、長い時間がかかった。
 ライナスは辛抱強く待っている。シェリアの表情が動くのをじっと見守っている。
 ――心通わせた者の、「死」の力を、増幅させる。
 シェリアは口の中でもう一度その言葉を呟いてみた。それでも駄目だ。頭の中がはじけたように真っ白になって、うまく考えられない。何度も何度も、同じ言葉を繰り返し自らに言い聞かせた。
 じわり、とシェリアの中になにかが広がっていく。この気持ちはなんだろう。シェリアはぼんやりと思った。恐怖? 怒り? 悲しみ? そのどれとも断定できないが、一番近い気持ちは「嫌悪感」かもしれなかった。
 シェリアは瞳を閉じた。そして痛みに耐えるように歯を食いしばる。
 ――ああ、そういうことなのか。
 ライナスのその一言で、かつて相次いだ王宮の不審死の理由をシェリアは悟ってしまった。
 聖女シェリアスティーナの周りで、なぜ人が死んでいったのか。なぜ彼女と付き合いがあり、また親しくもある者ばかりだったのか。突然王宮に連れてこられ、頑なに塞ぎこんでいたシェリアが少しずつ心を開いていった、その相手ばかりが、なぜ。
「……いつから、こんなことに」
「恐らく初めからだよ。聖女の能力とはそういうものだ」
 呻(うめ)くシェリアとは裏腹に、ライナスは落ち着いた声を崩さなかった。
「ただ、シェリアスティーナも王宮へ上がった当初は自らの能力をはっきりと自覚していないようだった。もちろん、なんとなくは悟っていただろうがね。初めのうち、必要以上に周りへ警戒心を撒き散らしていたのは、王宮へ来る以前から身近な人間の死が多かったからだろう。またここでも同じように人が死んでいくのではないかと恐れていたんだ」
 警戒をしているうちはよかった。だが、自分を温かく見守ってくれる人々に心を許してしまった、その途端――。
(そんな、どうして)
「完全に自覚してしまったのは、王宮へ上がって二年ほど経ったころだ。それからのシェリアは、見ていられないほどひどかった。シェリアは半狂乱になっていたね。いや、完全に狂人だったと言ってもいい。その時も以前の君のように部屋に閉じこもって出てこなくなったのだが、君と違って大人しくはしてくれなかった。暴れに暴れ、部屋も自分も他人も傷つけ、何度鎮静薬を飲ませることになったか。やっと暴れなくなったと思ったころには、彼女は別人のように成り果てていたよ。――見た目ではなく、心が、ね。彼女はその時一度死んだんだ」
 シェリアは当時の様子を想像しようとしたが、できなかった。
「私が無事でいられたのは、聖女の息子であることがなにかしら影響していたのだろうな。シェリアスティーナには、もはや私しかまともに付き合える人間がいなくなった。私は私で、この自分よりも更に不幸な存在がいるのだという安堵感や同情感から、彼女の側にいることを選んだんだ。どうしようもない二人組だったわけだね。……まあ、どうしようもないのは私だけかもしれないが」
 それ以後、シェリアスティーナは誰とも心通わせることのないように、冷酷な振る舞いをするようになったという。
 人を殺してしまわぬために、人を傷つけなければならない。それはそのまま自分を傷つけることと同じであった。しばらくは相手を遠ざけるためだけに冷たい言動を貫いていたシェリアスティーナだったが、彼女の歯車はもはや正確にかみ合わなくなっていた。狂った歯車は鈍く軋み、不安定な回転を続け――。
「ついにシェリアスティーナは率先して人を殺めるようになったよ。なぜ人を遠ざけていたのか、彼女にはもうそれすらも分からなくなっていたんだろうね。人を処刑することに理由も意味もなかったんじゃないかな。ただ殺す、それだけだ」
 完全に狂ってしまえればまだ彼女にとっては救いになったかもしれない。だが、シェリアスティーナは「狂いきる」ことができなかった。彼女の中に残ったわずかな正気が、ますます心を蝕(むしば)んでいく。なぜこんなことになってしまったのだろう、なぜこんな能力を授かってしまったのだろう。なんのために自分は生まれてきたのだろう。なんのために自分は今も生きているのだろう。
「だからシェリアスティーナは、自ら命を絶つ道を選んでしまったんだね」
 それは彼女の正気が起こした最後の行動。
 しかし結局、それすら天に受け入れられることはなかったが――。
 ライナスは厳かに頷きながら言葉を続けた。
「本当にシェリアスティーナが戻ってくるというのなら、それから彼女はどうなるのだろうか。もちろんそんな能力は取り払われているはずだ、そうだろう? でなければ同じ苦しみを再び繰り返すばかりだ。それになんの意味がある」
 シェリアは、今はもうはっきりと思い出せない天使アンジェリカのぼやけた輪郭を思い浮かべてみた。アンジェリカはこの能力についてなにも言っていなかったはずだ。魂の浄化を行う、そんなようなことは口にしていたか。その言葉にはこの忌むべき能力の浄化も含まれているのだろうか。そうでなければならないと、シェリアも思う。
「……だが、近頃私は、それももう必要ないのではないかと思うよ」
 ライナスはベッドの背に頭をもたれ掛け、呟いた。
「仮にその能力が消え、シェリアスティーナも精神的に安定して戻ってくることとしよう。だがその時に、果たして戻ってきたシェリアは何事もなかったかのように周囲に溶け込むことなどできるのかな」
 シェリアは言葉に詰まった。ライナスの言わんとしていることが、分かるようで分からない。
「当然、人が変わったようだと周りに訝しがられるだろうが、それは君も乗り越えてきた壁だ。本人にやる気さえあれば、もう一度周囲に受け入れてもらうことも不可能ではあるまい」
 だが問題は別のところにあると、ライナスは続ける。
「正気に戻っているのなら、これまで犯した罪の重さに耐えかねてしまうと私は思うね。シェリアスティーナは意味もなく人を殺めすぎた。その事実は、やはりどうあっても消えはしないよ。その罪に背を向けて、そ知らぬ顔で幸せな日常を取り戻すなんて――正気であればあるほど、本人にとっても受け入れられるものではない」
「それは」
「このまま眠らせてあげたほうが、彼女にとっては幸せなのかも知れないと思うよ。それに周りの人間にとっても、君にとっても。……このまま君がシェリアスティーナとして生きていくという道も、あるのではないか?」
 どん、と胸を突かれる衝撃に、シェリアは一瞬言葉を失った。
 まさかライナスからそんな言葉が出てくるなんて。ユーナとしての自分がこの身に宿っていることを唯一知っていて、また、唯一否定的だったライナスが。
 それに彼は、シェリスティーナにとっても唯一無二の存在なのだ。ライナス自身が言ったばかりではないか、彼女が心を許せるのはもはや自分だけなのだと。そのライナスがシェリアスティーナを待っていてくれなくては、他に誰が彼女を帰りを待つというのだ。
「ライナスは、シェリアスティーナが戻ってこなくていいと思ってるの?」
「私の気持ちの問題じゃない」
「ライナスの気持ちを聞かせてよ。ライナスはどうなの? どう思ってるの?」
「私がどう思っているかよりも、大切なことは他にある。例えば、君自身の気持ちもそうだ。ここまで孤立無援で頑張ってきた君は、本当にシェリアスティーナの帰還と共にこの世を去ることに納得しているのか」
「違う、違うの」
 シェリアは駄々っ子のように首を振った。
「ライナスがどう思っているか、それってすごく大事なことだよ。ライナスはシェリアスティーナのこと見捨てたりしないでしょう? 私はそれを聞きたいの」
 見捨てたりしないと、はっきり言って欲しかった。それだけでシェリアスティーナは救われるはずだ。戻ってくることは確かに辛いことかもしれない。だが側にいてくれる人がいるのなら、それでもきっと頑張れる。
 しかしライナスはとうとう答えてくれなかった。
「ユーナ、君はあまりに善人すぎる。そして真面目で、優等生だ。もっとわがままになってもいいと、私は思うよ」
 疲れたようなライナスの微笑み。それが、シェリアの心に濃い影を落とした。

 シェリアスティーナの真実については、衝撃としか言いようがない。
 彼女が根っからの極悪人だったわけではなく、なにかしら事情を抱えているであろうことは分かっていた。だがこんなにも無慈悲な原因が潜んでいようとは。
(神よ、なぜそのような残酷な能力を彼女に授けられたのですか)
 一体なんのための能力だというのだ。こんな力は絶望しか生み出さないではないか。一度生まれた絶望は、鎖のようにどんどん繋がり伸びていく。この世の中は「負」の感情ほど繋がりやすいものだ。今更それを回収してやり直そうとしているのなら、いくら神とはいえ、あまりにも都合がよすぎると非難したくもなる。
 そう、やり直したいと思っているのは天におわす神であって、シェリアスティーナではない。もしかしたら、ライナスはそれを言いたかったのだろうか。
(だとしたら、もっともかもしれないな)
 自分を優等生と言ったライナスの微かな笑みが頭に浮かぶ。神の意のままに動き、不満も疑問も抱かず――実際はその限りではないのだが――着実に終着点へと歩んでゆく。神が自分をシェリアスティーナの代役として選んだのは、命を失ったタイミングが重なったからというよりなによりも、都合のいい操り人形として最適だったからなのではないか。
 これまで自分の意思で歩んできたと、思っていた。でもそうではなかった? 神は全てを予見していたのだろうか。ユーナという少女がシェリアとなり、窮地から一歩ずつ這い上がり。一人二人と仲間を増やして、最後には文句も言わず大人しく消えていく。
(全部全部、神が描いた予定図の通りということ?)
 シェリアはふらふらと危なげな足取りで来た道を戻っていった。
 数歩後ろにはネイサンがついている。ライナスの部屋へ向かうときにカーリンが寄こした護衛が彼だったのだ。ネイサンはシェリアに話しかけるでもなく身体を支えるでもなく、ただ黙って側を歩いている。
 しかしシェリアが部屋へ戻る道とは逆の廊下へ吸い込まれていったときには、さすがに黙っていることはできなかったようだ。
「シェリアスティーナ様、どちらへ? お部屋は左の方向ですが」
「うん、ちょっと、寄ってみたいところがあって」
 アシュートに会おう。
 自分にシェリアスティーナの真実を知る資格があるというのなら、それはアシュートも同じだろう。彼は彼女のために多くのものを失い、しかし未だに彼女から目を逸らさずにいる。きっとライナスとて、アシュートにならば話をしても構わないと言ってくれるはずだ。
(でも結局は、私がアシュートに会いたいだけなんだけど)
 どうにか落ち着いて廊下を歩いているシェリアだが、本当は今にも叫びだしそうだった。抑えきれないほどの混乱と不安の渦がシェリアの中でどんどん大きくなっていく。
 シェリアスティーナはやっぱりずっと苦しんでいたんだよ。こんなに華奢な身体に、押しつぶされてしまうほどの大きな能力――呪いが潜んでいたんだよ。ねえ、私はどうすればいいのかな。ライナスは、もう戻ってこない方がシェリアスティーナの幸せかもしれないって言っていた。でもそれって本当なの? シェリアスティーナは戻ってこない方が本当に幸せ? ああ、ライナスも、いつ倒れてもおかしくない身体だって言ってた。どうしてこんなに、色んな辛いことがあるんだろう? 私じゃ誰の助けにもなれないみたい。私はこれまでなにをしてきたのかな。自分なりに一生懸命やって来たつもりだったけど、それって神の御手で転がされていただけなのかな。――私、私、どうしよう。どうするのが一番いいの?
 まだ姿の見えないアシュートに、ありったけの戸惑いをぶつけてみる。しかし、溢れんばかりの困惑は、いくら外に逃がそうとしても次々と沸いて出てくるのだった。
「シェリアスティーナ様、顔色が悪いようです」
 これ以上黙って様子を見るのは得策ではないと判断したのか、ネイサンがシェリアの右手を掴んでむりやり歩みを止めさせた。ぐらりと身体を揺らしたシェリアは、顔だけでネイサンを振り返る。
「私、アシュートに会いに行きたい」
「アシュート様ですか? この時間、部屋にいらっしゃるか分かりません。確認しますのでとりあえず戻りましょう」
「ううん、私が行ってみる。体調は、大丈夫だから。お願い」
「しかし」
「――シェリアスティーナ様?」
 押し問答が始まろうとしたときだった。ちょうどシェリアの求めていた声に名前を呼ばれて――振り返ると、突き当たりの角からアシュートがやってくるのが目に入った。
「アシュート、どうしてここに?」
 驚いて尋ねると、アシュートは若干ばつの悪そうな表情を浮かべた。
「ライナス殿のところへ向かわれたと聞きましたので。少し気になって、迎えに来たのです」
 アシュートは、シェリアとライナスの関係に微妙な亀裂が入っていたことを知っている。だから今も心配してくれたのだろう。
 思えばいつも、私はあなたのことを追いかけてばかりいる――。アシュートの言葉が思い出される。きっとこれからもそうなのだろう、そう言った通りに、こうしてシェリアのところへ来てくれたのだ。
 シェリアは我知らずほっと息をついた。アシュートが側にいてくれるだけで、こんなにも安心できる。はじけてしまいそうだった不安が急激に治まっていくのをシェリアは感じた。