61.

 それから数日、シェリアスティーナの育った孤児院を訪れる手筈は整った。
 手筈といっても特別な用意はしていない。むしろ、できなかった。シェリアスティーナが王宮に上がってから一度も見向きもしなかった孤児院に、今更思い出したように出向くのはあまりに不自然すぎる。公にすれば様々な憶測を招きかねないとの配慮から、この訪問は秘密裏に行われることとなった。用意があったとすれば、いかに周囲に感づかれることなく王宮を抜け出すかということに尽きる。
 実際に赴くのはシェリアとアシュートの二人だ。この二人で王宮を出るだけで、非常に骨を折った。まず、この時期にシェリアが街へ足を運ぶということ自体が問題だった。以前アシュートの妹の行方を捜して街へ飛び出したときとは状況が違いすぎる。反聖女派の動きが活発化している現在、拠点のある街中へ出かけていくなどとんでもない話であった。だから表向きは、シェリアが王宮を出る形は取れなかった。ここ最近の不安定な情勢を憂いた聖女が、一日篭りきりでヴェーダ神に祈りを捧げる――無理やりそんな儀式を打ち立てて、礼拝堂からこっそり抜け出すことになったのだ。
 アシュートは比較的自由に動くことができたので、先に街へ出てそれからシェリアと落ち合うことになった。二人で揃って王宮を出るのは難しいが、別々に出て合流するのならばなんとかなる。
 孤児院側には、シェリアたちを出迎える「準備」をさせぬよう、訪問を伝えていない。
 突然シェリアその人が孤児院を訪れたとき、相手側はどのように出迎えるのか――。その最初の一瞬でお互いの関係がある程度把握できるというのは、アシュートの考えだ。試すようなやり方はシェリアにとって後ろめたくもあったが、相手に警戒されてはどうしようもないというのは確かだった。

(そろそろ、いいかな)
 かつて貴族を招いて一人一人に祝福を授けた「祝福の間」で、シェリアは一人きり、膝を抱えてうずくまっている。
 天窓から差す陽射しは相変わらず神々しく、ずっとこのままこうしていたいという気持ちにすらなってしまう。久しぶりに自室以外で一人きりの穏やかなこの時間は、シェリアにとって非常に居心地のいいものだった。とはいえ、その心地よさに甘えていつまでものんびりしていることはできない。
 ナシャやカーリンの協力も得て、部屋にはこっそり衣装が隠されている。街の雑踏に紛れ込んでも浮いてしまうことのない、ごく普通の民が身にまとう衣装である。急いで着替えてから、シェリアは窓の外を覗き込んだ。――誰もいない。
 建てつけのあまりよくない窓を持ち上げて、シェリアはそこから身を乗り出した。ここを抜け出せば近くでネイサンが待っているはずだ。彼の助けで街まで出て、そこでアシュートと合流することになっていた。
 人目を忍んで窓から外に出るなど、まるきり初めての経験である。シェリアスティーナになってからはもちろん、ユーナのときでさえ、窓枠に足をかける状況なんて考えてみたこともなかった。
(け、結構つらいな)
 運動らしい運動などしていないから、身体が思うように動かない。崩れ落ちるように窓から飛び降りると、シェリアはほっと息をついた。着地のときに立てた派手な音に気がついた者はいないだろうか。きょろきょろと辺りを見回してみたが、幸い人影はどこにも見えなかった。
 立ち上がり、スカートの裾についた砂を払う。それからシェリアは小走りにその場を離れた。近頃は警備が一段と厳しくなり、今回も礼拝堂の周りには多数の兵士が配置されているという。その目をうまくかいくぐるには、限られた短い時間でこのルートを突っ切るしかないそうだ。下手をすれば見張りの兵士と鉢合わせてしまうから、それだけは避けたかった。シェリアを守るための兵士が今は障害になっているとは、こちらの勝手とはいえ、なんとも皮肉な話である。
「シェリアスティーナ様、こちらです」
 続く草木の合間に、まもなくネイサンの細長い影が見えた。こういう状況には慣れているのか、いつもと変わらぬ落ち着き払った様子である。
「このまま少し行くと、花畑に出ます。そこから建物沿いにしばらく歩けば王宮の西側です。それまで誰にも会わないことを祈りましょう」
 シェリアは緊張のため弾んだ息をそのままに、しっかりと頷いた。歩き出したネイサンは真っ直ぐ前を見すえながら説明を続ける。
「西側の雑踏に紛れて街へ出た後は、更に街外れまで歩いていただくことになります。その先でアシュート様と合流できる手筈ですので、ご了承ください。そこからはアシュート様の馬で目的の場所へ向かうはずです」
「うん、分かった」
「それでは少し、急ぎましょう」
 雑木林から花畑へ。一気に開けた視界は花に満ち溢れ美しかったが、今のシェリアには平地が広がっていること自体が怖かった。見渡す限りに人影はないが、不意に誰かが現れるのではないかと気が気でないのだ。
「それほど緊張なさらず。今日は祝福の間とその周辺への一般の立ち入りが禁じられていますので、余程のことがなければ人には会わないはずです」
「うん……」
 それでも緊張してしまう自分は小心者ということだろうか。いや、ネイサンの肝が据わっているのだ。こうでなければ彼の仕事は務まらないのかもしれない。
 花畑を突っ切ると、王宮の壁に寄り添うようにしてシェリアたちは進んだ。途中、小さな門のところに兵士が一人立っていて驚いたが、事情はきちんと伝わっているらしく、相手が驚くことはなかった。兵士はネイサンと目を合わせると、小さく頷き道を開ける。
「要所要所で協力者がいます。副長……ジークレスト様が目をかけてる者たちばかりですので、信頼してくださって大丈夫です」
 そういうことは最初に言ってほしい。シェリアは脱力しながら門をくぐった。すると、青々とした木々の向こうから、西側特有のざわめきが漏れ聞こえてくる。外套のフードをかぶって、シェリアたちはその雑踏の中に紛れ込んで行った。

「……こうやって一緒に街へ出ることがまたあるなんて、思わなかったね」
「はい」
 無事王宮を抜け出した二人は、周りに不審がられない程度に足を速め、真っ直ぐ大通りを進んでいた。相変わらず人の多いこの街で、シェリアたちも浮いてしまうことなく、すっかりその一員となっている。
「あのときはネイサンのお陰で、アシュートの妹さんのことが分かったよ」
 周りの喧騒にかき消されてしまいそうな声で、シェリアは呟いた。手放しで喜べることではないけれど、なにも知らぬまま時が過ぎるよりはきっとよかったのだ。
「それでね、……あれからミリファーレさんのこと、またなにか分かった?」
 隣を行くネイサンを遠慮がちに見上げると、その飄々とした横顔がわずかに曇っているように見えた。
「そのことについては、シェリアスティーナ様が王宮へ戻られてからにしましょう。少し、お話しておきたいことがありますので」
「話しておきたいこと……?」
「ここではちょっと。急ぐ内容でもありませんし、まずは無事王宮へ戻ることをお考えください」
 ざわりと胸騒ぎがする。
「それってよくないこと?」
「いいこととは言えません。ご想像の範囲内だと思います」
 そこでネイサンが口をつぐんだので、シェリアもそれ以上は追求しなかった。確かにこの場で根掘り葉掘り尋ねられるような話題ではない。表立ってはなにも動いていないように見える反聖女派の件だが、水面下では着実に色々なことが変化しているのだろう。
 それから二人は特に口を開くこともなく、黙々と路地を歩いていった。人のうねりが渦を巻いていた街の中心を抜けて、だんだんと人影がまばらになっていく。シェリアがかつてユーナとして暮らしていたのが、ちょうどこんなところだった。王宮から少し離れた、のどかな田舎町。ただこちらは実際にユーナが暮らした土地とは逆の方向だ。見知った顔に出会うこともなかったし、その予感に襲われることもなかった。それでもシェリアは懐かしさに胸がつまる思いがする。
 見える景色の半分が木々になってきたところで、ネイサンはやっと足を止めた。
「アシュート様が、あちらに」
 言われてシェリアは初めて気がついた。ここからは少し離れた木の影に、見慣れない人影が見える。土色の少しくたびれた外套をまとってこちらに背を向けている男性。外套から覗く黒髪で、やっと彼がアシュートらしいということが分かる。側では茶色い毛並みの馬が一頭、足踏みをしていた。
 アシュートがこちらを振り返り、小さく頷く。シェリアたちは改めて歩み寄り、互いの姿を確認しあった。
「無事抜け出すことができたのですね」
「うん、ネイサンや、みんなのお陰で。アシュートも大丈夫だった?」
「ええ」
 頷くアシュートは、平民めいた服装のためか、いつもより柔らかい雰囲気がある。
「ネイサンもご苦労だった。この先は私が責任を持つ」
「なるだけお早いお戻りを。道すがら、いくつか視線を受けました。恐らく相手も確証は持っていないでしょうが、すでに探りを入れ始めているかもしれません」
 誰がなにを、とは言わなかった。しかしシェリアにもネイサンが言わんとしていることはよく分かる。反聖女派の者たちが、街へ出たシェリアに気ついたかもしれないというのだ。あの短い道中で、反聖女派の何人かとすれ違っていたとは驚きだ。しかも、気づかれていたかもしれないなんて。
「分かった。遅くとも今夜中には戻る。万が一夜が明けても連絡がなければ、動いてくれ」
 与えられた猶予は、今日一日。シェリアはアシュートの言葉をしっかりと噛みしめた。
「それではシェリアスティーナ様、出発しましょう」

 こうして馬に乗るのは久しぶりのことだ。そう、初めてシェリアスティーナとして目覚め、崖下で途方に暮れていた自分をアシュートが救い出してくれた、あの晩以来――。
(あれからもう随分経つんだな)
 あの晩が全ての始まりだった。
 自分を助けてくれたのに、何故か怒っていたアシュート。話しかけても冷たい言葉が返されるばかりで、シェリアはひどく萎縮してしまった。それでも馬に揺られるシェリアを強く支えてくれたのは、同じアシュートだった。
(私の『時間』はあのときすでに終わっていたはずなのに、あれから確かに時は流れてきたんだ)
 きっと、今うしろのアシュートに話しかければ、それがどんなに些細な内容であれ、優しい声で答えが返ってくるだろう。確実に流れてきた時間が、シェリアとアシュートの関係にも大きく変化をもたらした。それが嬉しくもあり、悲しくもあり、切なくもある。うまく言葉に出来ない気持ちだった。
 馬に揺られて、目まぐるしく景色が変わっていく。
 遠くに見えていた風景が、あっという間に近づいて、そしてまた遠くなっていく。あんなに遠いと思っていたものが、あっけなく通り過ぎてしまう。
 シェリアはアシュートに話しかけなかった。風を切る音に逆らって声を上げるのがつらかったし、それ以上に、なにも話さずにいることが今は正しいことのように感じられたのだ。アシュートも、シェリアに声をかけようとはしなかった。それがシェリアにはありがたかった。
 そのまま馬はひたすら地を蹴り続けた。
 人通りも絶えた完全な田舎道を、風のように通り抜ける。一つ丘を越え、二つ丘を越え。本当にこの先に目指す孤児院があるのだろうかと思うほど、もはや辺りにはなにもない。シェリアは気づかぬうちにうとうとし始めていた。慣れない馬に乗っているせいで腰が痛いが、その痛みすら曖昧になってしまうほど心地がいいのだ。遠慮せず思い切りアシュートに寄りかかってしまうと、ますます大きな安心感がシェリアを包んだ。
 ずっと、このまま、こうしていたい……。

「シェリアスティーナ様、見えてきました」
 しばらくすると、久しぶりにアシュートが声を出した。すっかりアシュートの胸元にもたれかかっていたシェリアは、伝わってきた声の振動で目が覚める。身をよじって体勢を整えると、改めて目の前に広がる景色に感嘆をもらした。
 なだらかな坂を下った先に、大きな門構えの建物が見える。その更に向こう側にはぽつぽつと集落が点在していて、それ以外は欝蒼とした森が広がっているようだった。
「あの大きな建物が、そうかな」
「ええ、おそらくは」
 随分古い建物のようだ。建てられた当初は立派な館だったのだろうが、それももう百年近く昔のことではなかろうか。今では壁の至るところに蔦(つた)が絡まり、鉄製の門もすっかり錆付いてしまっている。
 少しずつ馬の速度を緩め、シェリアたちは建物に近づいていった。もしかしたら既に廃墟なのでは? そんな思いが頭を過ぎったが、すぐにそれは杞憂だと分かった。
 門の向こうから、子供の声が聞こえてきたのだ。
 それも複数。中には笑い声も混じっている。
「誰か、いるみたい」
 シェリアは痛いほど激しく波打つ心臓を落ち着かせようと、こっそり深呼吸をした。アシュートの手助けで馬を降り、久しぶりに地面の固さを足で感じる。まだふわふわと浮いたような気分だったが、門の前で立ち尽くすうちに身体の感覚も戻ってきた。
「入ってみましょう」
 アシュートが鉄柵の門に手をかける。門が嫌がるように錆付いた悲鳴を上げた。その音に驚いたのか、今しがたまで漏れ聞こえていた子供たちのはしゃぎ声が一気に静まる。
 孤児院の庭に入ると、門の側に子供が五人ほどで固まっていた。下は三、四歳の女の子から、上は十一、二歳の男の子まで。皆、孤児院への闖入者を不思議そうに眺めている。年長の子供はその視線に明らかな警戒心を滲ませていた。
「あの、こんにちは」
 シェリアが控え目に声をかける。すると弾かれたように子供たちは姿勢を正した。これ以上怯えさせないようにと、シェリアは努めて優しく子供たちの側にしゃがみこんだ。同じ高さの目線になって、にっこりと微笑みかける。
「突然、ごめんなさい。ちょっとお邪魔してもいいかな」
 子供たちは戸惑ったように顔を見合わせた。
「あなたたちは、誰ですか?」
 中でも一番年上と見える少年が口を開いた。注意深くシェリアを観察しつつ、でもどこか照れくさそうに視線を泳がせている。
「私は、昔、ここでお世話になっていたんだよ。後ろの男の人は、私をここまで送ってくれたの」
「――あなたが、昔ここで?」
「うん。すごく久しぶりに、立ち寄ってみたんだ」
「でも、今の代の人じゃないですよね? 僕、あなたのことを知らないし。前の代の人ですか?」
 しがみつく小さな兄弟たちを撫でてやりながら、少年は更に質問を投げかけてきた。シェリアは「今の代」「前の代」という意味が分からず、思わず後ろのアシュートを振り返る。視線を受けたアシュートも、分からないというように首を振った。
「一度この孤児院は、閉鎖したんです。またすぐに再開したんですけど、それより前と後で子供たちは完全に入れ替わったんです。閉鎖前にいた人たちのことを、『前の代』の人って呼んでます」
 少年はシェリアたちの疑問を察し、簡単に説明してくれた。
「前の代の人がここに戻ってくるなんて、初めてです」
 シェリアは言葉が見つからず、ただ少年の顔を見返した。説明を受けてもまだ事情が飲み込めない。やはりシェリアスティーナがこの孤児院を離れてから、なにかしらの動きがあったのだ。
「あの、院長さんに会わせてもらえるかな」
 少年は頷くと、側にいた子供たちを呼び寄せ立ち上がった。
「さ、みんなで院長のところに行くぞ。誰が一番に着くか競走しよう」
 その一言で、それまで緊張して固まっていた子供たちにはしゃぎ声が戻ってくる。全員が楽しそうに駆け出すのを見送って、少年はシェリアたちを振り返った。「少し待っていてください」
 シェリアは頷いて、ゆっくりと立ち上がった。館の中へ吸い込まれていく子供たちの背中を眺めていると、またしても緊張がこみ上げてくる。――この、孤児院で、かつてなにがあったのだろう。それともなにもなかったのだろうか。シェリアスティーナと院長の関係は? かつてのシェリアスティーナは、今の子供たちのように笑顔で毎日を送っていたのだろうか。
 聞きたいこと、知りたいことは山のようにある。全ての答えを、ここで見つけることはできるのだろうか――。