60.

 ここまで来れば、もう今更顔を背けることなどできなかった。
 シェリアスティーナの暮らした孤児院を訪ねよう。どんな些細なことでも構わない、そこで彼女にまつわるなにかを知ることができれば。
 アシュートも、もはやシェリアを止めなかった。彼自身、どこまでも深いシェリアスティーナの闇を暴きたい気持ちがあったのだろう。
 もちろんシェリアとて分かっている。それでなにかが変わるわけではない。シェリアスティーナが救われるわけではない。しかし、気づかないふりをして放っておくこともできないのだ。
(シェリアスティーナを理解したいから)
 誰にも理解されず、満たされずに生きてきたかもしれない彼女の心を受け止めたい。それは偽善なのだろうか。己の存在を正当化するための自己欺瞞なのだろうか。シェリア自身にも分からない。
 けれど知りたいという気持ちだけは抑えようのないほど本物だった。
(私は、昔のあなたに会いに行くよ。シェリアスティーナ)

 孤児院の場所についてはアシュートが調べてくれることになった。
 調べるといっても、それほど大変な作業ではあるまい。なにせ聖女シェリアスティーナの育った孤児院だ。王宮側がそれを把握していないはずがなかった。
 ただ一つ心配だったのは、今もその孤児院が存在しているかということだった。昔密やかに囁かれた噂によれば、シェリアスティーナが聖女であると判明したのは、院長が暴行目的で彼女に近づいたためだったという。シェリアスティーナの出生に悲劇感を与えるための単なる作り話なのかもしれないが、もしそれが事実ならば、もはやその孤児院は今現在まともに門を開いてはいないだろう。院長は罰せられ、当時の関係者は散り散りになっている可能性がある。
「難しい顔をなさって、どうかされたのですか?」
 不意に声を掛けられ、シェリアははっと我に返った。
 お茶を用意しているナシャが心配げにシェリアの様子を伺っている。
「あ、ううん。なんでもないんだ」
 慌てて笑顔を作るが、少し引きつっていたかもしれない。
 アシュートと話をした翌日、シェリアは彼からの連絡を待って部屋で大人しくしていた。なににおいても自分にできることはほとんどなくて、情けなさが身にしみる。いつものように形ばかりの儀式を重ねて時を過ごすほか、シェリアにはなにもない。その儀式さえも、近頃では数が減っていた。反聖女派の動きが懸念されているからだ。
「早く、またご自由に外へ出られるようになるといいですね」
 ナシャは優しく囁(ささや)いた。
 ナシャにはシェリアの抱える問題についてほとんど話していない。出口の見えない迷路にナシャを巻き込みたくなかったし、彼女にはそうした問題とは無縁のところで微笑んでいてほしかった。そして時々こうして一緒にお茶の時間を楽しむことができれば、それがシェリアの救いになる。
 しかしナシャとて事情に全く通じていないわけではないようだ。反聖女派の問題などは王宮でも知らぬ者はいない。そこにアシュートの妹ミリファーレが絡んでいることまではまだ噂になっていないようだが、それも時間の問題かもしれなかった。
(ミリファーレ……さん)
 彼女の現在の行方についても未だ明らかになっていない。ネイサンが独自に調べると言ってくれたが、その後特に報告もないので、事態は膠着しているのかもしれなかった。
「きっと、少しずつよい方向へ向かっていくと思います、私」
 黙りこむシェリアを見てなにを思ったのか、ナシャが励ますように呟いた。少しずつよい方向へ向かっていく。そうだったらいい。皆が苦しみを抱える病んだ王宮に、少しずつでも光が降り注いでくれれば。
「この間、街に素敵なお店を見つけたんです。とても美味しいデザートがたくさんあって。きっとシェリアスティーナ様にも気に入っていただけると思うんです。色んなことが落ち着かれましたら、ぜひいらっしゃってください。お店の内装も、清潔感があって可愛らしいんですよ」
 気遣ってくれるナシャに感謝して、シェリアは笑顔で大きく頷く。
「それじゃあ、その時はナシャに案内してもらおうかな」
「……はい! それはもう、喜んで。楽しみにしています」
 ナシャと顔を合わせて微笑み合っていると、控え目なノックと共にカーリンが部屋に入ってきた。こちらは少し難しい表情で、手には一通の手紙を持っている。
「シェリアスティーナ様。こちら、アシュート様からお預かりしてまいりました」
 差し出された白い封筒を受け取って、シェリアはわずかに緊張する。手紙になにが書いてあるのか、考えるまでもなかった。シェリアスティーナの育った孤児院の件。もう調べてくれたのだ。さすがにアシュートはやることが早い。
 シェリアの顔が一瞬強張ったことに気がついたのか、カーリンもナシャも手紙のことについてはそれ以上口にしなかった。
「またなにかございましたら、いつでもお呼びください」
 カーリンが一礼し、ナシャもそれに倣って退室する。二人が気遣って席を外してくれたことに感謝しながら、シェリアはゆっくりと封を開けた。
 記されていた内容は、簡潔なものだ。
 シェリアスティーナの育った孤児院の場所が分かったこと。現在も孤児院として機能していること。訪れるならば、アシュートも連れて行くこと。その場合は明日以降で予定を組むこと。
 シェリアは手紙にさっと目を通すと、顔を上げて窓の外に視線を向けた。明るい日差しに目を細めながら、小さく息をつく。そのため息は、すぐに掻き消え姿を消した。

 夕方にライナスを見舞いに行くと、彼は既にいつも通りの生活に戻っていた。
 伏している間に仕事がたまってしまったのか、彼の自室の机の上には様々な書類が散乱している。その中の一つを片手に取って難しい表情をしているところに、シェリアが顔を出したのだ。
 まだ顔色が優れないようだが、その表情は落ち着いている。考えを読み取らせないライナスの微笑みに迎えられて、シェリアはむしろほっとした。前回のように疲れきった投げやりな様子を見せられると、どうしていいか分からなくなる。
「ごめんなさい。お邪魔だった?」
「いや、大丈夫だ。散らかしていて悪いね。座ったら?」
「ううん、いい。すぐに帰るから。これ、よかったら飾って」
 シェリアは抱えてきた花束を差し出した。もはやベッドから抜け出ている人に見舞いの花というのも失礼な話かもしれないが、持ってきてしまったのだから仕方がない。
「もしかして君が摘んだの?」
「そう。花畑、今が満開だよ。たまには気分転換に足を運んでみて」
 ライナスは苦笑しながら花束を受け取った。
「そういえば最近は全然建物の外に出てないな。完全に私は引きこもりだ」
「私だって同じだけど。でも、庭に出るだけでだいぶ違うよ」
 ライナスは花束に視線を落とした。そしてわずかに瞳を細め、浮かべていた微笑を解く。
「君が摘んでくれたなら、この花たちも長く持つことだろう。そういう話を聞いているよ」
 その言葉を受けて、シェリアも花束に目を向ける。二人の間に落ちた沈黙が、なにに染まっているのか。口に出さずとも明らかだった。
 シェリアスティーナの呪われた力。なぜ彼女にそんな能力が与えられてしまったのか。運命のいたずらなのか、それとも神の意思だったのか。そして今のシェリアが持っているこの力との関係は? 元々シェリアスティーナが持っていた力なのか、そうではないのか。
 今はまだ分からない。これから先も明らかになることはないのかもしれない。
 しかし叶うのならば、秘められた真実が日のもとに解放されることをシェリアは願う。
「ライナス、私、シェリアスティーナの育った孤児院に行ってみるよ」
 ぽつりと呟くと、ライナスは無言で目を上げた。わずかな驚きに、瞳が光る。
「そこに行ってなにか分かるわけじゃない、かもしれない。たとえなにかが分かったとしても、それがシェリアスティーナを救ってくれるわけでもないだろうし。でも私は知りたいんだ。知ることのできるなにかがあるなら」
「……そうか」
 ライナスは一つ頷いただけだった。
「こんな不安定な時期に出かけるなんて、不謹慎だって分かってるんだけどね。でも、いつまでも先延ばしにできない。今立ち止まっちゃったら、掴めたはずのものが消えちゃう気がして。それに、私には時間がない」
「その少ない時間を、シェリアスティーナのために費やすんだね」
 シェリアは束の間口をつぐんだ。
「……でも、私がここにいるのは、そのためだと思ってるから」
「自分自身のために時間を使おうとは思わないのかい」
「だってこの身体は『私の』ものじゃない。そんなことできっこないよ」
「身体なんて、単なる器だと見ることもできる。今、皆が接しているのはシェリアスティーナではなくて、ユーナなのではないかい、本当は」
 それは違う。シェリアは思ったが、もはや口には出さなかった。今ここにいるのは、確かにシェリアスティーナではない。けれどきっと、ユーナでもない。どちらでもない存在が、今ここにいる自分なのだとシェリアは思う。
「アシュート君には言ったのか。君がユーナという人間であること」
 シェリアは首を振った。
「彼に君が何者なのか尋ねられたことは? もはや彼も気がついているだろう。君がシェリアスティーナと同一人物ではないことを」
「……それでも私は、答えられない」
 アシュートだから、余計になにも告げられない。
「君は、本当に」
「ライナス。私自身のことはいいの。今日はね、孤児院に行くって言うことを伝えておこうと思ったんだ。ライナスのお陰でだいぶシェリアスティーナのことが分かってきたけど、あともう少しなの。だからライナス、待ってて。シェリアスティーナのことを待っていてあげて」
 また気持ちが乱れてしまう前に、シェリアは一気に言いたいことを言い切った。
 シェリアスティーナのことだけではなく、自分自身のことについても、これ以上目を逸らすことはできないと感じている。しかしまだ、自らと向き合う覚悟が持てないのだ。逃げていると指差されても仕方がない。実際その通りだと思う。だが、今は、今はまだ。
 ライナスはもどかしそうにため息をついたが、唇を結んでそれ以上は言わなかった。
 ありがとう。そしてごめんなさい、ライナス。
 シェリアは心の中でそう告げて、そっと部屋を後にした。