63.

 カズロに連れられ三人が辿り着いたのは、孤児院の裏庭である。
 緑が生い茂り、小さな花が所々に密集して咲いている。この辺りでは珍しい紫色の実をつけた木もあった。緻密に管理されているわけではないが、きちんと人の手は入っているらしく、荒れた印象は全くない。
 木漏れ日に目を細めながら、シェリアは草を踏みしめる音を楽しんだ。
「素敵なところですね」
「ご覧の通り日当たりがいいから、子供たちみんなのお気に入りの場所なのよ」
 カズロはそう答えて、真っ直ぐ建物の壁際へと足を進める。壁は優しい緑色のつる植物に覆われていて、薄桃色の小さな花がレースのように天辺から流れ落ちていた。
「うわあ、すごい」
 シェリアたちは感嘆のため息と共に壁を見上げた。まるで植物の滝のようである。
「この花って……、もしかしてティカスラ?」
 シェリアがそう問いかけると、カズロは驚きながら頷いた。
「名前を知っているのね。そう、これはティカスラなの」
「なにか特別な植物なのですか?」
 話が見えないらしいアシュートが遠慮がちに口を開く。
「ティカスラ自体が特別ってわけじゃないんだ。結構代表的なつる植物だしね。ただ、ティカスラの花は一年の中でもほんの短い間しか咲かないの。間違っても今はその季節じゃないんだ」
「そう。――でも」
 カズロは昔を懐かしむような瞳で、もう一度目の前の壁をゆっくりと見上げた。
「このティカスラの花は、一年中、いつでも咲いているの。もう十五年近くも、ずっと」
「ずっと?」
 花が枯れることなく咲き誇っている。
 その現象に、覚えがないはずがなかった。
 思わずシェリアはアシュートを振り返る。しかしアシュートが同じ驚きをもってシェリアの瞳を見返すことはなかった。そうだ、アシュートには言っていないのだったと思いあたり、それでもシェリアは沸き起こってきた興奮を抑えることはできなかった。
「シェリアスティーナの、力だ」
 呟く声が微かに震える。カズロはそれを聞き逃さなかった。
「そう、これはきっとあなたの力なのよ」
 ――ああ! それじゃあやっぱり、シェリアスティーナの本当の能力は。
「どういうことです?」
 一人置いていかれそうだと悟ったらしいアシュートは、説明を求めてそう問い返した。シェリアスティーナの「力」と聞いて、彼も素早く感づくものがあったのだろう。
「この植物は、シェーラがまだ幼かった頃に植えてくれたものなんです。孤児院のみんなで、一人一つずつ植物を育てようという話になったときにね。シェーラは、それはもう一生懸命世話をしてくれました。中には植物の世話に途中で飽きてしまった子もいたけれど、一番熱心だったのはきっとシェーラだったでしょう。不思議なことに、このティカスラは普通ではない速さで成長していきました。通常なら、壁を覆うくらいになるまで五年はかかるはずなのに、二年目にはもう花が零れ落ちそうなくらいになったのですからね」
「シェリアスティーナが、育てた」
 シェリアはカズロの説明を聞きながら、そっとティカスラに手を伸ばした。優しい緑の感触が指をくすぐる。
「シェーラが聖女シェリアスティーナ様となって孤児院を出てからも、このティカスラは花をつけるのを忘れたことはありません。聖女様には、代々不思議なお力が備わっていらっしゃるのでしょう。私はこれこそがシェーラの聖女様としての力だと信じています」
「そうなると、王宮でのシェリアスティーナ様の力は」
 言いにくそうにアシュートは口を開いた。皆まで聞かずとも、シェリアには彼の言わんとしていることが分かる。
「もともとの力が、なにかの事情で歪んでしまったとしか考えられないよ。実際、今の私も植物の成長を助ける力を感じてたしね。それは本来シェリアスティーナが持っていた能力だったんだ」
 シェリアとアシュートが話している間も、カズロはカーテンのように広がったティカスラを一人見上げていた。その横顔に追いつめられたような焦燥と絶望が浮かんでいるのに気がついて、シェリアは改めてカズロと向き合う。
「カズロさん」
 カズロはぎゅっと唇を噛みしめた。
「私が植物に関する能力を持っていたのはほんのわずかな間だったと思います。それを取り戻したのもつい最近のことで、それまでの空白の時間は――口に出すのもおぞましいほどの能力が、たくさんの人たちを苦しめたんです。カズロさんは、それについてもなにかご存知ですよね? だからそんなにも辛そうな顔をしているんでしょう?」
 痛々しい沈黙が場を支配した。
 いつまでも続くかと思われたその沈黙を破って先を促したのは、優しく吹き抜けた一陣の風だった。そよ風にすくわれ顔にかかった前髪を払いながら、カズロが小さく頷いた。
「知っているわ。知らないはずがない。あなたの力が歪んでいくまさにその瞬間を、私はただ黙って見ていたのだから」
 ティカスラから視線を外し、カズロはまっすぐシェリアと向き合った。
「また少し、ついてきてもらえるかしら。他にも案内したい居場所があるの」

 続いて向かったのは、孤児院の裏口から出て少し歩いたところにある小さな丘の上だった。
 草木の緑以外ほとんどなにもないその丘で、唯一目を引く存在は――こじんまりとした一つの墓だった。
 墓石に刻まれた名前を読んでみたが、当然ながら聞いたことのないものだ。ノイエ=リスバン。没年を見ると、この名の人物が亡くなったのは十年少し前らしかった。更に気になったのは、わずか七年でその人生を終えたらしいということだ。
「これは?」
「あなたの幼馴染みのお墓よ、シェーラ」
 カズロは、風に吹かれて乱れた墓前の花束を綺麗に揃えなおした。
「そして以前の院長の娘さんでもあった。明るく元気な子でね、ちょっと引っ込み思案だったあなたを引っ張って、二人はいつも一緒に遊んでいたわ」
「……早くに亡くなったんですね」
 そう、とカズロは厳かに頷く。それこそが全ての始まりだったと言わんばかりの固い表情が、シェリアの身体を強張らせた。
「ノイエが亡くなったのは、この丘で事故があったからなの」
「事故?」
「とても不幸な事故。誰にもどうしようもなかったわ」
 やるせなさそうにカズロはため息をついた。どうしようもないと言うカズロは、自らに言い聞かせているようでもあったし、ここにはいない誰かを諭そうとしているようでもあった。
「ノイエがこの丘で遊んでいたときに、突風が吹いたらしくてね。丘の下へ転落してしまったの。運悪く頭を強く打って、しばらくは頑張ってくれたんだけれど、結局目を覚ますことのないまま半月後に」
 カズロは目を閉じた。厳かなその表情は、不幸な運命によって早くに命を奪われた少女に黙祷を捧げているように見えた。
「ノイエは孤児院の中心的な存在だったから、その死が与えた衝撃は大きかったわ。特に親である院長の嘆きはとても深いものだった。もちろん、自分の子供を亡くして悲しまない親はいない。けれど院長は、ノイエの命を救うためなら、自分の命はおろか他人の命を犠牲にしても厭わないというほど、彼女を愛していたの。彼の奥さんでさえ時々呆れてしまうほどに。……ああ、言い方が悪かったわね。実際に娘のために他人を疎かに扱うような人ではなかったのよ、院長も。でも、愛娘の死は、彼の精神をすっかり蝕んでしまった」
 ――あの日。あの、忌まわしい事故の日。
 あらゆるものの運命を大きく変えてしまったあの瞬間。
「あのときノイエはね、一人で丘から落ちたわけではなかったの」
 一人ではない。では、誰と一緒だった?
「シェーラ、あなたと」
 シェリアの心臓がとくんと跳ね上がった。
「あなたと二人、遊んでいたの。いつものように、ふざけてじゃれあっていた。突然の風に身体を押され、二人は共に丘から転げ落ちたそうよ。ただ、あなたはかすり傷程度の怪我で済んだ。ぐったりと動かなくなったノイエを、あなたはその小さな身体で懸命に抱えて戻ってきたわ。ノイエを助けてと泣きじゃくるあなたの姿……今でもはっきり覚えてる」
 ノイエはすぐに医者にかかったが、医者の顔色は非常に悪かった。明日を迎えることはできないでしょうと、彼は残酷な予言をした。ベッドの中で目を閉じたままのノイエに縋りつき、大声で泣き喚くシェーラ。その側で立ち尽くし、呆然と愛娘を見下ろす院長とその妻。あまりに居たたまれなくて、とても同じ部屋にいられなかったとカズロは振り返った。
 しかし、医者の言葉に反し、ノイエは翌朝も呼吸を続けていた。その次の朝も、その次の朝も、微かだが確かに聞こえる呼吸音。だから孤児院内にはささやかな希望が生まれ始めた。一日持たないと言われた命が、こうして細くも続いている。もしかしたらそのうち目を覚まし、澄んだ緑色の瞳が自分たちを見上げてくれるのではないか――。
 その希望はあっけなく潰される結果となってしまったのだが、その間に院長はますます精神を消耗したに違いないとカズロは言う。銅像のように動かぬまま何時間も座っていることもあれば、奇妙な程に明るく振舞い、にこにこと笑顔を浮かべることもあった。彼は、希望と絶望の狭間に漂う己の心をどう扱えばいいのか分からなかったのだろう。
「院長のシェーラへの接し方も、ノイエが亡くなった最初の頃は普通に見えたわ。院長の奥さんは明らかにシェーラを避けるようになっていった一方で、彼はよく耐えていると周りの大人たちは感じていた。シェーラは少しも悪くないけれど、二人同じ目に遭って、その結果に天と地ほども差があれば、どうしたって複雑な心境になるのは避けられないでしょう。なのに院長は変わらずシェーラを可愛がっていた。どころか他の子供たちよりも目をかけているようだったから、シェーラの心の傷を心配しているのかと思って、できた人だと感心さえしたわ」
 けれどそれは間違っていた、とカズロは首を振った。
「ノイエが亡くなってしばらく時が過ぎ、シェーラは目に見えて元気がなくなっていった。事故の後からはずっとそうだったけれど、友達をなくした悲しみとは違う、なにか別の種類の憂鬱さがあった。二人きりのときに理由を聞いてみたら、シェーラは泣きながら私に訴えたの。『私はノイエじゃない。そうでしょう、先生。でも我慢しなくちゃいけないのかな。私がノイエを助けられなかったから』って」
 それで更に詳しく話を聞こうとしたが、シェーラはそれ以上話そうとしなかったという。その言葉の真意を知るべく、カズロは時間さえあればシェーラを見守るようにした。そしてやっと気がついたのだ。院長のシェーラに対する態度が、おかしい。あまりに奇怪であると。
 端的に言えば、院長はシェーラを可愛がりすぎていた。
 まるで世界で一番大切な愛娘に接するかのようにシェーラを扱っている。今はもういない娘の代わりを、シェーラに押し付けているのではないかというほどに。
「しかも、それは表向きの話だったわ。表面上はシェーラをとても可愛がっていたけれど、心の中では彼女を拒絶しているのが感じられた。注意して見れば見るほど、あからさまな態度だった。院長はシェーラだけが助かったことが本心では許せなかったのよ。彼女が助かりノイエが死んだという事実と、そしてシェーラ自身をひどく憎んでいた」
 性質(たち)の悪いことに、院長は直接シェーラに辛く当たることは一切なかった。表向きはいつでも優しく接していた。優しく、愛情に満ちた――ように見える――態度。しかし本当は違う。お前を憎んでいるのだと、彼は笑顔の裏で語っている。
「シェーラはどうしていいのか分からなかったのでしょうね。気持ち悪くて逃れたくても、逃れようがないのよ。それにシェーラはノイエの死に責任を感じていたから、院長からの歪んだ扱いを甘んじて受け入れようとさえしていたわ。院長の奥さんもずっとなにも言わないまま、その頃に離縁して孤児院を出て行ってしまった。私自身も、どうするのが正しいのか分からなかった。表向きは完璧な『父親』だったから、単純に非難したりシェーラを引き離したりしていいのか迷ってしまって。院長は無自覚に振る舞っているのだと、同情さえしていたんだと思う。今思えば、無理にでも引き離すべきだったけれど」
 院長はシェーラに聖女の証である聖印が刻まれていることも早くに気づいていただろう、とカズロは言った。それでもシェーラを手放すことができなかったのは、彼女が目の前から消えてしまうことは、今度こそ「娘」を失ってしまうことになると頑なに思い込んでいたからかもしれない。
「シェーラは懸命に耐えていた。一度私に思いの欠片を打ち明けた以外は、誰にもなにも言わなかったようだわ。だけどシェーラも確実に心を病んでいったのよ。少しずつ、シェーラの周りに異変が起こり始めた。そのときも、初めのうちは気づかなかったけれど」
「……なにがあったんですか?」
 シェリアはそう問いかけたが、答えは明らかだった。
「シェーラと親しくしていた子供たちが、少しずつ亡くなり始めたわ」
 一言一言が身を切る刃というように、カズロは自らの言葉に傷つき顔を歪ませた。
「死因は様々だった。病気とか、物を喉に詰まらせての窒息死とか、階段からの転落死とか。だから最初は嫌な偶然が続くものと思っていたけれど、みんなうっすらと気づき始めたわ。シェーラと仲がいい子供ばかりが亡くなっているって」
 おそらく、皆口に出して確認しあうことはなかったはずだ。口にすることも憚(はばか)られる内容だったし、皆の意見が一致すればしたで、その後どう動くべきか答えを出せる者はいなかった。黙ったまま、子供も職員もシェーラから距離を取り始め、腫れ物に触れるような扱いをするようになった――ただ一人、院長を除いては。
 院長はますますシェーラに傾倒していった。誰もシェーラに近づかなくなってからは、ますます自分の所有物のように感じられたのだろう。それでいて、院長の中にはシェーラを憎む気持ちもなお存在していた。
 そしてシェーラが成長するごとに、いよいよ手元には置いておけないという葛藤が生まれ――最悪でも十五歳までには聖女となる儀式を受けさせなければならないと分かっていたはずだ――ついに院長は誰の目にも明らかな暴走をする。
 シェーラに乱暴を働こうとしたのだ。
 どんな考えがあったのか、本人の口から語られたことはない。だが、シェーラを愛しながらも傷つける一番の方法とはなんなのかを思えば、なるほどそれ以上のやり方はないだろう。
 しかし幸いにもそれは未遂に終わった。いくらシェーラを気味悪がっていたとはいえ、か弱い娘がなす術なく暴行されようというのを黙って見ているほど非道な人間ばかりではなかった。オルダをはじめ、数人がかりで院長を押さえつけ、どうにかシェーラは守られた。
 そのときやっとシェーラの首もとの聖印が明らかになり、その流れのまま王宮へ送り出すことになったのだ。