64.

「王宮へ送り出すときに、シェリアスティーナの歪んだ能力のことは言わなかったんですか? その能力の原因も」
 カズロは力なく頷いた。
「……ええ、誰も、なにも」
「……」
 シェリアの中に怒りにも似た感情が沸き起こった。それを感じたのだろう、目の前でうなだれるカズロは、シェリアが自分を責め立てるのを待っている。
 その覚悟は当然だと、思わないでもない。
 幼いシェーラが傷つき悪い方向へ向かうのを止められなかった、止めようともしなかった大人たち。表向きは平穏に流れていく毎日に妥協してしまい、事を荒立てるのを拒んでしまったのだ。孤児院に不可解な死が舞い降りてからは、ますます萎縮してしまって動けなかったのだろう。その上、シェーラに聖印が見つかれば、これ幸いと孤児院から追い出した。しかも王宮側にはシェーラの歪んだ能力のことは一切知らせなかったのである。もし最初にたった一言でもあったのなら、その後の運命は大きく変わったに違いないのに。
(ひどい。本当に、ひどいよ)
 心の底からそう思う。しかしシェリアの口からその台詞が放たれることはなかった。
 もし自分がカズロの立場だったらどうしていただろう。それを考えると、カズロばかりを責める気にはなれなかったのだ。
 自分だって同じように逃げる道を選んでしまったかもしれない。院長の境遇に同情もしただろうし、多少歪んで見えても「愛情」が与えられていたなら、真っ向から否定することもできなかったかもしれない。シェーラ自身が愚痴や弱音をほとんど吐かなかったのなら、そのシェーラの強さに甘えすらしてしまっただろう。歪んだ能力の発現でやっとシェーラの傷の深さを知っても、きっとなかなか動けない。親身になってシェーラを支えようとすれば、いつ能力の餌食になって命を落とすかも知れないのだ。恐ろしいと、思ってしまう。きっと自分だって逃げ腰になってしまう。
 王宮側へ能力のことを伝えなかった孤児院側の思いも、分からないでもなかった。これまでシェーラを育ててきた責任を問われるかもしれないし、そもそも神聖なる神の遣いに呪われた能力があるなど、口にするだけで憚られる。神への冒涜として罰せられるのではと思えば、口が重たくなるのも仕方のないことだ。
 それに、わずかな希望もあったのではないだろうか。環境が変われば、あるいはシェーラの力も治まるかもしれない、と。苦しみの元凶だった院長から離れ、辛い日々を思い出させる孤児院からも離れ、がらりと変わった環境の中で暮らせば、もしかしたら。
 もちろんそれは孤児院側の勝手な希望であり楽観的な妄想に過ぎないのだが、その可能性は非常に魅惑的だったはずだ。それに賭けたいという思いがカズロたちにあってもおかしくはない。
「……でも、どうしてカズロさんはこの孤児院に留まったんですか?」
 シェリアは、カズロを責める代わりにそう問いかけてみた。
「私がいなくなっても、全てが丸く収まったと元の生活が戻ったわけじゃないですよね。この孤児院は、それから大きく変わったんでしょう」
 現に今ここには、元の院長の姿が見当たらない。代わりにカズロが院長を名乗っている。それに先ほどの子供たちの話では、一度孤児院の面々が総入れ替わりしたという。それ以降、以前ここにいた子供たち――「前の代」が、孤児院に顔を出したことはない、とも。
「ええ、あなたの言うとおり。この孤児院はあなたを送り出した後、一度閉鎖になったのよ」
「それは、王宮側の命令で?」
「いいえ、違うわ。孤児院側から申請を出したの。私たちは本当に愚かだった。あなたが孤児院を出れば全てが落ち着くと思っていたんですからね。でも実際は違ったわ。あなたがいなくなってからの方が、孤児院の雰囲気は格段に悪くなった」
 それまでシェーラに注意を払うことで精一杯だった職員たちが、ついに己の薄汚さと向き合うことになってしまった。暴行未遂を起こした院長への信頼も決定的に失われており、孤児院は完全にバラバラになったのだ。一人、また一人と職員が去って行き、最終的に孤児院として機能しなくなってしまったのだという。
「元の院長は、私が聖女として王宮に上がってからもそのまま仕事を続けていたんですか?」
「最初のうちは。あなたに暴行を働こうとした事実自体、ねじ伏せられていたから。それでも噂はあっという間に世間に広まってしまったけれどね。とにかく、結局前院長はすぐに孤児院を後にしたわ、自らの意思で」
「『前の代』の子供たちは……」
「王宮側で引き取り手を捜してくれたの。本当は完全に孤児院を閉鎖するはずだったから。でもやっぱり、私は孤児院を続けたいと思った。それで前院長に権利を譲渡してもらって、資格を取り直して、王宮に再申請して……こうして今に至るわ」
 カズロはそれさえも申し訳なさそうに小さな声で答えた。
「なぜこの孤児院に留まろうと思ったのか、それは難しい質問ね。自分でもどういうつもりなのかよく分からない。ただ、一つ、勝手な言い訳なら思いつくわ。――私は今度こそ子供たちを幸せにしたかったんだと思う。あなたを守ることができなかったから、せめて他の誰かを守ることで、罪滅ぼしをしたかったんだと思うわ……」

 その後、シェリアたちは再び施設内に戻り、様々な部屋を見て回った。
 かつてシェリアスティーナのお気に入りだったという場所を案内してもらううちに、小さなシェーラが弾んだ足音を立てて施設中を走り回っているような気がしてくる。
 しかし実際には、どこにも彼女の存在は見当たらない。
 シェーラはもういない。シェリアスティーナもいない。彼女は誰も知らない場所で眠り続けている。
(もしあなたがこの場にいたら、あなたはどんな風に思った? ……シェーラ)
 シェリアは心の中に問いかけてみたが、もちろん返ってくる言葉などなかった。
 優しい光の差す孤児院で、どうしようもなく悲しくなる。
 隣を歩くアシュートはずっと無言だった。それが彼の最大限の気遣いなのだとシェリアには分かる。アシュート自身知りたいこと、聞きたいことはもっとたくさんあっただろう。この沈黙を破ってカズロに尋ねる権利も彼にはあるはずだ。それでもアシュートは、シェリアを優先してくれた。
「院長せんせい!」
 廊下の向こうから、小さな女の子が植木鉢を持って駆け寄ってきた。その後を追って数人の子供たちが姿を現す。
「どうしたの、転んじゃうわよ。それに廊下を走ってはだめと言ったでしょ」
「見て見て、せんせい。これね、お花が咲いたんだよ。きれいでしょう?」
 少女は興奮気味にまくし立てた。喜びのあふれ出る笑顔で鉢を差し出し、誇らしげに胸を張る。
「……あら、本当。随分綺麗に咲いたわねぇ」
 カズロはしゃがみこんで、差し出された鉢の花と向き合った。
「これ、ルーリィが育てていたもの?」
「そうだよ、私が育ててたやつだよ」
「まあ、もう花が咲く頃だったかしら」
 私も驚いているんです、と後から追いついた職員とも思える年長の娘が肩をすくめた。
「今朝見たときは、まだ蕾が固いと思ってたんですけど。ルーリィが一生懸命だったから、花も頑張ってくれたのかも」
「でもこれ、ワリアラ草だったはずよね。青い花が咲くはずなのに」
 今、少女の手の中にあるのは、淡い紫色の花である。
「それ、ワリアラ草で間違いないと思います」
 不思議そうに花を見つめるカズロたちの間から、シェリアは控え目に声をかけた。え? と答えを求める視線が一気にシェリアに集められる。
「ワリアラ草は、本当にごく稀に、紫色の花が咲かせることがあるんです。でも滅多に紫にならないから、紫の花が咲いたものには『天からの希望の光』という花言葉がつけられているくらいなんですよ」
「あらまあ、本当に? すごいわねえ、ルーリィ。紫色の花は特別なんですってよ」
「ほんとう? お姉ちゃん」
 先ほどより一層輝いた瞳で、ルーリィと呼ばれた少女がシェリアを見上げる。シェリアがにっこり笑って頷くと、ルーリィはますます嬉しそうにその場で跳ねた。
「お姉ちゃんの瞳と、おそろいだね」
「え?」
「おねえちゃんの瞳と私のお花、おんなじ色。どっちもとってもキレイだよ」
 無邪気な言葉に、シェリアは嬉しさと恥ずかしさがこみ上げて来てくるのを感じた。隣のアシュートがこちらに顔を向けたのを感じて、照れ隠しに慌ててしゃがみこむ。ルーリィと同じ目線になって、はにかみながら頭をなでた。
「いいなあ、ルーリィ」
「ずるいよ、僕のもはやく咲かないかなあ」
「そうだ、お姉ちゃん、私たちのも見て! もうすぐ咲きそうなのがいっぱいあるんだよ」
 子供たちに腕を取られ、シェリアは足をもつれさせながらもその場から駆け出す。
「わ、待って待って。転びそう」
「早く来て! 次は私のを一番に見てね」
「あっ、だめだぞ、順番はちゃんと決めるんだから」
「先生とお兄さんも早く!」
 両手を引っ張られながら、シェリアは子供たちの温かい手を握り返した。小さくて、とても柔らかい。穢れを知らない子供たちの手を握っていると、シェリアの沈んだ心が救われる気がした。
「ねえ、みんな。毎日楽しい?」
 走りながら、シェリアは問いかけた。子供たちの笑顔がいくつも振り返り、大きく頷く。
「楽しいよ! みんな仲良しだよ」
「先生たちも優しいし、大好き」
「お姉ちゃんたちもここに住めばいいのに」
「住めなくっても、いつでも遊びに来ていいよ」
 迷いもなくトントンと返ってくる子供たちの無邪気な言葉がすっと心にしみ込んでくる。
「そうだね」
 こうしてこの孤児院が残っていてくれてよかった。子供たちの笑い声が理不尽に奪われたまま、朽ちてしまわなくてよかった。カズロがいてくれてよかった。
「ありがとう」
 いつか戻ってくるシェリアスティーナが過去を振り返ったとき。そこに、温かい光が彼女を待っていることだろう。その光がきっと彼女の背中を押してくれる。その先にどんな未来が待ち受けていたとしても、彼女は進んでいけるはずだ。
 ありがとう――シェリアはもう一度心の中で呟いた。


「もし、もしまた気が向いたら、いつでも足を運んでちょうだいね」
「はい、カズロさん」
 孤児院の入り口で、カズロとシェリアは握手を交わした。時刻は昼過ぎ。もうしばらくすれば夕暮れ時になろうという頃だ。王宮に戻るにはちょうどいい時間である。
「……もし、私が記憶を取り戻したら」
 繋がった手に視線を落としながら、シェリアは呟いた。
「カズロさんたちに辛く当たってしまうことも、あるかもしれません」
 顔を上げると、真っ直ぐなカズロの瞳と視線がぶつかる。
「それでも、諦めて見捨てないでほしいんです。今日みたいに、ちゃんと私のことを受け止めてほしい。今日の私は、やっぱりかつてのシェーラじゃないから。昔カズロさんたちと一緒だったシェーラは、まだどこかで置いてけぼりになってると思うんです。そのシェーラからも、どうか目を逸らさないでください」
「ええ、きっと」
 カズロがしっかりと頷いたのを見届けて、シェリアは隣のアシュートを見上げた。それから更に顔を上げて、眩しい太陽と向き合い目を細める。
 ――まだもう少し、時間がある。
 やっぱり私は。
「カズロさん、あともう一つ教えてほしいことがあるんです」
「なにかしら?」
「前の院長は、今どこにいるんでしょうか」
 そう問いかけると、カズロははっきりと顔を強張らせた。喉に戸惑いが引っかかって言葉が出ないという様子だ。
「……それを聞いてどうするの?」
 やっと返ってきた言葉は、弱々しくも諦めの混ざった色に染められている。
「会いに行きたいんです」
「あの人に会っても、きっとなにも解決しないと思うわ」
「私もそう思います。でも、会っておきたいんです。私自身の気持ちに整理をつけるためにも」
「シェリアスティーナ様、ですがそれは」
 さすがのアシュートも口を挟んで難色を示した。
「お願い。ここまで来たら全てを確かめたいんだ。前院長がかつてなにを思っていたのか、今なにを思っているのか、知りたいの。知ってもどうにもならないっていうのは、その通りだけど……」
 重い沈黙が広がった。自分の気持ちを通したいシェリアと、それに反対したい二人。けれど互いの思いが分かるから、はっきり口に出して相手を否定することができない。それでもシェリアには分かっていた。自分が折れなければ、最後には相手が許してくれることを。
「……前院長はここを出てすぐに亡くなった――」
 カズロがぽつりと呟いた。
「――と、嘘をつくのは容易いわ。でもあなたに嘘はつけない。あなたが望むのなら、真実を伝えなければね」
「カズロさん」
「前院長のダンキスは、今は森外れの墓所で墓守をしているわ。私は全然彼に会っていないけど、時々街で買い物する姿を見られているようだから、変わらずそこにいると思う。孤児院を出てからはずっと一人で生活しているようだけど、詳しいことは分からないわ」
「墓守をしているんですか」
「彼自身がそう望んでね」
 それは、せめてもの罪滅ぼしというつもりなのだろうか。それとも偽りの愛情で自分自身さえだまし続けてきた年月に疲れ果てた故なのか。カズロの語りによってぼんやりとした輪郭だけが形作られた前院長は、シェリアになにも語りかけない。やはり、直接彼に会うしかないと思う。
「アシュート」
 懇願の意味を込めた瞳でもう一度アシュートを見上げる。アシュートは小さく頷き返してくれた。
「行きましょう。彼のところへ」
 その言葉に、シェリアも強く頷いた。もうあまり時間がない。今日という一日も、シェリアにとっての残り時間も。しかしだからこそ今動かなければならない。
 前院長のダンキスに、会いに行く。