67.

「本日は、お疲れ様でした」
 店内に陽気なざわめきが響く中、イーニアスは微笑みながらシェリアに労わりの声をかけた。
 仕事帰りと見える男たちが客の大半を占めている。どのテーブルもごく普通の平民ばかりで、シェリアたちのように身分のありそうな者はいない。それでも周囲が二人を気にかける様子がないのは、仕事の解放感に後押しされて、各々盛り上がるのに忙しいからかもしれない。食事処というよりも、食事を提供する飲み屋だな、とシェリアは思った。
 同じようなことを考えていたらしく、イーニアスもちらりと周囲を見渡し苦笑した。
「せっかくなのですから、もっと雰囲気のいい店で待ち合わせたかったですね」
 そんなことを言いながら、メニューを手に取りページをめくる。
「でも味は保証しますよ。せっかくですから少し食べて帰りましょう」
「ん、でも、早く帰らなくて大丈夫かな」
「なにも注文せずに店を出れば余計に目立ちます。初めから、少し腹ごしらえをする時間は考慮に入れてありますので。俺の方でいくつか見繕って注文してしまって構いませんか?」
「うん」
 それもそうかとシェリアは頷いて、メニューに目を落とすイーニアスをぼんやり見つめた。
 こうした店には不似合いな容姿にもかかわらず、イーニアスは随分慣れた様子で店員を呼び、いくつか料理を注文している。一時期は貴族の身分を剥奪されたイーニアスだから、平民が気軽に出入りするこうした店にもよく通っていたのかもしれない。
 やがて運ばれてきた料理の数々は、シェリアもかつてよく口にしたものばかりだった。気取らない家庭的な盛り付けがなんだか懐かしい。その湯気の向こうにイーニアスの姿が見えて、シェリアは少し不思議な気分になった。
「それにしても、無事に戻られて本当によかった。全て予定通りにいったのですか?」
「まあ、そうだね。……色々あったけど」
 しかしそれは元より覚悟の上だった。予定通りといえば、予定通りだったのだろう。ダンキスにああして激昂してしまったのには自分でも驚いたが、それについて後悔はしていない。自分の言葉で彼が悔い改めればいいと思ったわけではないのだ。ただ一心に、溢れ出た思いを彼に伝えたいだけだった。それを受けて彼がなにを思いどう動くかは、彼自身が決めることだ。
 シェリアはナイフとフォークを使って肉を切り分けた。王宮では考えられない、一つの皿に大きな鳥が焼かれて出てくることなんて。皆で一つの料理を取りわけて食べるという発想が、貴族には全くないのだ。だからこうして小皿に取り分けていると、懐かしい気持ちがますます大きくなっていく。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 シェリアが皿を手渡すと、イーニアスもどこかぼうっとした様子でそれを受け取った。こんな飲み屋で同じ皿の料理を二人分け合っているのが夢の出来事のようだという思いは、イーニアスも同じなのだろう。
 それでも料理を口に運ぶと、シェリアの心はぽっと明かりが灯ったように暖かくなった。美味しいな、とシェリアは思う。生きるってこういうことなんだ、などと若干大げさな感慨すら湧いてくるほどだ。
「……美味しそうに召し上がりますね」
 イーニアスはからかう風でもなく、ごく真面目にそんな言葉を口にした。皿から顔を上げると、やはり生真面目な表情をしたイーニアスとしっかり目が合う。そんな顔でしみじみと言われると、なんだかとても恥ずかしいではないか。
「そ、そんなに顔に出てたかな。でもこれ本当に美味しいよ」
 照れ隠しにシェリアはイーニアスにも料理を勧める。お酒も飲むかと尋ねたが、さすがにイーニアスは首を横に振った。
「……シェリアスティーナ様」
「うん?」
 二口目を口に運んだところで名を呼ばれ、シェリアは再び視線を上げる。
「あなたが好きです」
 ごくん、と料理を飲み込んだ。
「ずっと、好きでした」
 シェリアは目を見開いて固まった。目の前のイーニアスは真剣な表情のまま口を引き結んでいる。その光景が絵かなにかのように感じられ、頭の中が真っ白になった。――衝撃、だったのだと思う。しかし次にはすっと彼の言葉が胸に落ち、水面に雫が垂れるように波紋を作ってシェリアの心を揺さぶった。シェリアは己の唇がわなないているのに気づき、ぐっと強く噛みしめる。
「本当は、こんな風に言うつもりではなかったんですが」
 イーニアスは呟いて目を伏せた。
「気持ちを、抑えられませんでした。この店を出て、もっと雰囲気のある所へ移動するまで」
 困ったように眉を下げながらも、柔らかく微笑む。シェリアはそんなイーニアスを見つめ、ますます唇を強く噛んだ。
「私……」
 もう目を背けられない、と思った。話を変えることもできない。気づかないふりをすることもできない。イーニアスは、真っ直ぐ“ユーナ”に向けて気持ちを伝えてくれた。ならば、自分も“ユーナ”として応えなくてはならない。この身体は自分のものではないから――そんな風に逃げるのは卑怯だと、シェリアは己に言い聞かせた。
「ありがとう、イーニアス」
 だが、まず口から飛び出た言葉は、そんな感謝の言葉だった。
「……ありがとう」
 他に言葉が出てこない。シェリアは馬鹿みたいに「ありがとう」と言い続けたい衝動に駆られた。実際感謝の気持ちで胸がいっぱいだった。イーニアスの想いが、優しさが、今日までどれだけシェリアを支えてくれたことか。好きだ、と言われて、ありがとう、とだけ返す。そんな返事があるものかと自分でも思うが、溢れる気持ちはどうしようもない。
「私……、すごく、嬉しいよ」
 シェリアはもどかしげに言葉を繋いだ。
「でも」
 なんと言えばいいのか。気持ちを言葉にしようとするほどに、全てが色あせ薄っぺらくなっていく気がしてしまう。
「シェリアスティーナ様」
 イーニアスはもう一度シェリアを呼んだ。
「あなたの気持ちは知っています。それでも、あなたの口から俺に伝えてほしいんです。正確な言葉でなくてもいい。どうか、思ったままを俺に」
 その静かな声が、シェリアの胸にしみ込んでくる。
「私は」
「はい」
「イーニアスに、とても感謝してる」
「はい」
「一緒にいると楽しいし、嬉しいよ。でも、……イーニアスが私に向けてくれる『好き』とは違うんだと思う」
「……はい」
 イーニアスはただ頷いて先を促した。それがシェリアの後押しになる。
「ごめんね。ずっと、あなたの気持ちから目を逸らしてたね。私、誰かを好きになったりしないって、自分で思ってたから。毎日を過ごすだけで精一杯で、それ以外のことに目を向ける余裕がないって、思い込んでたんだと思う」
 でも、そうじゃなかったと気づかせてくれたのは。
「私、アシュートのことが好きなの。いつの間にか好きになってた。最初はそれにも気づかないふりしてたけど、それすらできなくなっちゃうくらい、本当に好きなんだって……自分自身に、思い知らされた。立場とか身分とか関係ない。ただアシュートが好き。……だから、イーニアスの気持ちには応えられないんだ。本当に、ごめんなさい」
 考えがうまくまとまらない中で、シェリアはどうにか率直な気持ちを言葉にした。言いきってから、小さく息をついてイーニアスをまっすぐ見つめる。
 イーニアスはしばらく黙りこんでいたが、やがてテーブルの上に置かれたままだったシェリアの左手を取った。眩しそうに目を細め、壊れものを扱うかのようにそっと持ち上げる。シェリアはされるがままに手を預けた。指先に、イーニアスの柔らかい唇が触れる。
「……あなたは、十分応えてくださいました。ありがとうございます」
「イーニアス」
「でも」
 イーニアスは口づけたままゆっくりと笑みを刷いた。
「俺は諦めきれません。自分がこんなに往生際の悪い人間だとは知りませんでした。――本当に」
「えっ」
 捕えられた手ごとシェリアは固まってしまう。
「とりあえず、今日はもうこの話を終わりにしましょう。まだもう一仕事残っていることですしね。無事に祝福の間まで帰還しなければ、今日一日は終わらない」
 ごく穏やかな口調でイーニアスは言い、シェリアの手を解放した。穏やかでいられないのはシェリアの方だ。イーニアスからの告白に答えるだけでも精一杯だったというのに、まだ諦めないと宣言されてしまうとは。あまりこうした経験のないシェリアにとって、告白の後にも同じ関係が続く場合があるなどとは思いもよらなかったのだ。
(諦めきれないほど大切に思ってくれるのは、嬉しいけど)
 それに、その気持ちも痛いほど分かる。いつかはアシュートと別れなければならないと知っているのに、諦めきれない想い――シェリアも同じものを抱えているのだ。
(どうすれば諦められるんだろうね、お互い)
 シェリアはスプーンでゆっくりとスープをすくい上げて、口をつけた。スープの温かさに、涙がこぼれ落ちそうになるのだった。

 それから王宮に戻ったシェリアたちは、打ち合わせ通りに西側から紛れ込むようにして帰還した。
 イーニアスは気まずさなど微塵も感じさせず、いつもの通りに紳士的で、シェリアの気持ちをほぐそうとしてくれているのが痛いほどに伝わって来た。街でお勧めのお店の話、最近の軍の様子、その他色々彼の話は尽きない。シェリアも自然な笑顔で受け答えをすることができたと思う。イーニアスと過ごす時間は、いつだって穏やかで楽しいものだ。
 それでも、やはりシェリアにはアシュートでなければ駄目なのだと思う。
 理由なんて説明できない。そもそも“理由”などきっと存在しないのだろう。どうしようもなく、逢いたくなる。触れたくなる。そして側にいたくなる。そんな風に思うのは、やはりアシュートだけなのだ。
「お戻りですね」
 王宮の敷地内、人影もまばらな通路を歩いていた時、不意に立ちはだかった細い影にシェリアは意識を引き戻された。顔を上げると、相変わらず無表情のネイサンが目の前に立っている。地味な私服を身につけているので、仕事を終えて自宅に帰る兵士だろうと誰もが考えるに違いない。いや、そもそもそういう男が王宮の西側を歩いていることに気づいた者さえいたかどうか。それほどネイサンは気配をうまく殺していた。
 ネイサンは人目を気にするようにちらりと周囲に目配せをすると、シェリアとイーニアスに小さく頷いて見せる。それからさっと通路を外れて歩き出した。シェリアたちもそれに倣って後に続くと、ネイサンは抑揚のない声でイーニアスに話しかける。
「ここからは俺がシェリアスティーナ様を祝福の間までご案内する。イーニアスは先に自室へ」
「ちなみにアシュート様は?」
「予定通りつい先ほど戻られた。シェリアスティーナ様が祝福の間に入ったら、アシュート様と侍女数名で迎えに上がる手筈だ」
 それを以って、今日一日の「祈りの儀式」は終わりを告げるわけだ。
「……分かった」
 イーニアスは特に反論をすることもなく頷いた。
「イーニアス、今日はどうもありがとう」
 この流れのままイーニアスが立ち去ってしまいそうだったので、シェリアは慌てて礼を言った。イーニアスは微笑みを浮かべて首を振る。
「俺はなにもしていません。シェリアスティーナ様こそ、お疲れ様でした。あともうひと踏ん張りです」
「うん、そうだね」
 では、と短く言葉を切って、イーニアスは別方向へと歩いて行った。
 それをゆっくりと見送る暇もない。ネイサンは少しでも時間が惜しいというように歩みを進めていく。シェリアは小走りにネイサンの後ろへ寄り添って、灯りの乏しい足元に注意を払い歩き続けた。行きに通ったルートを逆に歩いているだけなのに、夜道だというだけで全く違ったものに感じられるから不思議なものだ。
 花畑まで出ると、完全に辺りは暗闇に包まれていた。月の光がなければ、シェリアは前を行くネイサンの背中すら見失っていたことだろう。
「足元が悪く申し訳ありません。祝福の間までは、このままで」
「分かった。大丈夫」
 黙々と足を動かし続けていると、不意にネイサンがちらりと顔だけ振り返った。闇の中で、彼とシェリアの視線が交わる。
「こんな時に話すのもなんですが」
 シェリアはきょとんと小首を傾げた。
「反聖女派の件で、また動きがありました」
「!」
「街の外れで再び暴動が起こったのです。今回は以前よりも数段規模が大きかった様子です」
「そ、それで?」
「王立軍が無事鎮圧しましたが、双方にダメージがありました。特に反聖女派は大きな痛手を負った模様です」
「組織として成り立たなくなるくらい?」
 そこまでは、とネイサンは首を振った。
「残念ながら、反聖女派の核となるメンバーまでは捉えられませんでした。ミリファーレ様の行方も、依然不明のままです。――ただ、彼女が反聖女派に取り込まれているのはもはや疑いようがりません。今日捕えたうちの一人がそれらしいことを吐きました」
「……どうにか、どうにかミリファーレさんを見つけられないかな」
「難しいと思います。ミリファーレ様を見つけ出す時は、反聖女派の中心を暴く時。つまり組織を壊滅させる段になった時ということです」
 それでは遅いのだ、とシェリアは心の中で声をあげた。その未来を迎える前に、どうにか彼女を組織から救い出したい。アシュートと望まぬ対決をしなければならなくなる前に。
「ただ、それもそう遠くない話だと思います。反聖女派が今回負ったダメージは相当なものです。相手の余力から考えて、次に仕掛けてくる時が最後になるのではないかと」
 次が、最後。
 思った以上に時間がない。
「反聖女派は王宮に直接刃を差し向けることになるでしょう。その時、王宮を知りつくしたミリファーレ様が一枚噛んでくるのは必至です」
 どうすれば、止められる? ――それとももはや、止められないのか?
 シェリアの焦る気持ちを感じ取ったのだろう、ネイサンが足を止めてシェリアに向き直った。
「シェリアスティーナ様、あなたが動こうなどとは考えないでください。それこそ向こうにとっては、餌ない針に魚がかかるようなもの。反聖女派はそれらしい大義名分を抱えて動いていますが、実際は私怨を晴らしたいだけに過ぎません。万が一あなたが彼らに捕まった時、話して物の通じる相手ではないのです」
 それはよく分かる。だが、時が来るまでただじっとしていろというのも酷ではないか。
「王宮側は、アシュート様を含め、最悪の場面で採り得る最善の方法を模索しています。そうすれば、最悪の結果は免れるかもしれない――。我々は、そこに望みをかけているのです。“最悪の結果”を引き起こす行動が今は一番怖いということを、どうかお忘れなく」
 ネイサンの言葉がずしりと重みをもってシェリアにのしかかった。夜道は暗い。なにも見えない。それが一層シェリアの不安をかき立てるのだった。