66.
シェリアに鋭い瞳で睨みつけられたダンキスは、尚も媚びる言葉を畳みかけんとしていた口をゆっくり閉じた。気おされて、竦みあがっている。
「どうして私が、あなたを救えるだなんて思うの?」
今度こそシェリアの声は震えてしまった。シェリアの怒りはそれほど大きかった。
「あなたはなんのために、ここで一人過ごしてきたの?」
「シェ、シェーラ」
「悔い改めてるだなんて、一体なにに? 私には分からない。あなたは昔からなにも変わってないじゃない。シェーラを本当に愛していたって、全ては不幸なすれ違いだって、どうして未だにそんなことが言えるの? あなたはずっと逃げ続けてるんだ。ちゃんと自分自身の気持ちに向き合ってない。自分を正当化したまま、自分を哀れんだまま、まだシェーラを捕らえようとするの?」
「ち、違う。違う、私は……」
「違わない! 本当の気持ちと向き合ってよ。あなたは確かにシェーラを愛していたかもしれない。でも、それだけじゃなかったでしょ? 愛情を注げば注ぐほど弱っていったシェーラのこと、あなたは本当はどう思っていたの?」
「私はっ」
ダンキスはよろめき、後ろへ下がった。――本当はこんなふうに責めるつもりなどなかった。ただ真実を見極めたいだけだったはずだ。それでも感情は暴走して、言葉になって溢れ出てしまった。
「私は」
「あなたは?」
「私は……本当に、シェーラを愛していた」
「それがあなたの真実なの?」
「真実だ、真実なんだ!」
ダンキスは駄々をこねる子供のように首を振った。
「あなたは目が見えないみたいに振る舞うんだね。でも本当はただ見ようとしてないだけでしょ? もしあなたの娘さんが今目の前に立っていても、同じように見えないふりをすることができるの?」
びくり、とダンキスの肩が大きく揺れた。
「娘さんから目を逸らしたまま、シェーラを心から愛していたって、そう言えるの?」
「……」
今やダンキスの顔は紙のように真っ白だった。本当に見えなくなってしまったのではないかというほどに、目の焦点が合っていない。シェリアのほうを向いているはずなのに、全く違うなにかを捜し求めているようだった。
「あなたがシェーラを愛していたのは嘘じゃないかもしれない。でも、それが全てじゃない」
「……私は、シェーラを愛していた」
「でもそれが全てじゃない」
「愛していた……」
「それが全てじゃない」
ああ、とダンキスは嗚咽にも似たため息をついた。
「やめてくれ、考えさせないでくれ」
「考えて。もっともっと、考えて。真っ直ぐ自分の心を見つめてみて」
「できない! これ以上私を追いつめないでくれ! 私はお前に、救ってもらいたかったんだ。それなのに、こんな風に、恐ろしいことを」
「私じゃあなたを救えない。シェーラにも救うことはできない。もしあなたを救うことができる存在がいるとしたら、それは」
あなた自身なんじゃないの? シェリアは皆までは言わず、代わりにダンキスを鋭い視線で射抜いた。
「わ、私の、娘は……」
ぶるぶると震える声でダンキスは呟き始めた。ひどく頼りなく、これまでのどの話し方よりもおぼつかなかい。今に至る流れを無視して、まるで違う話を始めようとしているようだったが、ダンキスには彼の「始まり」から辿っていく必要があるのだろう。
「私の娘は、とても愛らしい少女だった。誰もが、愛らしいと、褒めてくれた。明るくて、無邪気で、いつも笑顔を絶やさなかった。そんな娘は、親である私にとってはなおさらいとおしい存在だった。私にとって、なににも代えがたい宝だったんだ……」
シェリアは口を挟まず、ただじっとダンキスを見つめ続けた。
「娘に愛情を注げば、娘も私に愛情を返してくれた。私には、それだけで幸せだった。この世の誰よりも、幸せ者だと、思っていた。――なのに、あの日、娘は突然」
帰らぬ……の音がかすれ、口の形でしかその言葉を判別できなかった。
「……私の中に溢れていた娘への愛は、行き所をなくしてしまった。娘はもういなくなった。私の愛情はどこに注げばいい。行き場のない愛情が、溢れ出て怖かった。注ぐ先を失った私の愛は、やるせなさや、なにかに対する恨みへと、変わっていった。それが自分でも恐ろしかったんだ。だから、だからシェーラを、娘のように、愛してやろうとした。私の愛情を、目一杯注いでやろうと」
ダンキスは慎重に語り続けた。言葉を選んでいるというよりも、どこかで自分の本当の気持ちから外れてしまわないかを気にしているようだった。
「でも、それが、うまく行かなかった」
とうとう彼の声は蚊の飛ぶ音より頼りなくなった。
「私はうまくシェーラを愛せなかった。愛そうと思っていたのに。シェーラが幸せそうにしていると、少し心がざわついた。逆に、シェーラが怯える姿を見せると、私はなぜか、満たされた。でもそれ以上に心満たされる瞬間もあった。それは、シェーラが私の愛におののく姿を見たときだ」
「どうして満たされたの?」
「嫌がっているのに拒まない。私が美しいシェーラを支配していると実感できた。それに、」
「それに?」
「私の娘の方が、幸せだったと思えたから。丘から落ちて死んだ方が、助かるよりもマシだったのだと、自分を納得させることができたんだ。あの時死んだ娘の方がまだましだったと」
「シェーラが娘さんより幸せになるのが許せなかったんだね」
「そんな思いも、少しあった。でも、心底お前を憎んでいたわけじゃない、はずだ。聖女として、孤児院から出してやろうと思っていたのは、本当だ。その後は二度と関わらず、幸せな道を歩んでくれることを、願って」
シェリアはゆっくりと首を振った。
「でも幸せになんてなれなかった。シェリアスティーナとなったシェーラが、幸せだったときなんて一度もない。ずっとずっと苦しかったよ」
ダンキスが顔を歪ませ、嗚咽を漏らした。
「シェーラ、すまない。すまない……」
「謝らないで」
どれだけ謝られても、その声は届くべき人に届かない。今となってはなにもかもが手遅れだ。
「あなたの知っているシェーラは、もういない。私にいくら謝ったって意味なんてない。ダンキスさん、本当にもう遅いんだよ。遅すぎたよ、色んなことが」
「私はどうすればいい、シェーラ」
「それは私には分からない。ダンキスさん、あなたが自分で考えないといけないことだよ。もっとちゃんとこれまでのことも、これからのことも考えて。できるはずだ、今だって自分の気持ちに目を向けることができたんだから。もっと時間をかけて、もっと深いところまで掘り返してみて」
きっとまだ十分じゃないから。今日のことは、彼にとってはきっかけに過ぎない。これから更に長い月日をかけて理解すべき彼自身の闇がある。
「――それでもまだ、今と同じようにシェーラに謝りたいと思ったのなら、その時もう一度、その言葉を……渡してください」
ダンキスは今度こそその場に崩れ落ちた。両手を地面につき、草をぎゅっと握り締める。うな垂れた彼の頭は、もう二度と持ち上がらないのではないかと思うほどに力を失っていた。引きつった泣き声ばかりが不規則に響き続ける。
ダンキスの震える肩が夕日で赤く染まっていた。もうすぐ夜が来る。そうすればやがては、朝が巡ってくる。彼の心にも夜明けの訪れる日は来るのだろうか。そして、シェリアスティーナの心にも。
シェリアは空を焼く真っ赤な太陽を見上げ、目を細めた。
ダンキスの墓場を出たときには、夕陽すらもほとんど姿を隠していた。
代わりに迫り来る闇の匂い。シェリアたちはどんどん濃厚になるその匂いに包まれながら、馬を飛ばし帰路を急いだ。
行きとは違い、シェリアの意識は冴えている。今日一日のことを思い返して瞬きをするたびに不思議と気持ちが落ち着く。暗闇に染まった景色さえも、今のシェリアの目にははっきりと捉えられている気がした。
シェリアスティーナ。
遠いようで、近い存在。近いようで、遠い存在。
これまではそう思ってきた。自分にとってのシェリアスティーナは曖昧な輪郭しか持たず、こちらに語りかけてくる言葉さえも持たない。指の先まで自分の思い通りに動かすことのできるこの身体は、ただの器でしかないのだ。いくら鏡と向き合ってこの姿を眺めようとも、それでシェリアスティーナという人物が分かることはない。
しかし、今は違う。今は彼女の存在を確かにすぐ側に感じる。どうして自分がここにいるのか、やっとはっきり分かった気がした。
本当はもっと早くに分かっていたことかもしれない。これまで随分と遠回りをしてきたものだ。最初からきちんとシェリアスティーナと向き合っていれば、こんなにも時間はかからなかっただろう。しかし、遠回りだったとしても、その過程が無駄なものだったとは思わない。これまでの時間は自分にとって必要なものだった。
「この辺りで一旦馬を降りましょう」
風を切る速度が少しずつ緩やかになっていく。
辺りを見回してみると、昼間馬に乗った場所まで戻ってきたらしかった。薄暗がりの中では随分と景色の印象が違うが、背の高い木に見覚えがある。
アシュートの手を借りて馬を降りたシェリアは、ほっと息をついた。なんだかんだで緊張し通しの一日だった。王宮の向こう側、幼いシェーラの世界に足を踏み入れて、たくさんのものを受け入れようと必死になった一日。無意識にも相当気を張り詰めていたのだと改めて思う。アシュートがいてくれてよかった。一人では今日のことを受け止めきれたか分からない。
「長い間お疲れ様でした。大丈夫でしたか?」
「うん、今日は本当にありがとう」
シェリアが感謝の気持ちを込めて微笑むと、アシュートも安堵したように笑みを返してくれた。
「せっかくなので夜の街を散歩でも、と言いたいところですが」
「こんな時期だもんね。すぐに王宮へ戻った方がいいね」
「ええ」
また次の機会に、と言えればよかった。しかしシェリアは口を開きかけて躊躇する。気安く「次の機会」の話をすることにためらいを感じるのだ。
「お疲れでしょうが、あともう少し頑張ってください。馬で乗り入れては目立ちますから、街の中心まで歩きましょう。ある店でネイサンが待っているはずですので、そこで彼と合流します」
「ネイサンと?」
「はい。そのあと私は王宮の正面から戻りますので、お二人は行きと同じように西側からお入りください。私の帰還が伝われば、王宮の者たちの意識は私のほうに向くはずです。そのタイミングをつけば、うまく入り込むことができるでしょう」
「分かった」
シェリアは頷きながらも、少し残念に思っていた。丸一日アシュートと過ごしたわけだが、そんなことに思い巡らせる暇もないほど目まぐるしく時間は過ぎ去ってしまった。ネイサンと合流すればそこでアシュートとお別れだなんて、なんだかもったいない気がする。
(そういうことを考えちゃダメだって分かってるけど)
側にいればいるほど、別れるときに辛くなる。
シェリアは何度も自らに言い聞かせたその言葉を、改めて思い起こした。
――この身体もこれから先の人生も、やはりシェリアスティーナのものなのだ。時が来れば全てを彼女に返さなければならない。例えそれが神に与えられた義務ではないのだとしても、そうするべきなのだ。神の言葉ではなく、自分の意思でそう思う。ずっとずっと悩んで怯え、目を逸らしがちにしてきたけれど。
やっと心に決めることができた。
今日孤児院を訪れて、シェリアの中の迷いは晴れた。
いつかその時が来たら、シェリアスティーナに全てを返す。そして力強くその背中を押してあげよう。その先の未来は、シェリアスティーナのものなのだから。
夕食時ともあって、街は昼間とはまた違う活気で溢れていた。
なんとも言えない開放感が街全体にただよっていて、それがシェリアには物珍しい。かつてユーナだった頃は夜に街の中心地へ来ることなどほとんどなかったし、シェリアスティーナとなってからは夜はおろか昼間でさえも王宮を出ることがない。シェリアは一日の疲れを忘れ、街の陽気な雰囲気に目を瞬かせた。
「今の時刻ですと、ワルシア亭にネイサンがいるはずです」
雑踏にかき消されそうになるアシュートの声を、シェリアはなんとか拾い上げた。
「時間で待ち合わせ場所を決めてるの?」
「日の沈む時刻から、少しずつ時間をずらして数箇所で待っていてもらっています。同じ場所に何時間も留まっているのはさすがに不自然ですから」
「そっか……」
そうまでして都合をつけてもらっていたと思うと申し訳ない気がする。そんな思いを抱きながら、シェリアはアシュートの後に続いて人で溢れた路地を進んだ。
「いらっしゃいませー」
扉を開いた途端、元気のいい挨拶が耳に飛び込んできた。
ワルシア亭は、一般市民が気兼ねなく足を運べるようなごく普通の食事処である。アシュートがこんなところを知っているとは意外だったが、もしかしたらネイサンの提案かもしれない。
待ち合わせだと店員に告げると、すぐに合点がいったように笑顔を返された。どうぞこちらへと案内されるままに込み合った店内をすり抜けていくと、やがて見えたのはよく見知った――金髪の後姿だった。
「あれっ?」
驚きのあまり素っ頓狂な声を上げると、その後姿はゆっくりとこちらを振り返った。振り返る動き一つとっても、こんな食事処で寛いでいるのがまるで似合わない、貴族然とした青年。
「お二人とも、お疲れ様でした」
「イーニアス」
その名を呼んでから、シェリアは隣に立つアシュートをこっそり見上げた。アシュートは難しい表情で唇を結んでいる。そんな彼の様子を見て、シェリアはこれが予想外の事態なのだとすぐに察した。
「……イーニアス、なぜ君がここに」
アシュートの低い声には明らかに怒気が含まれていた。しかしイーニアスは怯える様子もなく、泰然とアシュートの視線を受け止めている。二人の間に挟まれたシェリアは、一人はらはらと成り行きを見守ることしかできない。
「ネイサンに無理を言って代わってもらったのです。私がお迎えに上がりたいと」
「個人的な感情で勝手に予定を変えられては困る」
「申し訳ありません。ですが、ネイサンに劣らぬ仕事をしてみせます。今夜だけは、どうかお許しください」
今夜だけは。シェリアはその言葉に引っかかるものを覚えた。アシュートもそれは同じだったらしく、探るような眼差しを向け口を閉ざす。ちょうどそこへ水とメニューを持った店員がやって来たので、ますます話のできない状況になってしまった。
アシュートは諦めたように小さく息をはいた。
「……予定通り、私は先に戻る。イーニアス、先ほどの言葉を忘れないように。シェリアスティーナ様をご自室までお連れしたら、私のところへ報告を」
イーニアスはしっかり頷いた。その様子を見届けてから、アシュートはシェリアに向けて一礼すると、また後ほど、と一言だけを残して店を後にしてしまった。シェリアは一瞬縋るような視線をアシュートの背中に向けたが、思いなおして改めてイーニアスと向き合った。