73.

「アンタがユーナとして会いたい人、それは誰?」
 シェリアはごくりと唾を飲んだ。
 きっと後悔はしないはずだ。自分で決めたことなのだから。今自分ができること、きっとこれが最善の道なのだと――。
「ミリファーレさんに、会いに行きたい」
 はっきりとそう告げた瞬間、天使アンジェリカは理解不能と言わんばかりに眉根を寄せた。
「ミリファーレ、……って、誰?」
「アシュートの妹さんです。今、どこにいるか分からなくて。でも、どんな人のもとへも連れて行ってくれるんですよね?」
「それはまあ、そのつもりだけど」
 アンジェリカは呆れたとでも言いたげにため息をついた。
「アンタ、それでいいわけ? そのミリファーレって子と、別に仲良かったわけでもなんでもないんでしょ? 言っておくけど、これは一度きりの機会よ。また明日アンタを好きなところへ連れてってあげるってわけにはいかないのよ」
 それは重々分かっている。シェリアは迷いを見せず頷いた。
「せっかくの機会なら、未来に繋がるなにかを残したいんです。今ミリファーレさんに会って話ができれば、反聖女派と王宮との衝突を避けられるかもしれない。もう、他にチャンスはないと思うから」
「アンタって……」
 究極のお人よしね、とアンジェリカの呆れた顔が物語っていた。なにか胡散臭いものでも見るような視線をシェリアに送ってくる。しかし彼女も、これまでシェリアを見守っていたというのならよくよく分かっているはずだ。
 どんなに馬鹿げた行動であろうと、信じる道をただ進む。それがシェリアという人間なのだと。
 ユーナであったときなら、きっとそうはできなかった。己を犠牲にしてまで他人のために動こうだなんて、そんなこと。
 しかし今は違う。たくさんの人に支えられ、背中を押され歩んできたこの道程が、シェリアの意思を揺るぎないものにしてくれるのだ。
「アンジェリカ様、お願いします」
 シェリアは真っ直ぐアンジェリカの瞳を射抜いた。しばらくシェリアと真正面から向き合っていたアンジェリカは、もう一つ息をつくと、小さく肩をすくめる。
「ま、人選については私がどうこう言う問題じゃないけどね」
 そしてアンジェリカはほっそりとした白い手を差し出した。
「私の手を取って、目を閉じて」
 シェリアは言われたとおりにする。温度を感じさせない冷たい手。だが、しっとりとして心地がいい。
「これからミリファーレのところへアンタを送るわ。時間が来たらその場から消えちゃうと思うから、その前に立ち去るのがベストね。そのあとはまたシェリアスティーナの身体に戻る。だから……次にアンタと会うのは、今度こそ『最後の』ときになるわ」
 シェリアは思わず目を見開いた。アンジェリカは深い笑みを湛えている。
「アンタって面白い子よね。天使の私にもマネできないくらい、理想の天使って感じ。だから最後くらいは『ユーナ』として好きに行動させてあげようと思ったんだけど」
「アンジェリカ様」
「私、決められた道の上を無理やり歩かされるアンタを哀れんだこともあった。でも、全然そんな必要なかったみたい。アンタは自分で選んだ道を歩いてきてるのよね、ずっと」
「……はい」
 シェリアが頷くと、アンジェリカは繋がれた手をぎゅっと強く握った。
「ほらほら、目を閉じなさいってば」
「は、はい」
「それじゃ行ってらっしゃい。ミリファーレとの出会いが、いい方に向くといいわね」
 そうだ、今からミリファーレと会うことができるのだ。きっといい方向に動かしてみせる。シェリアは自分にそう言い聞かせ、アンジェリカの手をしっかりと握り返した。

 地面から突風に吹き上げられるような感覚に、ユーナは一瞬息をつめた。
 ぶわりと身体が持ち上げられる――そう思った次の瞬間には、何もかもが凪いでいた。
 閉じていた目を恐る恐る開いたユーナは、煉瓦の赤茶けた壁が目の前にそびえているのに気づく。とっさに周囲を見渡すが、人の気配は感じられなかった。どうやらここは建物の中のようだ。細く狭い通路が伸びていて、全体的に薄暗い。窓はない――と思ったが、天井付近にところどころ小さな穴がある。おそらくそれが採光窓であり通気口でもあるのだろう。
 ミリファーレはこの建物の中にいるのだろうか。
 ユーナははやる気持ちを抑えてゆっくりと一歩を踏み出した。その一歩がひんやりとした地面を蹴ったところで、自分が裸足であることを知る。そういえば、部屋のソファに寝転んだときに靴を脱いでしまったのだ。
 そこまで考えて、ユーナは自分の身体に小さな違和感を覚えた。うまく身体を動かせないような、不思議な感覚。一歩を踏み出したまま固まったユーナは、裸足の足が見慣れたそれとは違うことにも気がついた。
「あっ」
 微かに上げた自分の声も、やはり違う。しかしその違和感の正体はすぐに分かった。
 そうだ、今自分は「シェリアスティーナ」ではなく、「ユーナ」に戻っているのだ――!
「……」
 でもまさか、本当に?
 ああそうか、もしかしたら、これは夢なのではないだろうか。
 アンジェリカに事前に教えられていたにもかかわらず、ユーナは自分が今「ユーナ」であるということがにわかに信じられなかった。
 きっと、都合のいい夢を見ているのかもしれない。本当の自分は、今も王宮の部屋でソファに横たわって、すやすやと眠っているのかも。
 それでも。
 ユーナは震える両手に視線を落とした。それから強くその手を握り合わせる。冷たくて少しざらついた手――この感覚も、夢の産物だというのだろうか?
 腰にかかるほど長かったシェリアスティーナの金の髪も今はない。かろうじて目に入る、肩にやっとついた程度の髪はくすんだ茶色だ。
「戻ったんだ、本当に」
 ぽつりと呟いてみる。頼りなげだけれどどこか落ち着く声は、紛れもなくユーナのものだった。
「戻ったんだ……」
 呟く声がかすかに震えた。
 ああ。
 ユーナは目が眩むような感覚に、足元をふらつかせた。
 どうしよう、どうしよう。
 今の自分が紛れもない「自分自身」であるということに、一気に頭が混乱し始めた。自分が今なぜここにいるのかも、うまく考えられない。
 突如意識に浮上したのは、この一年近く麻痺させてきた家族への想いだった。このまま家に帰りたい。父と母のいる、あの懐かしい我が家へ。そしてなにもなかったかのように、日常に戻ってしまいたい。
 ユーナは自分の身体を抱きしめた。それから深く息を吸って、息を吐く。涙がこみ上げそうになって、ぐっと歯を食いしばった。

 だめ、だめだ。
 しっかりするんだ、時間がないんだから。
 なんのためにここへ来たのか、もう一度ちゃんと考えて――。

 手の跡がつくくらいに、ユーナは身体を強く強く抱き締める。
 ここで心を揺らしては駄目だと、立ち止まっては駄目なんだと、自分をどうにか叱咤する。色んな感情がない交ぜになってユーナを襲ってきたが、それに今向き合ってはいけないと遠くの自分が声を上げた。色々考えるのはあとでいい、今はとにかく、
(ミリファーレさんに会いに行かなきゃ)
 ユーナはふらつく足取りで、再び一歩を踏み出した。煉瓦の壁に手をつきながら、ほんのわずかに傾斜のある通路をゆっくり下っていく。手足から伝わる冷えた煉瓦の感触が、いくらか感情の波を沈めてくれた。
 そうだ、今はミリファーレだ。
 果たして本当に彼女はこの建物の中にいるのだろうか。いたとして、彼女に会える前に別の人間とはち合わせてしまったらどうすればいい。
(でも、今はとにかく、進むしか)
 ない。それしかできることはないのだから。
 それにしても、ここは一体どこなのだろう。普通の家という感じではない。強いて言うならば、ホリジェイル……あの監獄のような暗澹(あんたん)とした雰囲気が漂っていた。もちろん鉄格子の牢屋があるわけではないが、大っぴらに世間に開け放つことのできないような、どこか後ろめたい空気は同じだ。
 きっとここが反聖女派のアジトの一つなのだ。
(王都のどこかに、こんな場所があるんだ)
 以前、護衛役のネイサンに連れられて足を運んだ情報屋のことを思い出す。街のことには詳しいつもりのユーナだったが、ああいう「闇」の世界が生活圏のすぐ隣に広がっていることはまったく知らなかった。きっとそれと同じことだ。反聖女派も、存在をひた隠しにしつつ、しかし確実に王都のどこかで息づいている。
 通路の行き当たりを左に曲がると、すぐ目の前に頑丈そうな木の扉がそびえていた。
 確信があるわけではない。けれど、ミリファーレはこの扉の向こうにいる気がして、ユーナは迷いなく扉と向き合った。
 そっと扉に手を添える。こくり、と自分の唾を呑む音が耳に響いた。
 もし本当にミリファーレが部屋にいたら、なんと言って声をかけよう。ユーナは扉に手をかけたまま逡巡した。だが、どんな言葉を見繕っても怪しまれるのは避けられまい。それならば。
 なるようになれ、だ。
 ユーナはためらいを振り切って扉を開けた。がちゃりという乾いた音が、場違いなほど大きく響く。そして部屋の中を覗き見たユーナは、次に目に飛び込んできた光景に、汗が背中を伝い落ちるのを感じた。
 ――そこは、武器庫だった。
 冷たく光る刃が一斉にユーナを睨みつける。
 大小様々な剣に、鈍い輝きを放つ鎧。ユーナの伸長を超えるほど背の高い槍が束になって壁に立て掛けられているかと思えば、その隣には屈強な男ですら扱いに困るような巨大な斧がむき出しで置かれていた。
 そして部屋の中央には、一人の少女が立っている。
「あ……」
 ユーナが声をかけるより早く、少女は手近にあった短剣に手を伸ばした。流れるような動作でそれを胸の前で構える。ぎらぎらと光る双眸は、この部屋にあるどの武器よりも鋭利に感じられた。
「あなたは何者」
 怒りと憎しみの滲む声。ユーナは動くことも忘れ、ただその場に立ちすくんだ。
 彼女が、ミリファーレ。
 艶のある長い黒髪を頭の高い位置で一つにくくり、しなやかで長い手足をした、痩躯(そうく)の少女。間違いない、と思った。アシュートと全く同じなのだ、その濁りのない黒い瞳が。
「私は……ユーナ」
 なるだけ落ち着いた声になるよう気をつけて、ユーナは答えた。
「あなたの敵じゃない」
「名前を聞いているんじゃないわ。どうやってここまで来たの。いえ、どうやってこの場所を知った?」
「お願い、剣を下ろして。あなたと二人きりで話がしたい」
「私の質問に答えなさい」
 ミリファーレは、当然ながら一切気を緩めるそぶりを見せなかった。大声で騒がれないだけましと思うべきかもしれない。
「私は、あなたのお兄さんの、知り合いなの」
 そう告げた瞬間、ミリファーレの表情が一層険しいものになった。ナイフの柄を握る手が力のあまり震えていることさえ、傍目にも分かる。
「でも、お兄さんに頼まれてここへ来たわけじゃない。王宮の誰かの命令でもない。私は私の意思で、一人であなたに会いに来たんだよ」
「そんな言葉、信じられると思うの」
「信じて」
 ユーナは覚悟を決めて、ミリファーレの方へ一歩踏み出した。
「近寄るな!」
「ミリファーレさんっ」
「……そう、このアジトはもう包囲されているのね。あとは全員殺して片をつけるだけってところかしら。お兄様が最後の情けをかけて、あなたに私を説得するよう命じたんでしょう」
 そこでミリファーレは皮肉げな笑みを浮かべた。
「またあの人は、私だけを助けるつもりなのね。そして波を立てずに後始末をする」
「そんなんじゃないよ」
 そんなんじゃない。アシュートの苦悩をよく分かっているからこそ、ユーナはそれをミリファーレに伝えたかった。しかし、ミリファーレはどこまでも頑なだ。
「言っておくけど、私は自分の意思でここにいるの。たとえどんなに劣勢に立たされても、王宮に戻ったりしない。おめおめお兄様のもとに戻るくらいなら、反聖女派の一員として死ぬわ!」
「違う、お願い待って。誰もこのアジトの場所は知らないんだよ。もちろん王立軍も来てない。アシュートだってあなたがどこにいるのか、今も知らずに苦しんでる!」
「……」
 ミリファーレは不意に剣を下ろした。眼光は鋭いままに、今度は彼女から一歩を踏み出す。
「そんな戯言、信じると思う方がどうかしてるわ。あなた、ユーナと言ったわね」
 ミリファーレの瞳がわずかに細められた。
「せっかくだから身を以って知るといい。――私が遊びでここにいるんじゃないってこと!」
 その言葉が終わらぬうちに、ミリファーレは地面を蹴った。一気にユーナとの距離が縮まる。しまった、とユーナは後ろにのけぞったが、もはやなんの助けにもならなかった。ミリファーレの手の中の剣が、尖った刃が、今はっきりとユーナに向けられている。
 それが分かるのに、ユーナには避けることができなかった。