74.

 刺された、と思った。
 実際剣は真っ直ぐユーナに突きつけられた。
 なんという光景だろう。自分の下腹部へ、今まさに刃が沈められていく。目を逸らしたいはずなのに、あまりの驚きに身体が動かない。ユーナは言葉さえも見失い、ただただ呆然と成り行きを見守った。
 だが、それも一瞬のことだったに違いない。
(痛い!)
 直感でそう思ったユーナは、声なき悲鳴を上げた。
 ぱっと脳裏に閃く光景。傷口から生温かい血があふれ出し、焼けるように熱くなって、気の遠くなるような痛みが続くに違いない――。
 瞬時に巡らせた想像は、しかしなかなか現実のものとはならなかった。
 剣は確かにユーナの腹に深く刺さっている。だが、そこに一切の感覚が集まっていないのだ。血も流れていない。ただ「刺さっている」だけで、そのまま時が凍りついてしまったかのようにそれ以上の動きがない。
「え……?」
 声を上げたのはミリファーレの方だった。この状況を前に、ひどく動揺した表情を見せる。迷いなく突き出されたはずの彼女の両手が、戸惑いと共に剣の柄(つか)を離れた。途端、短剣が乾いた音をたてて地に転がる――まるで、初めからそこにはなにも存在していないかのように。
「な、なんなの、これ……」
 ミリファーレの呟きは、そのままユーナのものでもあった。これは一体どういうことなのか。なぜ刺されたにも関わらず、痛みもなければ流血もしていないのか。
 ユーナは衝撃から立ち直れないまま顔を上げた。化け物を見るかのようなミリファーレの怯えた瞳がすぐそこにある。化け物――そうか、とユーナは目の前がすっと開けた心地になった。そう、自分は確かに生身の人間ではない。人ではない存在なのだ。
 ああ、だからなのか。天使アンジェリカの恩恵を、こんな形でも受けている。元の姿に戻ったと思えたのは全て幻で、今ここにいる自分はかつての自分と同じではない。
 分かっていたはずなのに。
「ミリファーレさん」
 声をかけると、ミリファーレは跳ねるようにして後ろに飛びのいた。
「ち、近寄らないで。あなた本当に何者なの!?」
「私は――私は、かつてユーナという名の存在だった。でも今は、その魂がここにあるだけ。あなたにどうしても会いたかったから、私はここにいる」
「ど……どういう意味?」
「私はこの一年、王宮で暮らしてきたの。アシュートの側にいて、彼やシェリアスティーナの過去に触れてきた。二人がどんな想いを抱いていたのかも、少しだけど知ることができたと思う。でも――私はもう、この世の存在じゃなくなってしまった。馬車に轢かれて死んでしまったんだ。だから私は、本当ならここにいるはずのない存在。あなたとアシュートの衝突を食い止めたいという思いが、私を今ここに立たせているの」
 ミリファーレは青い顔で首を横に振った。信じられない、という言葉が、その表情からはっきりと読み取れる。
「一年足らずの間、私はずっとアシュートを見てきたよ。アシュートがどれだけたくさんのことに悩んで、傷ついて、それでも踏ん張ってきたかを知ってる。だから、私がこの世からいなくなる前に、どうしてもそれをあなたに伝えたかったの」
「や、やめて。訳の分からないことを言わないで」
「信じられないのも仕方がないと思う。でもお願い、話を聞いて」
「やめてってば!」
 ミリファーレは取り乱したまま手近にあった木の破片を取り、思いきりユーナに投げつけた。避ける暇がない――だが、そんな必要もないのだった。それはユーナの身体を通り抜け、後ろの壁に衝突した。壁を伝って地に落ちた欠片を眺め、ユーナはぞくりと背筋を凍らせる。
 本当に自分は、人ではない存在となってしまったのだ。今こうして、確かにこの足で地面を踏みしめているのに。そして、恐怖に戦(おのの)いて両手が震えてさえいるのに。それらも全て、幻に過ぎないという現実が恐ろしい。
(分かってる、分かってる!)
 一年前のあの瞬間から、もはや自分はユーナではなくなったのだ。分かっている。
 それなのに、今でも恐怖が胸の奥に棲みついて離れない。怯えている場合ではないのだということも、よくよく理解しているはずなのに。
「こ、こんなこと、ありえないわ」
 向き合うミリファーレは泣きそうな声で呟いた。
「ミリファーレさん」
 ユーナはどうにか震える心を静め、今一度言葉に力を込める。
「あともう少しだけ、ここにいて私の言葉に耳を傾けて。理解してくれなくていい。受け入れてくれなくてもいいの。近いうちにアシュートと対立することは、もう避けられないのかもしれない。でも、その時に、私の言葉を少しでも思い出してくれたら」
「……」
 ミリファーレはよろめきながら後ずさった。
「アシュートはずっと、自分の過去を自分の『罪』だと思って苦しんできた。ううん、今でもすごく苦しんでる。それでも王宮を去らずにいるのは、権力に固執したからでもないし、全てを諦めたからでもない。アシュートは、自分に期待された役割を辛抱強くこなすことで、一人でも多くの人たちを救いたかったんだよ。シェリアスティーナのせいでめちゃくちゃになった王宮を支えたいって、考えてたんだ」
 ユーナはミリファーレから視線を逸らさず、精一杯まくしたてた。この言葉が彼女に届いているかは分からない。しかし、自分にできることは、もはやこれだけしかないのだ。
「ミリファーレさん、あなたがこういう形で戦っているのと同じように、やり方は違うけど、アシュートも戦ってる。それだけは胸のどこかに留めておいてほしい」
「……私は、私には、分からない」
 ミリファーレは呆然とした表情のままそれだけを呟いた。更に後ずさろうにも、彼女の後ろには武器が山と積まれている。行き場を失った小柄な身体は、それでもユーナから逃れようとわずかに身をよじった。
「私がお兄様だったら、絶対に王宮には残らなかったわ。誰になにを言われたって、すぐに出ていったはずよ」
「アシュートは『神聖第一騎士』の重みをよく知ってたんだよ。王宮と、たくさんの人たちの支えになる存在なんだってこと。だから、それを捨てることはできなかった」
「義務感だけで耐えられる苦しみなんて、高が知れてるってことだわ」
「義務感なんかじゃない。アシュートは、自分の信念を貫くために耐えてたんだよ。『第一神聖騎士』としての自分が、『アシュート』としての自分の人生よりも大切なものだと考えたから」
「それこそ馬鹿げてるわ。お兄様は、ただ逃げていただけに決まってる。個人としての意思を持つことができなかったから、公人としてもっともらしい態度を見せて取り繕っていたに過ぎないのよ」
「違う。それは違うよ、ミリファーレさん」
「どうしてそんな風に言えるのよ! あなた、お兄様のなんなの?」
 ミリファーレのなじるような問いかけに、ユーナは言葉を詰まらせた。
 この一年、ずっとアシュートの側にいた。けれど、その自分は何者なのか?
「私は……」
「聖女シェリアスティーナとは形だけの婚約をして、本当の恋人はあなただったということ?」
 ユーナは力なく首を振った。
「そうじゃないよ。でも、今ここで説明できない。とても入り組んだ事情があるから」
「今ここでできないなら、いつ説明してくれるって言うのよ。あなた、もう死んでるんでしょ?」
「――」
 半ばやけになったように吐き出されたミリファーレの台詞に、ユーナは確かに傷ついた。けれどそれは事実なのだと自らに言い聞かせる。ユーナはまっすぐミリファーレを見据え、頷いた。
「そう。私にはもう、アシュートを見守ることはできない。……だから、あなたにアシュートの支えになってほしい」
「いい加減にして!」
 ミリファーレは再び声を荒げた。
「この際、あなたが何者かということだって、もうどうでもいいわ。ただ一つだけ言っておく。お兄様にはあの人なりの信念がある、それは確かかもしれない。でも、私にだって私なりの信念がある! それを曲げさせようとしても無駄よ。絶対に私は引かないわ!」
「ミリファーレさん……」
 ユーナはミリファーレの気迫に押され、口をつぐんだ。彼女の頑なさは、そのまま彼女の意思の強さに違いなかった。この小柄な体の中に、どれほど悲壮で堅固な決意が秘められているのだろう。それを打ち崩すことは、ユーナにはできそうになかった。
 その時だ。
 憎しみのこもった瞳でユーナを射抜いていたミリファーレは、はっとしたように顔を上げた。なにかを察知したように、鋭く扉の方へ向き直る。
「仲間が来る」
 その呟きに、ユーナは身を強張らせた。指摘されて初めて、人の足音が近づいてくるのがユーナにも分かった。このまま姿を見られれば厄介なことになる。かといって、逃げ道はどこにもない――。
「部屋の角で身をかがめなさい。あの盾の影に入れば、扉からは見えないわ」
 低い声でミリファーレがそう告げた。顎で指された方を見れば、確かに武器の山に交じって盾がいくつか立てかけられている。
 見逃してくれるつもりなのだろうか。
 ユーナは逡巡してしばし固まったが、ミリファーレの急かす視線を受けて、彼女の言う通りにすることに決めた。ユーナが盾の側にうずくまるのと、勢いよく部屋の扉が開かれるのはほぼ同時だった。
「ミーレ、なにかあったのか」
 緊張を含んだ男の声が飛び込んでくる。ユーナは盾の側、物音を立てぬように息を殺した。自分の鼓動がやけに大きく耳に響いて、相手に気づかれてしまうのではないかと不安になる。
「なにもないわ。どうして?」
「わめくような声が聞こえたと思ったんだが」
 男が怪訝な顔つきで部屋を見渡している光景が、ユーナの脳裏にありありと浮かんだ。
「なあに、それ? 敵襲があったということ?」
「いや、他に異常はない。お前のところもなんともないんだな」
「見た通りよ。変なことを言わないで」
「……それならいいんだが」
 そう言いつつも、男はまだ気を緩めていない様子だった。なかなか立ち去る気配を見せず、部屋の入り口付近を歩きまわる。彼の足音がいつこちらに向くかと思うと、ユーナは気が気ではなかった。だが、ユーナより先に痺れを切らしたのはミリファーレの方である。
「なによ、私のことを疑っているわけ? 実は王宮側と繋がっていて、向こうの密偵と連絡を取り合っているとでも?」
「そんなことは言っていないだろう。疑心暗鬼になるな」
「疑心暗鬼になってるのはそっちじゃない。聞こえもしないわめき声につられて様子を見にくるだなんて」
「ミーレ」
 男は諭すように彼女の名を呼んだ。
「襲撃の直前で気が立っているのは分かる。だが、苛立ちを言動に変えて無用な問題を引き起こすなよ」
「……分かってるわ」
「武器在庫の確認は?」
「あともう少し。一人で大丈夫よ」
「了解」
 男が背中を向けたのが気配で分かった。それでもユーナは気を緩めず、完全に彼が立ち去るのを辛抱強く待ち続ける。扉が閉まり、足音が遠ざかり、それが聞こえなくなるまで指一つ動かさずにうずくまり続けた。
「……もういいわよ」
 ミリファーレが低く呟いたのは、どれくらい経ってからだろうか。その言葉を受け、ユーナはやっと緊張を解いた。小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。足が痛い――その感覚も確かにあるのに。
「ミリファーレさん、ありがとう」
「やめて」
 ミリファーレは怒ったように遮った。
「さっきの会話で分かったかもしれないけれど、私は完全には信頼されてないのよ――反聖女派の仲間にね。だからあなたと二人で向き合っているところを見られたくなかったのは、私の都合よ」
「信頼されていないのに、それでもここにいるの?」
「重要なことじゃないわ。私は人とつるむためにここにいるんじゃない。目的は他にあるのだから」
「……それでも」
 ユーナはなおも食い下がった。
「どうか憶えていて。今のあなたには、たった一つの道しるべしか見えていないのかもしれない。でも、道は無数に伸びてるんだよ」
「まだ言うのね」
 強い眼差しが再びユーナを射抜く。しかしそこには先程までの燃え上がるような怒りは見られなかった。
「どれだけ道があっても意味はないわ。信念を貫くために通るべき道は一つ。その道さえ見えていればいい」
「――」
 ユーナは更に口を開こうとした。だが、不意に身体を襲った違和感に言葉を奪われた。奇妙な浮遊感が、ユーナを足元からすくい上げる。つられて足元に視線を落とせば、自らの身体が光の粒と化して消えていくのが目に入った。
「あ、あなた、足が……!」
 もう時間が来たのか。ユーナは身体が消えゆかんとする光景に衝撃を受けながらも、どこか納得するものを感じていた。
「ミリファーレさん、アシュートは今でもあなたを待ってるよ。お願い、それだけは、それだけは忘れないで!」
 その言葉にミリファーレがどう返したのかは分からない。
 すぐにユーナの視界は光でいっぱいになり、全ての感覚はあっという間に失われた。最後の言葉もきちんと彼女に伝わったのかどうか――それを確かめる術さえない。ユーナは深い深い眠りについた。海の底でまどろむような、不思議な心地よさが彼女を支配したのだった。