75.

 気がつけば、シェリアは自室のソファに横たわっていた。
 ぱっちりと目を開いた瞬間、胸に沸き起こる焦りに突き動かされて飛び起きる。なんの変哲もない、見慣れた部屋の風景。それをしっかりと確認しながら、シェリアは動悸がおさまるのをその場で待ち続けた。
「……」
 夢だったのだろうか。
 つい今しがたの出来事を思い返して、シェリアは自らにそう問いかける。アンジェリカと再会したことも、ミリファーレのもとに連れて行ってもらったのも、全ては儚い夢まぼろしに過ぎなかった?
(そんなこと、ない)
 あれが現実だったと証明するものはなにもない。だが、確かにシェリアはミリファーレの声を聞いた。自分を射抜く真っ直ぐな瞳と向き合ったのだ。
(でも……)
 なにもできなかったのも、また事実だった。
 強く瞳を閉じれば、ミリファーレの刃のような眼差しがはっきりと思い浮かぶ。これまで話の中だけで彼女の存在を「知って」いたシェリアは、実際に彼女と向き合ったあの瞬間、奇妙な感覚にとらわれた。ミリファーレという少女は、もっと傷ついていて、もっと弱っていて、本当は助けを求めている存在なのだと、勝手にそう思っていた。
 だが違ったのだ。
 彼女の意思は非常に強固なものだった。当事者でないシェリアが手を差し伸べたところで、その手にすがるような少女ではなかった。
(そう、私の言葉は全然届かなかった)
 あまりに短い時間だったと思う。しかし、もっと時間があれば違う結果を得られたのかと問われれば、やはり頷くことはできない。シェリア自身もあまりに無力だったのだ。アシュートの痛みも、ミリファーレの痛みも、シェリアスティーナの痛みも知っている。しかし、その痛みを伝える術が分からなかった。
(意味のないこと、したかな)
 シェリアは途方に暮れて宙を仰ぐ。つい今しがた側にいたはずのアンジェリカの姿は、今はどこにも見えなかった。部屋の中にはシェリア一人きりだ。次に対面するのは「時」が来たとき――そんな彼女の言葉が思い出された。
 きっと、その「時」はもうすぐそこまで迫っているのだろう。
 静まり返った部屋の中、シェリアは自らの身体をかき抱いてうつむいた。
 ユーナに戻った時よりも、ずっとしっくりくる手足の動き。さらりと流れ落ちる長い髪が、抱えた膝をわずかにくすぐるのも、もはやすっかり馴染んだ感覚となっていた。自分のものではないけれど、この身体が今では自分の一部であることも確かなのだ。
(お父さんやお母さんに会いに行けばよかったかも)
 顔を上げられないままそんなことを思って、しかしすぐにその考えを打ち消す。
(――違う。きっと、ミリファーレさんに会ったのは無駄なんかじゃなかった)
 アンジェリカの言葉が再び頭の中にこだました。まだ成すべきことが残っている、彼女はそうも言っていたのだ。ミリファーレに会うということは、きっとその一つだった。今は無意味な出会いに思えても、それがこの先どこかで意味を成すかもしれない。
「シェリアスティーナ様、失礼いたします」
 その時、扉の向こうから、穏やかな侍女の声が投げかけられた。
「……はい」
「そろそろ夕食のご用意をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
 なに一つ変わらない、日常を運ぶ声。今のシェリアにはひどく場違いなものに感じられた。正直なところ、なにかを口にしたい気分ではない。できれば再びソファに横になり、なにも考えず深い眠りについてしまいたかった。しかし、周囲に余計な心配を掛けてしまうのはなおさら嫌だ。
「うん、お願いします」
 そう答えてシェリアはソファから立ち上がった。先ほどまで緊張感に満ちていた感覚とはまるで正反対に、ひどく身体が重い。ユーナだった自分とシェリアである今の自分、どちらが現実なのか分からなくなる。
「失礼いたします」
 扉を開き、きっちりと礼をする侍女の姿が目に入った。その様子も今はやけに遠く感じる。
「……シェリアスティーナ様、どうかなさいましたか?」
 ぼんやりと佇むシェリアを不思議に思ったのだろう、カートを引いて部屋に入りかけた侍女が首を傾げて問いかけた。
「ご気分でも」
「あ、ううん、大丈夫。ちょっとうとうとしてただけ。それより、なんだかすごくいい匂いがするね。今日の夕食はなに?」
 本当は匂いなど全く分からなかった。それでもあえてシェリアは弾んだ声を上げる。
「はい、今晩は鶏肉を焼いたものと、あとは旬の野菜で新鮮なものがたくさん入りましたので、そちらを」
「わあ、いいね」
 シェリアは笑顔でそう返したが、それ以上続ける言葉が見つけられなかった。
「……少し、窓を開けようかな」
 いつものように雑談を続ける気になれなかったシェリアは、侍女にこれ以上心配をかけぬよう、そっと彼女に背中を向ける。
「あ、それでしたら私が」
「いいのいいの、一緒に風も浴びたいし」
 夕食を準備する手元から顔を上げた侍女を制し、シェリアはゆっくりとした足取りで窓へ向かった。バルコニーへ続く扉を開けると、肌に冷たい風が部屋に吹き込んでくる。深い深い青に染まった空に、ほんのわずか、太陽が残した赤が滲む。瞳を細めてそれを見守っていたシェリアは、目の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
 綺麗な空だ、本当に。
 この空の下、こうして息をしている。
 それが、なによりも素晴らしい奇跡に感じられた。
(ああ――本当に)
 シェリアは長い間そうして佇み、じっと空を見上げていた。


 翌日、いつもの儀式に出席したシェリアは、その足でライナスの執務室へ立ち寄った。
 昨晩ミリファーレに会ったことを彼には話しておこうと思ったのだ。彼女はあまりに頑なで、シェリアの言葉を聞き入れようとはしなかったが、せめてその様子をライナスに伝えておくだけでも意味があるかもしれないと思ったのだ。
 しかし、会議中とのことで彼は不在だった。出直すほどでもないと思っていたが、聞いたところによるとそろそろ会議も終わる時間らしいので、ひとまず近くの庭に足を延ばしてみることにする。もしすぐに戻ってくるようだったら、少し話をしよう。
 庭はどこか閑散とした雰囲気だった。
 もうほとんどの花が散ってしまった時期だから、それも仕方あるまい。代わりに小さな黄色い実をつけた低木がいくつか茂っている。朝食もほとんど食べられなかったシェリアだったが、なんとはなしにこの甘酸っぱい実を摘んで口に放り込んでみた。
「なにやってるんだい、こんなところで」
 ちょうど会議が終わったのだろう、仕事の資料と思しき荷物を侍女に預けたライナスが廊下から声をかけてくる。振り向いたシェリアは、手招きをしてライナスを呼び寄せた。
「一体なんだい、そこは遊歩道じゃないんだけど」
 不承不承ながらも、ライナスは呼ばれるままに庭へ降りてきてくれた。
「見て、ライナス。ロジュムの実がなってるよ。これ、甘酸っぱくておいしいんだ」
 シェリアはさらに実を摘んで、口の中に放り込む。もう一つをライナスに差し出したが、嫌そうな顔で首を振られてしまった。仕方がないのでそれも食べる。
「聖女ともあろう者が、庭の端っこに勝手に立ち入って、野生の木の実を食べないでくれないかな」
「シェリアスティーナはやっぱりこんなことしなかっただろうね」
「シェリアスティーナでなくても、こんなことをしている人間を私は王宮で見たことがないよ」
「でも、こういう楽しみもあると思うな。シェリアスティーナが戻って来たら、色んなことを教えてあげてほしい」
「……君」
 ライナスはちらとシェリアを見下ろす。
「なにかあったのかい?」
「……」
 シェリアは少し視線を落とした。
「昨日ね、天使様に会ったの。私の魂をシェリアスティーナの身体に移した本人に」
 ライナスは一瞬言葉を詰まらせた。シェリアはまた一つ黄色い実を摘まんで口に入れる。
「……会ったって、どこで?」
「私の部屋で。夢の中に出てきたような感覚だった。でも、あれは夢じゃなかったってはっきり言える。信じてもらえないかもしれないけど」
「今更、夢だ嘘だと疑うつもりはないけれどね」
 ライナスは小さく肩をすくめる。
「君をここに導いた存在が再び現れたということは、今度はここではないところへ導く時が来た、と?」
「そう。その『時』まであともう少しだって言ってた。ただ、私にはまだ成すべきことがあるって」
「……時が迫っている割には、随分と落ち着いているようだね」
「今だって怖いよ。でも、この一年近く、ずっと考えてきたことだから」
 そう言って、シェリアはぐっと口を引き結んだ。
「抗わないんだね」
「どうやって抗えばいいのか分からないし。それに、これが正しい道なんだっていうことは私自身も分かってるよ」
「それは以前に聞いたけれど」
 シェリアはふるふると頭(かぶり)を振った。
「それよりも。天使様に会った時にね、私、ミリファーレさんのところに連れて行ってもらったんだ。誰か一人、会いたい人に会わせてくれるって言うから」
「ミリファーレ君に?」
「うん、私、どうしてもアシュートとミリファーレさんを敵対させたくなかったんだ。会って、彼女を説得できればって思って。……でも、そんな考えは甘かったってすぐに分かったけど」
「彼女はどんな様子だったんだい」
「やっぱり反聖女派のアジトにいたよ。突然私が現れたから、当たり前だけどすごく警戒されちゃった。ナイフも持ったことがないっていう華奢な感じなのに、すごく――強かった。私になにを言われても絶対に揺るがないっていう意思をはっきりと感じたよ。命を懸けて戦うつもりなんだって分かって、辛かった。だって、ミリファーレさんの強さは、絶望とか、悲しみとかの感情に支えられて出来上がったものだと思うんだ。強いけど、でも同時にぎりぎりのところで踏ん張ってるようなところもあった」
 シェリアは呟くように語った。頭の中では今も自分を睨めつけるミリファーレが佇んでいる。彼女はそこから一歩も動こうとはしない。まっすぐ、迷いを見せまいと唇を引き結んで、立っているのだ。
「やはり、ミリファーレ君は彼女自身の意思で反聖女派に属しているのだね」
 思案顔のライナスの確認に、シェリアは頷くしかない。
「精一杯アシュートの気持ちを伝えたつもりだけど、どうにもできなかった。ミリファーレさんは王宮襲撃に参加すると思う」
 止められない。彼女はきっと、止まらない。
 だが、それでも。
「もし私の言葉が頭の片隅にでも残っていたらって、思うよ。多分私にはミリファーレさんがどうなるのかを見届けることはできないだろうけど、ライナス、どうか私の代わりに――お願い」
 自分には、もう本当に、時間がないから。
 否応なく身を蝕んでいくその予感。確信と言い換えてしまっても構わない。
「シェリア……」
「ごめんね。それだけ、伝えたかったの。もう行くね」
「シェリア」
 思いのほか強い声が、シェリアを引きとめる。
「はっきり言っておくよ。君の代わりなんて、誰にも務まらない。君はそういう存在なんだ。これまでも、これからもね」
 振り返ったシェリアはライナスをふり仰ぎ、小さく頷いた。そして口をぎゅっと引き結び、建物の中に駆け戻ったのだった。