77.
沈みゆく夕陽を眺めながら、シェリアは一人バルコニーに佇んでいた。
このバルコニーは、夕方のこの時間、えも言われぬ神秘的な風景を見せてくれる。地平線に寄り添う夕陽の姿は、今までシェリアが見た景色の中でも一番を争うほど美しいものだ。
つい最近までは、このバルコニーで姿見せの儀を行っていた。眼下の広場に民衆たちを招き入れ、聖女の祝福を授ける儀式。本来ならばちょうどこれくらいの時間に行っていたのだが、中止されてもはや久しい。
反聖女派の動きが活発になってきた今日この頃、不特定多数の民衆を招き入れるこの儀式は危険だという話になったのだ。シェリアに異存はなかったが、それでも残念だとは思う。外の世界と繋がることのできる唯一の機会でもあったからだ。
いつだっただろう、集まった民衆に手を振っていたところへ、アシュートが突然姿を見せたことがあった。ふとそんなことを思い返して、シェリアは一人笑みを漏らす。あの時の民衆たちの歓喜の声はすごかった。第一神聖騎士と聖女が揃って民衆の前に姿を現すことなどめったにないのだから当然だ。シェリア自身、記憶をさかのぼってみてもそんな機会が他にあった記憶がない。だからあれは、とんでもなく異例なことだったのだ。
(私にとっても、衝撃だったもんなあ)
シェリアはバルコニーの手すりに寄りかかり、自らの右手を空にかざした。あの時、この手にアシュートが口づけを落としてくれたのだ。
(形式的なものだったんだろうけど、すごくびっくりした)
世界がひっくり返ってしまったような感覚に、胸を打たれて動けなくなって。目を閉じれば今でも鮮明に浮かんでくる。あの一瞬一瞬が、くっきりと。
(きっとずっと忘れない。私が私でなくなる最後の瞬間まで)
そしてシェリアは強く右手を握りしめ、胸元に寄せる。とても大切なものを抱え込むように。
「――シェリアスティーナ様」
その時だ。背後から急に声をかけれれて、シェリアは文字通り飛び上がった。
声の主が今まさに思いを馳せていた相手だったから、なおさら狼狽してしまう。
「アシュート」
シェリアはなんとか平静を取り戻して振り返った。どこか緊張した面持ちのアシュートがゆっくりとこちらに近づいてくる。彼をこの場に呼び出したのはシェリアなのだ、一人物思いにふけっている場合などではないのだった。
「急に呼び出したりしてごめんね」
「いえ」
小さく首を振って、アシュートはシェリアの隣に佇んだ。燃えるような夕陽に胸を打たれたように、わずかに目を細める。
「少し風がありますね。お寒くありませんか?」
「うん、大丈夫」
シェリアも今一度地平線の彼方へ視線を送り、しばし口を閉ざした。二人並び、なにを話すでもなく夕陽を眺めているのは、なんだか不思議な心地がする。そもそもアシュートと儀式以外でこうして肩を並べること自体、随分久しぶりのことだった。
――そう、彼と距離を置いたのは、他ならぬシェリア自身だ。
それが互いのためになると思っていた。けれど今ではもう、なにが正しいのか分からない。
初めてアシュートに会った時、彼の刺さるような冷たい眼差しに戦(おのの)いた。それから、どうにか彼との確執をやわらげたいと奮闘する日々が始まって。やがて、実際に彼らの間に起こった出来事を知ってからは、それがどんなに身勝手な行動なのかを痛感せずにはいられなかった。
そして、シェリアスティーナの代わりに彼との距離を縮めることがなにを意味するのかも……。
(私は勝手だった)
これからしようとしていることを思えば、今でも十分勝手だと、分かっている。しかしもう、アシュートから目を逸らし続けることはできなかった。彼が「ユーナ」という存在を探し求めてくれている、その気持ちから逃れることはできない。
(シェリアスティーナ、ごめんなさい)
ここにはいない娘に、胸の中で謝罪する。その謝罪自体、あまりに勝手なものであると自覚している。赦してほしいとは思わない。
でも、これが最後のわがままだ。
アシュートに全てを伝えたい。
「……アシュート、私ね、もうすぐここからいなくなると思うんだ」
シェリアの唐突な告白に、アシュートは戸惑ったように瞳を揺らした。
「本当はなにも言わずに去ろうと思ってた。でも、やっぱりそれはできない。あなたにはきちんと話をしたい」
シェリアは隣に佇むアシュートをしかと見すえた。
「私は本当のシェリアスティーナじゃないの。私は、彼女の一時の不在を埋めるべく神に遣わされた、全く別の存在。本当は……」
声が震えそうになる自分を叱咤する。
「本当は、もう、この世にはいない」
「――シェリアスティーナ様」
アシュートが思わずというように声を上げた。それでもシェリアは彼の目を見つめたまま言葉を紡ぎ続ける。
「一年くらい前にね、町で馬車に轢かれたんだ。本当はそのまま死ぬはずだったんだけど、ある事情で身体から魂の抜け出たシェリアスティーナの代わりを務めることになったの。私に選択の余地はなかった。再びシェリアスティーナが戻って来るまで、長くて一年……私は彼女として生きることになった」
以前、ライナスにも同じことを告げた。だが、あの時よりも沸き起こる感情の波が激しいのは、隣にいるのが他でもないアシュートだからだろうか。本当は怖い、つらい、だからどうか私を繋ぎとめて――そう言ってアシュートに縋りつきそうな自分が、確かに胸の中にいる。それを抑え込むのに、シェリアは内心必死だった。
「この一年、私にとっては本当にかけがえのない時間だったよ。最初は、シェリアスティーナのために頑張らなきゃ、って思って過ごしていたけど、気づいたらそれだけじゃなくなってた。皆や、アシュートと一緒に過ごした時間が、私自身にとっての糧になったんだ」
アシュートがぐっと眉を寄せた。
「一年が過ぎても、共にいられるでしょう。なにか方法があるはずだ」
「アシュート、私はもう死んでるんだよ」
シェリアは自らにも言い聞かせるように、はっきりと告げた。
「だからどうしようもない。こうして一年を過ごせたこと自体が、私にとっての奇跡だったの」
「一年の奇跡が与えられたならば、その先にも与えられていいはずだ――我々の神が、我々の信じる通りの存在であるのなら」
絞り出すような声でアシュートは囁いた。シェリアの手を取り、強く握りしめる。そこからなにかが零れ落ちるのを恐れているかのようだった。
「アシュート、ごめんね」
「謝らないでください。私は絶対に諦められない」
「……うん、でも、ごめんなさい」
アシュートの温かい手のぬくもりを感じながら、シェリアは謝罪の言葉を繰り返した。――ああ、分かっているのに。アシュートが欲しているのは、こんな言葉なんかじゃない。そして自分が本当に伝えたいのも。
これが最後になるかもしれないんだ――。
頭の中で、突然そんな思いがはじけた。
アシュートの想い、アシュートへの想い。それらからずっと目を逸らし逃れてきた自分。シェリアスティーナへの罪の意識。――今、過去、未来。
色んなものが一気に頭を駆け巡る。なにもかもがぐちゃぐちゃに混ざって、シェリアの全身全霊を強く揺さぶった。
どうしようもない。止められない。
もう、頭ではなにも考えられない――。
ぱっと、全てが真っ白になった。
それはあまりに唐突だった。
シェリアをせき止めていたあらゆるものが、消えてしまったのだ。
シェリアはアシュートから瞳をそらせないまま、震える唇をかすかに動かす。
「好き」
アシュートは、はっと目を見開いた。
「アシュートが、好きだよ」
そう告げると、同時に涙までもがあふれ出た。
「いつからか分からないけど、いつの間にか、好きになっちゃってたんだ」
アシュートはシェリアの手を両手で握りしめたまま、ゆっくりと頷いた。
「……私も。私も、あなたのことが好きなのです。失いたくない」
シェリアはぼろぼろと涙をこぼしながら、子供のようにしゃくり上げる。
「……怖いよ」
涙で声が滲んだ。
ああ、止まらない。止められない。
「本当は怖い、すごく怖いの。皆と別れたくない。助けてって、大声で叫びたい。ずっとずっとここにいたい」
どうしてそれが許されないの? 考えないようにしてきた思いが、言葉となってどんどんあふれてくる。
「ナシャも、カーリンさんも、ジークさんも、イーニアスも、ネイサンも、ライナスも、ロノさんも、シェリアスティーナも――、皆で笑って過ごしたいよ。誰一人欠けることなく、皆で笑っていたい。ずっとずっと、一緒にいたい、あなたと」
途端、シェリアの手が強い力で引き寄せられた。
アシュートの腕の中にかき抱かれ、涙でくしゃくしゃになった顔をその胸に埋められる。一瞬シェリアは驚いたが、嗚咽を止めることはできなかった。アシュートにすがりつき、感情のままわんわんと大きな声を上げて泣く。
本当はこんな風に、ただ感情をぶちまけるつもりじゃなかった。きちんと全てに納得しているはずだった。死に対する恐怖だって、そこにあることを認めながら、それでもなんとか受け止められているのだと思っていた。
全てを、冷静に、しっかりとアシュートに告げられると思っていたのに。
そうではなかったのだ。
自分はまだこんなにも、怯えていた。
アシュートが好きで、本当に好きで、いまだ諦めきれないほど好きだったのだ。
シェリアはひたすら涙を流しながらも、それを認めざるを得なかった。
ただ――後悔だけはしていない。
シェリアスティーナとして過ごした時間がかけがえのないものだったという思いは、絶対に変わらない。今振り出しに戻ることができたとして、天使アンジェリカの頼みを拒絶することができたとしても、きっとシェリアはもう一度この道を歩むことを選んだだろう。
それほどまでに大切な出会いがあったのだから。
アシュートはなにも言わなかった。
ただずっと、泣き続けるシェリアを強く抱きしめてくれた。
その後、泣き疲れて眠ってしまったのは、一体どれほど経ってからのことだろう。
気がつけばシェリアは、自室の柔らかいベッドで横になっていた。泣き腫らした目をぱちぱちと瞬(しばた)いて、ぼんやりと靄のかかったような頭のまま、のそりと上体だけを起こした。
そこでようやく、自分の左手が誰かにやんわりと握りしめられていることに気づく。
顔を上げれば、アシュートがベッドの側の椅子に腰かけ、シェリアの手を握ったまま小さな寝息を立てているのが目に入った。
恐らく彼がシェリアをここまで運んでくれたのだろう。彼の俯きがちな寝顔をじっと見つめていたシェリアは、その向こうの窓へと視線を動かし、外が完全に闇に染まっていることを確認した。もう随分と夜が深くなっているらしい。
身体がひどく重い。
だが、心の中はどこかすっきりしている。
ずっと胸に抱えていた死への恐怖も、アシュートになにも告げずにこれまで過ごしてきた後ろめたさも、すべてを彼の前に晒してしまった。
(ごめんね……アシュート)
自分一人では抱えきれなかった葛藤を、彼に押しつけてしまったのかもしれない。
――このまま永遠に時間が止まってしまえばいいのに。そんなことを考えて、すぐにシェリアは首を振った。気弱になった思考に全てを絡みとられてはいけない。涙はもう止まった。怯え、取り乱すのももはや終わりにしなくては。
アシュートに握られた手をわずかに動かすと、彼はすぐに目を覚ました。弾かれたように顔を上げた彼は、焦ったようにシェリアの姿を確認する。
「……シェリアスティーナ、様」
確かめるように、アシュートは呟いた。
「アシュート、ありがとう。私眠っちゃったみたいで……。アシュートがここまで運んでくれたんだよね?」
なるべくいつもと変わらぬようにシェリアは微笑む。アシュートはしばし呆然としていたが、それでもやがて頷いてくれた。
「……ご気分は?」
「うん、大丈夫。あれだけ大泣きしたら、なんだか逆に落ち着いたよ。色々ごめん」
「シェリアスティーナ様、探しましょう」
「え?」
「どうにかあなたがここにいられる方法を」
「……アシュート」
諦めたくないという彼の言葉はとても嬉しい。しかし、どうにもならないという思いは、やはり変わらない。
シェリアスティーナと自分、魂は二つあっても、身体はたった一つしかないのだ。もし仮に自分がこの世に留まる術が見つかったとしても、そのためにシェリアスティーナの身体を奪うことはしたくない。――絶対に。
「アシュート、ここにいるのか」
その時、荒々しいノックと共に、ジークレストの声が扉の向こうから飛び込んできた。
「ジークレスト?」
「いるんだな、入るぞ」
返事も待たずに部屋へ押し入ってきたジークレストは、いつになく険しい表情をしている。ちらとシェリアに視線を送ったものの、いかにも泣き腫らした後というその様子については一切触れず、アシュートに向き直った。
「随分探したぞ。ずっと執務室を離れてたらしいじゃねえか」
「……すまない」
「これからすぐに会議だ。お前にも出てもらう」
「なにがあった?」
ジークレストは再びシェリアを気にする素振りを見せたが、吹っ切れたように大きく口を開いた。
「反聖女派だよ。奴らが本アジトに大集合してるらしい。近々、来るぞ」
「!」
その言葉を聞いたシェリアは、びくりと身体を強張らせた。
――ついに始まるのか。
「今のところはまだ、王宮に向かう素振りは見せてないらしいがな。それももう時間の問題だ。俺たちも兵の配置やらなんやら、打ち合わせをしなきゃならねえ」
「……ああ」
頷きながらも、アシュートはなかなか腰を上げようとはしなかった。シェリアにはその理由がすぐに分かった。彼は自分のことを気にしているのだ。このまま一人にしていいものか、と。
「アシュート、早く行って」
「ですが」
「私は大丈夫。今日はもう、このまま寝ることにするから」
しばし押し黙りシェリアを見下ろしていたアシュートだったが、後ろ髪を引かれる様子ながらも、ついに立ちあがった。「また明日の朝、伺います」
それに頷き返し、シェリアは去っていく二人の背中を見送った。
王宮を襲撃するメンバーの中に、彼の妹ミリファーレの姿もあるのだろうか。
どうか来ないでほしい、と強く思う。いや、反聖女派の皆が思いとどまってくれればいい。無用な血など一滴たりとも流れて欲しくないのだから。
しかし同時に、反聖女派もミリファーレもきっと来るだろうという予感があった。彼らにとって、それはきっと必然なのだ。そのために命を落とすことになっても、無駄死になどとは思っていない。
(私は)
シェリアはぐっと拳を握った。
あとどれだけの間、シェリアスティーナでいられるだろう。
そしてその猶予で、あとどれだけのことが、できるのだろう。