78.

 その晩、なかなか寝付けずにいたシェリアは、ようやく浅い眠りについてからも幾度となく目を覚ましてしまった。
 たった一人きりで過ごす長い夜が、いつにも増して心細い。このまま完全に意識を手放してしまったら、もう二度と目覚めることはないのかもしれない――。今に始まった不安ではないのに、そんな思いがぐるぐると頭の中を彷徨っている。
(でも、なんでだろう、もう――怖くはない)
 ぼんやりとベッドの天蓋を眺めながら、シェリアは静かに自分の感情と向き合った。漠然とした不安感の中、いつもあった「恐怖」はどこにも見当たらない。気持ちが凪いでいると言ってもいいほど、今のシェリアは落ち着いている。
(……明日の朝、アシュートに会えるかな)
 アシュートの心配そうな表情が頭に浮かんだ。そういえば、彼の笑った顔などほとんど見たことがないままだった。ぎゅっと口を引き結んで、難しそうな顔をしているアシュート。それが彼らしいといえばそうなのだが、やはりできることならいつでも穏やかに過ごしてほしい。
(反聖女派のことが、落ち着いたら)
 少しは彼の心労も和らぐだろうか。妹ミリファーレと分かり合うことができて、戻ったシェリアスティーナと向き合うことができて。ジークレストがいて、国王のロノがいて。いつもなにかと戦ってきたであろう毎日とは、まるで違う未来が訪れてくれるのだろうか。
(きっと、アシュートなら、幸せになれる。なって、ほしい)
 少しずつ、少しずつ。
 再びまどろみの中へと沈みこんでいく。
 なにかに呼ばれるように、眠りの中へ。身体中の力が抜けていく。
 誰かに名前を呼ばれだ気がした。
 それに応えたのかどうか――、自分でも分からない。シェリアは握り込んでいた指の力をゆっくりと抜いた。

 翌朝、目を覚ましたシェリアのもとを訪れたのはアシュートではなかった。
 緊張した面持ちでシェリアの部屋に現れたのは、護衛役であるイーニアス、そしてネイサンだ。きっちりと着込んだ準騎士の制服は、いつもの白ではなく深い紺色。有事の際は、血の赤や汚れが目立たぬよう紺の制服をまとうという話をシェリアは思い出した。今がまさにその時――ソファに座っていたシェリアは、思わず腰を浮かせる。
「おはようございます、シェリアスティーナ様」
 イーニアスの声も、いつになく固い。
「おはよう、二人とも。……なにか、あったの?」
 そう問いかけながらも、シェリアは確信していた。一見すればいつもと変わらぬ穏やかな朝だ。しかしこの部屋の外では、常ならぬ「なにか」が始まっているに違いない。
「すでにお察しのことと思います。――今朝早く、反聖女派が蜂起し、武器を持って王宮前に集まってきました。王宮側でも兵を向け、今は正門付近で膠着状態となっています」
 イーニアスは厳しい表情を崩すことなく、感情を押し殺した声で告げた。
「――」
「アシュート様からご伝言をお預かりしました。事態が落ち着くまでは、シェリアスティーナ様にはこの部屋で待機していて頂きたい、と。俺たちは、シェリアスティーナ様をお側でお守りするよう、アシュート様に言い付かっています」
 シェリアは言葉もなく、わずかにうつむいた。
 反聖女派が実際に動き出した。となれば、アシュートがその対応にかかりきりになるのは仕方のないことだ。だが、彼は大丈夫なのだろうか。実の妹と敵対せねばならない彼を思うと、胸がひどく痛んだ。こんな時でさえ、自分はアシュートの側で支えることが叶わない。ただこの場にじっとしているしかないなんて。
「……鎮圧まで、長引きそう? もう怪我人とかたくさん出てるのかな」
「いえ、まだ戦闘には至っていないはずです。反聖女派から攻撃を仕掛けてくるか、こちらの警告を相手が無視し続けるか、そういった段階にならなければ、王宮側からは動けないのです。ですから、どれくらい長引くかも今は分からない状況で」
 ああ、できることならば、死傷者など一人も出ぬまま一刻も早く全てが終わってほしい。綺麗事に過ぎないと分かっていても、シェリアにとっては紛れもない心からの願いだ。
「王宮側が下手に動けない理由はもう一つあります」
 その時、それまで半ば存在を消すようにして控えていたネイサンが、一歩前に進み出た。シェリアとイーニアスは自然と視線を彼に向ける。
「反聖女派の様子が少々おかしいようです。今現在、王宮や聖女に対する不平不満を正門前で主張している彼らですが、どうも、時間稼ぎをしているようにも見受けられる」
「ネイサン」
 イーニアスがたしなめるように彼の名を呼んだ。しかしネイサンは気にする様子もなく言葉を続ける。
「それだけじゃない。正門前に集まった反聖女派のメンバーが足りていません。こちらで把握できている限りで、十名少々の姿が見えない。行方の分からないメンバーの中には、アシュート様の妹君ミリファーレ様も含まれます」
「ネイサン、やめろ」
「ううん、続けて、ネイサン。それってどういうことなの?」
 ネイサンはちらりとイーニアスを見やったが、淡々とした口調のままなおも続けた。
「行方の分からないメンバーは別ルートで行動をしていると、王宮側では考えています。反聖女派にとってはこれが最後の蜂起になるはず。捨て身で真正面から向かう以外にも、なにか他の手を考えているのかもしれません」
「……」
 今正門前に集まっている反聖女派の中に、ミリファーレやその他数名の姿が見えない。彼女らに別行動を取らせるために、正門前のメンバーたちは時間稼ぎをしているというのか。もしそうだとしたら、本当の刺客は正門前の彼らではなく、分かれて動いているミリファーレたちだということになる。しかし、十名少々という少人数で一体なにができるというのか。そもそも、ミリファーレたちは今どこにいるのか。
 シェリアは目まぐるしく考えを巡らせた。だが、自室でただ立ちつくしているばかりでは、思考がうまくまとまらない。第一、シェリアは反聖女派メンバーの姿を実際目にしたことすらないのだ。彼らがなにを思い、どんな行動を取ろうとしているのか、そんなシェリアに分かるはずがない。
「シェリアスティーナ様、いずれにせよ、反聖女派のことは王宮側できっちりと対応します。気にするなと言うのは無理があるかもしれませんが、どうかあまり思い詰めることはしないでください」
 イーニアスが気遣わしげにシェリアの顔を覗き込む。――分かっているのだ、自分にできることは、この部屋の中で彼らに守られながらじっと時が過ぎるのを待つことだけだと。下手に動けば、周囲に迷惑をかけることになる。
 しかし。
「ネイサン、どうして私にこの状況を伝えてくれる気になったの?」
 シェリアの静かな問いかけに、ネイサンは一つ瞬きをしてみせた。視線はシェリアから逸らさぬままだ。
「……この事態を前に、あなたがどのように考えるのか、個人的に興味があったからです」
「ネイサン! こんな時になにを言いだすんだ。俺たちの任務は、シェリアスティーナ様をお守りし、ご不安を取り除くことだろう。それなのに、逆に惑わせるようなことばかり言って。一体なにを考えている?」
 イーニアスがネイサンの肩に手を置いた。苛立ちと共にその手に強い力が込められたことが、シェリアにも分かった。
「ホリジェイルを出てから、俺がシェリアスティーナ様にお仕えしてきた理由はただ一つだ」
 それでも怯まぬネイサンのその言葉に、シェリアははっと目を見開いた。
 そうか――そうだ。
 かつて彼は言っていた。
 ホリジェリルという地獄よりなお暗い牢獄の中、シェリアとほんの一瞬視線を交わしたあの時。生死の境を彷徨っていた彼は、シェリアの中に「なにか」を垣間見た。その正体を突き止めたいのだ――、と。
「あなたには、思うままに行動していただきたい。それが、俺があなたに望む全てです」
 シェリアはネイサンをじっと見つめた。
 シェリアスティーナの身代わりとして過ごした、この一年弱の日々。ただ人形のように呼吸をするだけではなく、自分の信じる道を進んでみようと決めたあの朝から、自分はそうして「生きて」きたのだ。今だって――。
「ネイサン、イーニアス。お願い、私を正門前へ連れて行って」
 シェリアはきっぱりと言い放った。色を失くして声を上げたのはイーニアスである。
「いけません! 今、正門前がどれほど危険な事態になっているか分かっているはずです。反聖女派の面々が本当に剣を向けたいのは、門の前で壁を作っている兵士たちじゃない。シェリアスティーナ様、あなた自身なんですから!」
「だからこそ、彼らの姿をこの目で見たいの。私、一度も反聖女派の人たちに向き合ったことがなかった。どんな人たちが、どんな思いで武器を取って立ちあがったのか。自分自身の目で見なくちゃ。人に教えられるだけじゃ意味がない」
「だからといって、危険すぎます!」
「――俺がお連れしましょう」
 ネイサンが静かに手を差し伸べた。シェリアは迷わずその手を取る。だが、イーニアスも引こうとはしない。
「ネイサン、自分がなにをしようとしているのか分かっているのか? お前は今、シェリアスティーナ様を飢えた猛獣の巣の中に放り込もうとしているんだぞ! そもそも、シェリアスティーナ様をお守りせよというのは、アシュート様だけでなく、神聖騎士団長の命令でもある。それに逆らうつもりなのか」
「シェリアスティーナ様が思う道を進むよう願っているのは、俺だけじゃない」
 ネイサンは懐から指輪を一つ取り出した。シェリアには全く見憶えの無い、少し古ぼけた金色の指輪。なにかの紋様が刻まれているようだ。
「お前、それは」
 一方のイーニアスは、すぐにその指輪がなにを意味するものかを悟ったらしい。さっと青ざめ一瞬押し黙ったあと、震える唇を小さく開いた。
「国王の――」
 どうにか紡がれたその言葉を受け、さすがにシェリアも息を呑む。この指輪が国王の、ロノのものだとういうのか。
「直々にお預かりしてきた。シェリアスティーナ様の手足となって、望むままに行動するための手助けをせよと国王は仰っている。それを阻む者がいれば、この指輪を示して構わないと」
「歴代の国王に受け継がれてきた、至宝中の至宝だぞ。それをあのお方は……」
 うろたえるイーニアスの影で、シェリアは大きく息を吸い、ゆっくりそれを吐きだした。ロノが、背中を押してくれる。これまでずっとそうだった。そして今この瞬間でさえも。
 シェリアは改めてイーニアスに向き直った。
「イーニアス、ごめんね。心配してくれるのはありがたいし、イーニアスの言うことが正しいのも分かってる。それでも私、行くよ。私にはもう時間がないから。ここでこうしていられるのも、あと少しの間だけなの。全てが終わった後に、後悔はしたくない」
「……シェリアスティーナ様?」
「詳しく話せなくてごめん。でも私、行かなくちゃ」
「……」
 イーニアスは苦渋に満ちた表情を浮かべた。それでも最後には、小さく頷く。
「でしたらせめて、俺もご一緒させてください。あなたの背中を見送って、一人団長に報告に行くなど絶対に嫌ですから。それからもう一つ。反聖女派からは見えないところまでしか行かないと約束して下さい。正門前の見張り砦からならば、向こうには気づかれず様子を窺うことができるはずです」
「――うん、分かった」
「では早速、行きましょう。絶対に俺たちの側から離れないでください」
 イーニアスとネイサンは顔を見合わせ、無言で頷きあう。それからシェリアを間にはさむ形となって部屋を出た。廊下にも見張りの兵は控えているが、彼らにこの三人を引きとめることなどできるはずがない。
「事情があり、部屋を少し出る。だが部屋の不在をなるべく知られたくないから、このまま変わらず見張りを続けていてほしい」
 イーニアスにそう説明された見張り兵は、曖昧ながらも頷き返す。それを見届けて、シェリアたちは長い廊下を早足で歩きだした。

 見張り砦へ向かうには一旦外へ出なければならないのかと思っていたシェリアだったが、どうやらその必要はないらしかった。
 王宮の一角から、建物をぐるりと囲む城壁内の細い通路に入ることができる。もちろんその入り口にも見張り兵は立っていたが、国王の指輪を示すまでもなく、イーニアスとネイサンの存在だけですんなりと通された。細い通路のずっと向こうが、正門前の見張り台の階段に通じているという。
 小さな採光窓しかない薄暗い通路だ。四方を囲む石のひんやりとした質感が、シェリアの緊張を加速させた。この長い通路の向こう側で、今まさに反聖女派と王宮の兵士たちが対峙している。その喧騒もここまでは聞こえてこないようだ。しんと静まり返った張りつめた空気の中、自分たちの足音だけが鈍く響いている。
 やがて辿り着いた通路の終着点、そこからは螺旋状の石の階段が続いていた。今シェリアたちは見張り台の真下に立っているらしい。
「少し階段が急ですので、お気をつけて」
 イーニアスの言葉に頷きながら、シェリアは一歩ずつゆっくりと階段を上っていった。本当は一気に駆け上がりたい心境だが、緊張しているせいか足がうまく動かなかった。
 やっと辿り着いた見張り用の踊り場、そこには強い風が吹きこんでいた。顔にかかる前髪をかき上げながら、シェリアは突然飛び込んできた強い光に瞳を細める。
「イ、イーニアス様にネイサン様? それに……あ、あなた様は」
 警戒をしていたらしい兵士が、突然現れたシェリアたちに驚きの声を上げた。
「下の様子は?」
 呆然と立ち尽くす兵士に、ネイサンは落ち着いた声で尋ねる。
「え、あ、その。依然膠着状態が続いています。反聖女派たちは、聖女様を出せと主張しているようです」
「そうか」
 ネイサン、そしてイーニアスが壁にくり抜かれた窓の一つから外の様子を窺い見た。シェリアもそれに倣い、二人の間からそっと顔をのぞかせる。

 眼下に広がるのは、古い物語などで聞かされたことのある、「戦」の直前の風景だった。

 右手に反聖女派、左手に王立軍。それぞれが固まって、今にも互いに剣を交えんとする空気が漂っている。相当の高さがあるこの砦からでは、彼らの表情までは読み取れない。しかし、反聖女派の面々が、揺るぎない信念を持って今その場に立っていることは疑いようもなかった。
 反聖女派の人数は、ざっとみて百五十人くらいだろうか。衝撃的なことに、老人から若者まで、更には女性の姿までもが数多く見られた。ごくごく普通に生活を営んできた人々が、武器を携え、着慣れぬ戦闘服に身を包み、今まさに命を懸けて戦っている。
(これは、シェリアスティーナの生んだ光景なんだ)
 紛れもなく、シェリアスティーナの「罪」そのもの。一年という空白の期間を置いてなお、いや、それだけの時が過ぎたからこそ、彼女の罪はこうして鮮明な形となって目の前に現れた。
(この光景を忘れてはいけない。絶対に)
 シェリアは瞬きをするのも忘れ、じっと眼下の様子に見入った。
(私が消えて、シェリアスティーナがこの身体に戻った時に、はっきりと思い出せるように。この目が憶えていられるように。シェリアスティーナが、自分の罪を忘れないように)
 シェリアスティーナが戻り、まるで全ての罪が洗い流されたかのように美しい心を取り戻していたとしても。この罪は決して消えない。一生背負い続ければならない光景なのだと、シェリアスティーナに分かってもらいたい。
「確かに時間を稼いでいるようにも見えるな」
 難しい表情で視線を落としていたイーニアスが呟いた。
「別行動をしている班が気になるが、本当に、彼らはどこにいるのか……」
「いや、王宮側はもう把握しているのかもしれない」
 ネイサンが目を細め、一点を注視する。その視線の先が辿り着くのは、反聖女派ではなく、王立軍の一団だった。
「指揮をとると言っていたアシュート様、それにジークレスト様の姿がない。別行動組の居場所をすでに掴んで、そちらの対応に当たっている可能性もある」
「!」
 その言葉を受け、シェリアは思わず砦の窓から身を乗り出した。
「シェリアスティーナ様、身を乗り出しては危険です! それにあまり顔を出すと向こうにも気づかれてしまうかもしれません」
 イーニアスに腕を引かれながらも、シェリアは必死で王立軍の兵士たちを見渡した。顔がはっきり見えなくても、姿形ですぐに分かるはずの人の姿を捜す。
(いない)
 妙な焦りがシェリアを支配した。
 ――確かにアシュートの姿は、どこにも見えない。