79.
一体アシュートはどこへ行ってしまったのか。
ネイサンの言う通り、目の前の反聖女派とは別行動をとっているというミリファーレたちの元へ向かったのだろうか。
(だとしたら、ミリファーレさんたちはどこにいるの?)
一触即発と言える反聖女派と王立軍の対峙を見下ろしながら、シェリアは今一度考えを巡らせた。あの集団の中で、武器を携え真っ直ぐに立っているミリファーレ――あるはずのその姿がない。眼下の景色に、小さな穴がぽっかりと空いているかのようだ。
きっと彼女もこの王宮へ向かっているに違いない。逃げ出したりなどしているはずがないと、シェリアは確信を持った。今こうして集まった反聖女派の面々からほとばしる強い意志を目の当たりにすれば、彼らと共に行動してきたというミリファーレが怖気づいたはずがないと思える。
他の門から乗り込んでくるつもりだろうか。例えば裏門ならば、警備が手薄だと考えた? だがしかし、王宮側とて抜かりはないだろう。全ての入り口という入り口に、十分な数の兵士を配置しているに違いない。
それでも、ほんのわずかな可能性に賭けているのか。駄目でもともと、やれるだけやってそこで散るのだ、と。だがしかし、玉砕覚悟というのなら、ゼロに近い可能性に賭けるよりも、この正門から全員一丸となって突撃するほうがまだいいのではないか――。
その時、イーニアスの言葉が不意に脳裏によみがえった。
反聖女派の面々が本当に剣を向けたいのは、門の前で壁を作っている兵士たちじゃない。シェリアスティーナ自身なのだ――。
(そうだ、なにも真正面から兵士たちと戦わなくてもいい)
どくん、シェリアの鼓動が大きく波打った。
(もともと、それが目的じゃないんだから。目的は、私。私の元にたどり着けさえするのなら、反聖女派のうち、たった一人だけでもいいんだ。誰にも見つからず、目立たない人数で、こっそりと私のところへ――)
その「目立たない人数」の中に、ミリファーレが選ばれたとしたならば。一体なぜ彼女だったのか?
ミリファーレは、第一神聖騎士アシュートの実の妹だ。大貴族の家系に生まれ、この王宮で何不自由なく暮らしてきた。この王宮で――この、王宮で。
「……ネイサン、一つ聞きたいんだけど」
「なんでしょうか」
「王宮内に、隠し通路とかって、ない?」
シェリアの突然の質問に、ネイサンは一瞬言葉を詰まらせた。
「隠し通路、ですか」
「うん。王宮と外を繋いでいて、大っぴらに兵士を見張りに置けないような、隠し通路」
そこでネイサンもシェリアの意図を悟ったらしい。わずかに目を伏せ、記憶を辿る様子を見せる。だが結局、彼は首を横に振った。
「いえ、聞いたことはありません。仕事柄、王宮内は隈なく見て回っていますが、それらしいものを見つけたことも……ないですね」
その答えに肩を落としかけたシェリアだったが、イーニアスが難しい表情で考え込んでいるのに気づき、緊張と共に彼に向き直る。
「イーニアス、もしかしてなにか知ってる?」
「……俺も見たことはありませんが。ただ、ありえない、とは言い切れないかもしれません」
「ど、どういうこと?」
「以前、貴族仲間で談笑していた時に、噂を聞いたことがあるんです。この王宮には、王族と、それに連なる貴族たちにだけ知らされる、秘密の通路があると」
シェリアは知らず息を呑んだ。
「何年も前の、子供の間の他愛ない噂話に過ぎませんが、仲間の中には、自分の父は知らされていると言っていた奴もいましたね。有事の際はそこから密かに抜け出せるようになっているとか……」
「もし、もしその通路が本当にあれば」
シェリアは居ても立ってもいられなくなりながらも、どうにか言葉を繋いだ。
「ミリファーレさんやアシュートなら、存在を知ってるかもしれない」
「……確かに、本当に存在して、王族やそれに近しい貴族にだけ知らされるとするのなら、家柄で言えば申し分はないでしょう。でも、どうでしょうか」
自信のなさそうなイーニアスとは対照的に、シェリアは確信を持って頷いた。
「きっとそれだよ。それなら辻褄が合う。ミリファーレさんが正門前の反聖女派と別行動をしているのは、その王族用の隠し通路を使って王宮内に侵入しようとしてるからじゃない? アシュートもその思惑に気づいて、そっちへ向かったんだよ。ミリファーレさんたちを食い止めるために」
「だとして……」
ネイサンが起伏のない声を挟んだ。
「これからどうしますか?」
シェリアの心はもう決まっている。
「イーニアスさえ知らないなら少し不安だけど、ライナスに聞いてみよう。ライナスは前聖女の息子なんでしょう。もしかしたら通路の存在を知らされているかもしれない」
「もうここまでにしませんか、シェリアスティーナ様」
イーニアスが縋るようにシェリアの名前を呼んだ。
「もし予想通りに事が運んでいるなら、すでにアシュート様たちと別行動の反聖女派は遭遇しているに違いありません。俺たちがそこへ飛び込んだら、却って状況をややこしくしてしまう。それになにより、これ以上シェリアスティーナ様には危険を冒してほしくないのです」
「……ごめん、イーニアス。私は行く。行けるところまで――」
シェリアは揺るぎない瞳でイーニアスを見上げた。
負けじとそんなシェリアの瞳を見つめていたイーニアスは、やがて諦めたように溜息をついた。
時間がない。
シェリアはワンピースの裾が足に絡むことさえ気にかけず、精一杯通路を駆け続けた。イーニアスとネイサンの後に続いて、来た道を戻り、再び王宮の中へと飛び込む。廊下を抜けて一際大きな階段を数段飛ばしに駆け上ると、再び長い回廊が現れた。シェリアの心境とは別世界のように穏やかな中庭が横手に見えれば、もうライナスの部屋は近い。
「ライナス!」
ノックの返事も待たず、シェリアは部屋へ飛び込んだ。
激しく跳ねる息を整えながら、部屋の主を探す。
果たしてライナスは、そこにいた。常と変わらず落ち着いた様子で窓の側に佇んでいる。「……来たんだね、シェリア」
分かっていた、とでも言うようなライナスの言葉に、シェリアは固唾を飲み込む。
「やはり君には、自室で守られてじっとしているなど、性に合わないようだ」
「……アシュートとミリファーレさんがいないの」
シェリアは前置きもなく切り出した。
「ミリファーレさんは、正門前の反聖女派とは別のルートで王宮に向かってる。アシュートはそれを追いかけていったはずなの。ライナス、二人がいる先に心当たりはない?」
「……」
「もっと言えば、王族やそれに近い人だけが教えられる隠し通路の存在を知っていたら、教えて欲しい」
ライナスはわずかに目を見開いた。
「それは、誰から?」
「誰かに教わったのなら、ライナスに場所を聞きになんて来ないよ」
「まあ、そうだね」
顔を伏せて、ふっと笑みを漏らす。そんな緩やかな仕草も、以前ならばシェリアにはじれったく感じられたことだろう。だが今は分かる。彼はこのわずかな間に考えているのだ。
「ライナス、お願い」
「……いいだろう、案内しよう」
「!」
「君の望むとおりに。この期に及んで邪魔立てはしまい」
そう言った次の瞬間には、もうライナスは歩き始めていた。
本当に通路はあったのか。驚く気持ちと、一刻も早くその場に辿り着きたいという逸る気持ち。そして、辿り着いた先に待ち受けているものを恐れる気持ちがない交ぜになって、シェリアの胸の中を暴れまわる。だが、怖気づいている暇などない。
「その場にいると思われるのはアシュート君とミリファーレ君だけなのかい?」
「……ううん、それぞれ他にも何人か連れてるみたい」
「そうか。なら、私たちもこのまま行こう」
ライナスの案内に従って、廊下を渡る。やがて、普段シェリアが滅多に立ち入ることのない大回廊へ出た。人影はまばらで、警備につく兵士たちが時折怪訝な視線をシェリアらに向けるのみだ。その回廊を突きあたり、一本細い廊下に入れば、その先は王族ならびに大貴族の居住区に繋がっているという。
居住区へ向かう廊下を、途中で左に折れる。しんと静まり返った通路には、もはや誰の姿もなかった。通路の奥に祭壇が見え、そこまでの両壁沿いに女神を象った彫刻が対になって等間隔に置かれている。王族や大貴族たちが簡易に祈りをささげる場として使われているのだろうか。
――そこは本当に静かだった。
だが、全くの無音というわけでもない。
微かに人の声が聞こえる気がした。意識して耳を澄まさなければ気づかない程度の、ほんのわずかな声。壁を隔てて聞こえるようなくぐもった物音に、シェリアは身を強張らせた。
「やはり彼らはここに来たのか」
ライナスが緊張を含んだ声で呟いた。
そのままつかつかと通路を進み、一体の女神像の影を覗き込んで立ち止まる。シェリアたちもその後に続けば――そこには、ぽっかりと穴が開いていた。
隠し通路の入り口は、こんなところにあったのだ。
すでに誰かが扉を開けた後だった。女神像は不自然に位置をずらされ、本来像のあったであろう場所には今、人が一人やっと通れる程度の階段が姿を現し、地下通路へとシェリアたちをいざなっている。
その奥深くから、先ほどよりもはっきりと人の声が聞こえてきた。
間違いなく、彼らはこの先にいる。
「さて、どうする?」
「……行く」
シェリアは一つ大きく息を吸い、それを吐いた。階段に足を下ろそうとしたところでイーニアスに制される。彼を先頭に、続いてシェリア、そしてライナスにネイサンという形で階段を下りることとなった。
隠し通路の階段を下りる途中、壁をくり抜いてできた棚にランプがいくつか用意されていた。イーニアスとネイサンがそれぞれ一つずつを手にし、火を灯す。その間も、誰もが無言だった。
細い細い通路は、下りるに従って広くなっていった。それと共に聞こえてくる物音も一段とはっきりしたものになっていく。数人の男性の声、忙しない衣擦れの音――。剣を交える鋭い音が聞こえてこないのが、シェリアにとっては唯一の救いだ。
最後の一段を踏みしめたその先は、ひたすら真っ直ぐ長い道が延びていた。暗闇の中、彼方にぼんやりと灯りが見える。一、二、三……全部で十以上はあるだろうか。
「――……ろせ!」
誰かの怒号が通路に響いた。
「……だ! ……もう……」
ここからではなんの話をしているのかまでは分からない。シェリアたちは顔を見合わせ、慎重に歩みを進めていった。
「分かってくれ、たとえシェリアスティーナ様を手にかけたとしても、憎しみは癒されない!」
不意にそんな言葉がシェリアの耳に飛び込んできた。紛れもない、アシュートの声だ。
「余計に空しくなるだけだ、だから」
「それでも私は、私の為すべきことをするわ。この命が尽きることになっても」
次いで響いたのは、若い娘の声。こちらもシェリアには聞き覚えがあった。以前、反聖女派のアジトで向き合ったアシュートの妹、ミリファーレのものだ。
「そんな考え方は止めろ! どんな形であれ、せっかく助かった命だろう。自ら投げ捨てるようなことをするな!」
「せっかく、だなんてあなたが言わないで。私は助かりたくなんかなかった、それはあなたも分かっているはずよ」
わずかに怒気のこもった声。しかしそれはすぐに力ないものに変わった。
「……でも、もういいの。いくら話しても平行線を辿るだけよ、私たちは分かりあえない」
「ミリファーレ」
「私はシェリアスティーナを許さない。それに、私自身のことも。はっきりとしているのはそれだけよ。だからこれで全てに蹴りをつける。それだけを思って、あの日から今日まで地獄のような日々を生きてきたのだから」
「ミリファーレ」
アシュートはもう一度妹の名前を呼んだ。
「分かり合えなくてもいい。私を一生許さなくても構わない。だが、ただ生きていてくれ。――頼む」
そんなやりとりを聞きながら、唇を噛みしめ進んでいたシェリアの前に、ついに彼らの姿が露わになる。
こちらに背を向けているのは、アシュートを初めとする王宮の騎士たち。全部で七名と、心もとない人数だった。その集団の中にはジークレストの大きな背中も覗いている。一方で、彼らと向き合う反聖女派の別隊は、ミリファーレを含め十名少々。彼らが既に武器を構えているのに気づき、シェリアはぞっと身を震わせた。
「――シェリアスティーナ!!」
一番にこちらに気がづいたのはミリファーレだった。
大きな瞳を殊更に見開き、そのまま絶句する。以前出会った時とは異なり、長い黒髪はばっさりと切られていた。まるで少年のような出で立ちではあるが、間違いない、あの時の彼女だ。
ミリファーレの声につられ、場の全員がこちらに目をやった。アシュートと目が合った途端、彼の顔にも驚愕の表情が浮かぶ。
「なぜ――」
かすれる声でアシュートが問いかける。だがシェリアには、それに応える余裕などなかった。
ああ、とうとう止められなかったのだ。
アシュートとミリファーレが敵対する、この瞬間を。
「……ミリファーレさん、ついに来てしまったんだね」
シェリアは静かにそう呟いた。