81.

 ゆらり、ゆらり。
 波に揺られるような心地よさに、全身の力が抜けていく。
 瞳を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
 ずっとそうしていたかった。
 ただひたすら、たゆたうに任せていたい。
 気持ちがよくて、心から安心できて、憂いなど存在しないこの場所で。
 でも――。
 
 一体ここは、どこなのだろう?

 ぱちりと目を開いた。
 その瞬間、身を包んでいた浮遊感が一気に散って、ユーナはその場に立ちつくしている自分に気がついた。
「ここは……」
 辺りを見回し、ユーナは呟く。
 上も下もない、真っ白な世界。自分の影さえどこにも見当たらない。
 ここはきっと、始まりの場所。
(そうか、時間が来たんだ)
 自分でも意外なほどに、ユーナはすんなりこの事態を受け入れることができた。
 シェリアスティーナとして過ごす時間が、終わりを迎えた。今再び、自分は「ユーナ」に戻ったのだ。――魂だけの存在として。
 ユーナは自分の身体を見下ろしてみた。白いワンピースを一枚身にまとっているだけの、簡素な格好。腰に届くほどの長い金の髪はどこにもなくて、代わりに少し癖のある茶色い髪が肩の先でユーナの首の動きに合わせて揺れている。透き通るほどの白い肌ではない、ちょっと黄みがかった自分の腕。
「私だ……」
 そう呟いた声も、よくよく耳に馴染ませてみれば、間違いなくユーナ自身のものだった。
 懐かしい、この感覚。
 ユーナはその場で足踏みをしてみた。若干違和感があるような気もするが、やはりそれは“自分自身の”感覚だ。
「そっか、本当に戻ったんだ」
 自分の顔に両手で触れながら、ユーナはまた声に出して呟いた。そうして飽きるほどに自分自身の存在を確かめる。
 ――誰もいないこの空間で。
 やがてユーナは少し歩いてみることにした。真っ白な世界に地面というものが果たして存在しているのかは分からないが、とにかく足を踏み出せば、前に進むことはできるような気がした。
 きっといつまでもこの場に一人ということはないはずだ。そう確信を持ってユーナは歩き続ける。初めてここへやって来た時、ユーナをシェリアスティーナの身体へ導いた天使アンジェリカが、今再び自分をこの世界へ呼び戻したに違いない。ならば、遅かれ早かれ彼女が姿を現すことは簡単に想像がついた。
 黙々と、ただひたすらに歩き続ける。
 そうするうちに、ユーナは自分が泣いていることに気がついた。
 今更泣いたところでなんの足しにもなりはしない。むしろこのなにもない世界で、魂だけの存在となった自分がよく涙を流せたものだ。
(ああもう、わけが分かんないよ)
 どうして自分が泣いているのか、そして、当てもないままこうして彷徨い続けているのか。
 分かっていることは、もう自分が家族や友達、王宮の皆に会うことは二度とないという事実だけ――そう、アシュートにも、もう会えない。
(あれからどうなったのかな、皆)
 鼻をすすって乱暴に涙を拭いた。
 ぼんやりと霞みがかっていた頭の中が、少しずつ明瞭になっていく。
 反聖女派の襲撃を受けた王宮、彼らの説得のため正門に向かうところで、ユーナは時間切れとなってしまったはずだ。あの時からどれだけの時間が過ぎているのかは分からないが、無事に事態は収まったのだろうか。
(アンジェリカ様に会ったら、それだけは絶対に教えてもらわなくちゃ)
 ユーナが密かな決意を固めたちょうどその時だった。

「アンタって、相変わらずどこまでもお人よし」

 いつの間にすぐ側まで来ていたのか、当のアンジェリカがユーナの背後から呆れたような声をかけた。予期していた彼女の登場に、ユーナは思いのほか冷静なまま振り返る。
「アンジェリカ様」
 振り向いたユーナに、アンジェリカは魅惑の頬笑みを向けた。一点の曇りもない純白の羽で宙に浮かんでいた彼女は、ゆっくりと白の大地へと降り立つ。
「今この状況でも、気にかけるのは王宮の騒動のことだなんてね」
 彼女には、ユーナの心の声まで筒抜けらしい。
「それなら最初に教えておいてあげる。騒動は、ひとまず無事に収束したわ。正門前に集結した人間たちにも、死者は出なかった」
「アシュートやミリファーレさんたちは?」
「アンタが意識を失ってから少しバタバタしたみたいだけど、最終的には、あの場の人間たちで正門前へ行って、反聖女派たちの説得をしたわ。ただ、簡単に騒動が収まったわけではなかったけどね」
「でも、みんな分かってくれたんですか」
「そう簡単になにを『分かる』っていうの? 結局、国王までもが正門前に出てきて、ようやく収まりがついたってところね」
「国王……ロノさんが!?」
 ユーナは自身の現状も忘れて高い声を上げた。
 ロノが表立って姿を現す場面は、とうとう目にする機会がないままだったが――あの時、彼があの場を収めたというのか。
「ロノさんは、どうやって反聖女派を説得したんですか?」
「――アンタねえ、もういいじゃないの」
 ユーナの勢いに若干押され気味の彼女は、それでも白い指を伸ばし、そっとユーナの涙に濡れた目元をぬぐってくれた。
「それよりも、自分自身のことを考えなさいよ。この白の世界に呼び戻されて、目の前には私がいて、アンタはこうして一人で泣いていたんじゃないの。これがどういう状況なのかは、アンタ自身がよく分かっているはずでしょ?」
「……それは、そう、ですけど」
 アンジェリカの冷たい指先が頬に触れたことで、ユーナの心は不思議なほどに静かに凪いだ。
「でも、覚悟はできてますから」
「それなら、どうして泣いていたの」
「それは」
 ユーナはわずかに言葉につまる。けれどすぐに答えを見つけることができた。
「覚悟はできているけど、みんなとの別れは悲しいし、自分が消えてしまうのは怖い。……何度も何度も、そういう思いを捨てようとしたけど、結局できませんでした。多分、それはもう、どうしようもないことなんだと思います。――それでも私は、ちゃんと終わりを受け入れられる」
「……本当に、アンタは私たちが思った以上に芯の強い子だったわね」
 アンジェリカが苦笑としか呼びようのない笑みを浮かべた。
「これだけは伝えておきたいんだけど」
 彼女はユーナの涙をぬぐった手で、そっと優しく頭を撫でた。
「私たちが――神がシェリアスティーナの身代わりとして選ぶのは、誰でもよかったわけじゃないの。シェリアスティーナが沢に身を投げた瞬間と、アンタが馬車に轢かれた瞬間が重なったのは確かだけど、それだけで二人を結びつけたわけじゃない」
「え?」
「アンタが、なんに対しても一生懸命で、まっすぐで、頑固で、でも優しさを失わない娘だと分かっていたからこそ、よ。でなければ、こんな形でシェリアスティーナの身代わりを頼もうなんて、神もお思いにはならなかったはず。だって、ただ一年という『時』を繋げばいいだけじゃなかったんだもの。その一年で、シェリアスティーナの心を変えられる存在が必要だったのよ。――それが、ユーナ、アンタなの。アンタを見守ることで、シェリアスティーナの壊れた心にもう一度命を吹き込みたかったのよ」
「シェリアスティーナが……私を見ていた?」
 そう、とアンジェリカは頷いた。ユーナは思わず周囲を見渡すが、もちろんシェリアスティーナの姿はない。もう、彼女はもとの身体に戻ったに違いないのだから。
「つまりね、魂を浄化するっていうのは、シェリアスティーナがアンタの頑張りを見守ることで、生きるというのがどういうことか、見つめ直すってことだったの」
 ユーナは呆然とアンジェリカの顔を見つめた。
「私たちにも、人の心のありようを変えることはできないわ。人の心っていうのは、自己対面と、人と人との触れ合いで育まれていくものなのだから。だから私たちは、アンタに全てを託すつもりでお願いしたのよ」
「……私……」
「ユーナ、これだけは覚えていておいて。アンタはただ単にシェリアスティーナの命を“繋いだ”わけじゃない。アンタはシェリアスティーナの心を“救った”のよ。そう、彼女を救ったのはアンタ。私たち神じゃない」
 アンジェリカの言葉は、どこか遠いところから聞こえてくる気がした。
 違う、とユーナは心の中で否定する。シェリアスティーナを救うために、模範生であろうとしたわけじゃない。そのために、これまでずっと頑張ってきたわけじゃないのだ。ただがむしゃらに、わけも分からないまま、ただ自分自身が信じる道を突き進んできただけ。
 でも、それら全ては、シェリアスティーナのための見せ物に過ぎなかったのだろうか。
 自分が突き進んだ道の先に、彼女の道が続いてゆくのだと思っていた。
 手と手を繋いで橋渡しをするように、二人の道は一つとなって続いていくのだと、そう信じていたのに。――違ったのか。
「そうよ」
 アンジェリカは静かに告げた。
「アンタの歩んできた道の先に、シェリアスティーナの道は続かない」
 突き放すような彼女の言葉。けれど、その声は包み込むように優しい。
「ユーナ、ほら、顔を上げなさい。アンタの歩む道はまだ終わっていないんだから。アンタの歩んできた道の先に続くのは、アンタ自身の道しかない。そうに決まってるでしょう?」
 アンジェリカの声に背中を押されるように、ユーナはいつの間にか俯いていた顔をゆっくりと上げる。そして、彼女が既に地を離れ遠く羽ばたいていることに気がついた。
「ア、アンジェリカ様!」
「俯いてるのなんか、アンタらしくないわ。ねえ、頑張るアンタをずっと見てきたのは、シェリアスティーナだけじゃないのよ。アンタのことは、私もようく分かってる」
「待ってください、私」
「ごめんね。できることならもっとアンタと話がしたかったけど、あまり時間がないみたい。……本当に、これまでどうもありがとう。でも、お疲れ様とは言わないわ」
 風など吹いていないのに、彼女の金の髪と白い羽がふわりと揺れる。
「じゃあね、ユーナ。――また、どこかで」
 そのままアンジェリカは、白の背景に溶け込むように消えてしまった。
「ま、待って」
 ユーナの声だけが空しく響く。
 真っ白な世界。
 たった一人取り残されてしまった。

 一人。
 ――いや、一人ではない?

 途方に暮れかけたユーナの視界に、映り込むなにかがあった。はっとして前方に目をやると、ずっとずっと遠い向こうに、小さな人影が佇んでいるのがかろうじて分かる。
(あれは)
 ざわり、と背中に走るものがあった。
 あれは、まさか。
 気づけばユーナは駆け出していた。
 真っ白な地面を、思いきり蹴る。
「――シェリアスティーナ!」
 その名前を叫びながら、間違いなくその人影がシェリアスティーナであると確信を持てた。
 この一年、ずっと共に過ごした姿なのだ。見間違えるはずがない。
「シェリアスティーナっ」
 もう一度呼ぶと、佇んでいた人影がこちらを向いた。――自分の声が、彼女に届いている。
 どうして彼女がここにいるのだろう? 現実世界の彼女は今どうなっているのだろう?
 二人でなにを話せばいい。彼女にどう接すればいい。
 頭の中がどうしようもなく混乱している。けれどユーナの足は止まらなかった。一刻も早く彼女のもとへ。戸惑いと共にユーナの胸に沸き起こる、強い想い。

 今ようやく、二人は対峙する。