82.

「……シェリアス、ティーナ……」
 彼女の目の前までやって来たユーナは、息を切らしながらも足を止めた。
 こうして改めて向き合うと、ますます信じられない思いだ。流れるような金の髪に、くっきりとした目鼻立ち。もはやあまりにも馴染みすぎてしまったその姿を前に、自分自身を外から眺めているような、不思議な感覚に陥る。
 一方のシェリアスティーナは、驚く様子もなくただ真っ直ぐにユーナを見つめていた。
 そして、しばしの沈黙。それはほんのわずかな時間だったのか、それともとても長い時間だったのか。どちらも口を開かなかった。その間、目の前のシェリアスティーナがなにを思っていたのか、ユーナにはまるで想像できない。
「……あの」
 やがて、戸惑いと共に、ユーナは小さな声で呟いた。
「やっと、会えたね」
 シェリアスティーナはぱちりと一つ瞬きをする。
「ええ、本当に」
 そしてそう、彼女は答えた。
 これまで毎日、自分の声として耳に馴染んでいたそれだ。もはや珍しくなどないはずなのに、ユーナにはひどく新鮮なものに感じられた。自分ではない全く別の存在が、全く別の意思をもって、今ユーナと話をしているのだ。
「あなたとちゃんと話をする機会はないままなんだと、思ってたよ」
 ああ、とてももどかしい。
 自分は彼女になにを伝えるべきなのだろう? なにを伝えたいと、思っているのだろう。
 気持ちがあふれ出しそうで、それなのに、なぜか感情の水面(みなも)はしんと凪いでいた。
「……驚いた。もう身体に戻ったのかと思ったから」
「あなたに会いたくて、待っていたの」
「私に?」
「そう」
 そしてシェリアスティーナは、不意に泣きそうな表情を浮かべた。
「この一年、ずっとあなたの側にいた。そして、あなたの気持ちと一緒にいた。――本当に、ようやくこうして話をすることができるのね」
「……ずっと側に、いてくれたんだ」
 シェリアスティーナは頷いた。
「いつでもあなたを見ていたわ。でも、初めは本当に嫌だった。あなたを側に感じるのが苦痛で仕方なくて。いっそ、魂ごと消えてしまいたいと思っていたの」
 シェリアスティーナは己の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと丁寧に語り続けた。
「私が投げ出した人生を、あなたは馬鹿みたいに懸命になって生きてたわね。私自身がめちゃくちゃに切り裂いて、ばらばらにして投げ捨てた人生だったのよ。その欠片を、あなたは一つ一つ丁寧に拾い集めた」
「ごめん。勝手に色んなこと、したよね」
 シェリアスティーナは緩やかに首を振った。
「私はね、あなたがいい子を演じてる自分に気づいていないだけだと思ってたわ。本物の聖女のように振る舞う自分に、酔っているだけに違いないって。だから、状況が思った以上につらいものだと知れば、すぐに音を上げて諦めると高をくくってたのよ」
「……それも、間違いじゃないのかもしれない。確かに私、いい子を演じていたのかも。ただ、もう自分には後がないって分かっていたから、逆に割り切れただけで」
「そうじゃない。そうじゃないわよ」
 シェエリアスティーナは強い調子で否定した。ユーナの今の言葉を耳から振るい落そうとするかのように、何度も首を振る。
「あなたの魂とずっと寄り添っていた私には分かるわ。演技なんかじゃなく、計算なんかでもなく、ただあなたは懸命に『生きて』いたのよ。だから私は心が震えるほどに打ちのめされたの。生きるっていうのがどういうことか、本当に――言葉では表せないほどに、理解することができた」
「……ありがとう」
 シェリアスティーナの一言一言が、するりと胸に沁み込んでくる。自分のやって来たことが、確かに彼女に伝わっていたのなら。
「良かった、私。本当に――もう、思い残すこと、ないよ」
「悔しくはないの? 私は神の意思で、自ら断ち切った人生の続きを与えられたわ。でもこれほど頑張ったあなたには、神の手が差し伸べられることはない。……そう思ったら、私にお礼を言う気持ちになんてなれないはずよ、普通の人間なら」
「それは……。悔しい、って言うか、もう会えない人たちのことを思うと、悲しくはあるけど。でも、私がシェリアスティーナとして過ごした時間は、私にとってもかけがえのないものだったから。そう思ってるのは、本当だよ」
「あの天使じゃないけど、どこまでも人がいいのね、あなたは」
 シェリアスティーナは再び、しかし今度は緩やかに首を振り、ほんのわずかに苦笑した。
 そして、そっと瞳を伏せる。
「……私が沢に身を投げた時、やっと楽になれるって、思ったわ」
 囁くような、小さな声。
「もうなにもかもが嫌だった。私の能力が、大切に想う人々を次々に奪っていくのに耐えられなかった。その原因が幼い日々の中にあることには気づいていたわ。でも、今更どうすれば歪んだ力を抑えられるのか分からなかった。わざと人を遠ざけるようなことをしてみても、ますます心が軋んでいくばかりで、どうしようもなかったわ。そのうち私は、能力のせいではなく、自分自身の意思で人を傷つけ始めてしまった……」
「シェリアスティーナ、もう、いいよ」
「狂っていたとしか言いようがないわ。こんなにも狂っているのに、それでも私は未だに聖女なの。誰も私を牢屋に入れて、断罪しようとはしない。だから自ら命を断とうとしたのに、神はそれさえ許さなかった。神でさえ、私からこの首元の聖印を取り上げようとはしないのよ。どうしてなのって、それは今でも思ってる」
 彼女の美しい顔が、くしゃりと歪んだ。
「本当なら、私ではなくあなたが聖女であるべきだわ。私が復活するのではなくて、あなたがこのまま“シェリアスティーナ”として生きてくれればいい。私はもう、赦されないほどの罪を犯し過ぎてしまったから」
「そんな風に言わないで。私、私は」
「ええ、分かってる」
 シェリアスティーナが改めて顔を上げた。ユーナは必死にその表情を伺う。言葉とは裏腹に、彼女はどこかすっきりとした笑みを浮かべていた。
「与えられた二度目の人生を投げ捨てるようなことはしない。あなたにそう望んでもらえるのなら――もう一度前を向いてみようと思うの。つらいことばかりで、前も後ろも絶望しかなくて、二度と同じ思いをしたくないと感じていたけど、そんな絶望の果てから、あなたが私を救いだしてくれたのだから。……ねえ、私がもう一度『シェリアスティーナ』として生きてみても、いいのよね?」
「――うん。うん!」
 ユーナは心の底から頷いた。
 ああ、その言葉を聞けて本当によかった。
 シェリアスティーナがユーナを支えに感じたように、ユーナを支えていたのは、やはりシェリアスティーナの存在だったのだから。いつか戻ってくるシェリアスティーナのために。それだけを何度も何度も唱えて、ユーナは立ちはだかる困難をどうにか乗り越えてきたのだ。
「ライナスも、待ってるよ」
 思わずそんなことを言うと、シェリアスティーナは再び苦笑した。
「シェリアスティーナのことを待ってるって、言ってくれたもん。それに他のみんなとだって、きっとうまくやっていける。王宮のみんな、それに孤児院のカズロさんや、子供たちとも。確かにつらいことや苦しいことがたくさんたくさんあったけど、きっとこれからは、それ以上のものがシェリアスティーナの人生にはあふれてる。だから今度こそ、ゆっくりでいいから、歩いてみて」
「ユーナ……」
 シェリアスティーナは初めてユーナの名前を呼んだ。
 それに応えるつもりで、ユーナは力強く頷く。
「大丈夫。大丈夫だよ」
「……ええ、そうね」
 するとシェリアスティーナは、にっこりと魅惑的な笑みを浮かべながら、意味ありげに頷き返した。
「きっと、あなたの人生にも。同じように、素晴らしいものがたくさん待ち構えているはずよ」
「えっ?」
 その言葉の意味をユーナが図りかねている間に、シェリアスティーナはなおも続ける。
「あなたは過去の私の姿を探して、ついに見つけ出してくれた。私自身でさえ目を逸らしてきた、私の本当の姿を。でもあともう一つだけ、あなたも気づいていない事実があるわ」
「気づいていない、事実?」
「私の聖女としての能力のことよ」
 シェリアスティーナはユーナの手を取り、握りしめた。
「元の能力が歪んで、私は無意識のうちに心通わせた相手の『死』に向かう力を増幅させるようになってしまった。それは確かに、間違いないわ。でも――私の元の能力。それは、植物の成長を促す力ではないの」
 彼女の言葉に、ユーナは戸惑う。
 ならば、一体彼女の本当の能力とは――。
「私もずっと知らなかった。知る前に、力は歪んでしまったから」
 でも、とシェリアスティーナはユーナの手を握る力をますます強くする。

「今なら分かる。私の能力、それは、心通わせた相手の『生』に向かう力を増幅させるもの――」

 彼女の手は、とても温かく、また柔らかかった。
 ユーナは声をなくしてただただ目を見開く。
 そんな。そんな、ことが。
「院長の娘、ノイエの時には……まだうまく力を使えなかったけれど。今度はきっと成功させてみせるわ。――そう、今度は私が、あなたを救う番よ」
 ユーナ――。
 刹那、シェリアスティーナの声が一気に遠のいた。握られていた温かい手の感触も一瞬にして散る。
 とてつもない勢いでどこかに引っ張られていく感覚。叫びたいのに声を出すことすらできない。一体なにが起こっているのか。がむしゃらにもがいたつもりだったけれど、果たしてそれもできていたのか分からない。

 ありがとう、ユーナ。また必ず会いましょう。

 遥か彼方遠いどこかで、シェリアスティーナのその声が聞こえた気がした……。