06.
それから暫くは、平穏な日々が続いた。
私が元巫女様に似ているなどという何の根拠もないネタのせいで(根拠はないが真実ではある……)、数日は周りに冷やかされるハメになったが、まもなくそれも治まった。もともとこの定食屋の常連達は元巫女の顔をきちんと知らないのだから、ネタとしてもいまいち面白みに欠けたのだろう。
ちょっとした変化と言えば、厨房を少しずつ手伝わせてもらえるようになった。
定食屋が混み合う時間帯は決まっているので、その合間に料理のあれこれを教えてもらっているのだ。
元の世界でも一応家で料理は手伝っていたから、ご主人達の指導も割合すんなり頭に入った。どころか、ご主人達には私の料理技術に感嘆されたくらいだ。と言っても、本当は料理技術だなんて大層なものではない。どうも、私の世界では割と常識的な料理のコツが、こちらでは料理人向けの玄人知識がごとく扱われているようなのだ。
例えば、大根を下ゆでする時に面どりをするとか、米を一緒に入れて炊くとか。そういう、些細な豆知識。こういったことを、一般の家庭料理ではあまりやっていないらしい。もちろんご主人達のような店を構える料理人は、そうした基本は当然のこと、もっと私の知らないようなプロの技を持っているのだが。
そうかぁ、私、こっちの世界では相当いいお嫁さんになれるかもね。
まあ、当てはないんですけどね。
そんな感じで、私は日々楽しく過ごしている。
けれど今の生活に馴染めば馴染むほどに、焦燥感もいや増していくのだ。
――私、どうやって元の世界に帰ろうか?
そこのところを、もっと真面目に考えなければならない。
ついつい居心地のいい毎日に流されてしまいそうになるけれど、私、帰るんだから。
だって私は高校生活三年目の、れっきとした受験生なのである。
前回の異世界召喚では一年をこちらで過ごしたけれど、帰還したのは召喚された日と全く同じ日時だった。だから多分今回も、少なくとも一年こちらで過ごす程度であれば、戻ってしまえば日数は経っていないと見込んでいる。
でも!
受験勉強からあんまり遠ざかり過ぎるとつらい。
絶対色々、忘れてしまう。数学の公式なんかもそうだけれど、あの受験期特有のどんよりとした重い空気とか、閉塞感とか、重圧感とか。そちらの方が重要だ。潰されるか否かのギリギリのラインで生活してきた身にとっては、こちらの世界ののほほんとした牧歌的な空気は却って体に悪い。あの身に刺さるような空気を忘れてしまったら、元の世界に戻っても、受験なんてできそうにない。
でも、絶対に受験には失敗できないのだ。
親戚に養ってもらっている今、ご厚意で大学まで行かせてもらえることにはなっているけれど、私の中で進学するなら国立大学のみと決めている。金のかかる私立なんて問題外だ!
そんなわけで、元の世界へ帰る方法についてである。
こちらへ来てしまった要因が分からないのだから、後はもう、知っている方法で帰るしかない。
つまりは、前回同様、召喚師により帰してもらうのである。
もう、頼るとなったら彼らしかいまい。
元巫女であることを誰にも知られずに帰りたいと思っていたけれど、こればかりは仕方がないだろう。恥を忍んで事情を説明し、彼らの技術でもって送り返してもらうのだ。できれば、こっそりと。
当てのある召喚師といえば、前回の召喚で私の後見人だった召喚師のルーノくらいか。
あの人はかなりの変人だけれども、まあ、悪い人ではないはずだ。実力は確かだし。それに変人だからこそ、元巫女の私をあれこれ詮索せずに、あっさり帰してくれる可能性もある。
とにかく、彼に会うためには、どうにかして王宮へ入り込まなければならなかった。
門兵に門前払いを食らってる場合じゃないんだよなあ。ルーノに会うには、入口どころか王宮の最奥まで辿り着かなければならないというのに。曲がりなりにもあの人、国で数人しかいない召喚師、つまりは人間国宝レベルのお偉いさんだし。
難しいだろうけれど、どうにかしなくては。
今のところ、門をくぐり抜ける当てはない。
・ ・ ・ ・
午後、私はいつもの通り、材料の買い出しに街へと出かけた。
石畳の緩やかな坂道を上りながら、どうやって王宮に入り込もうかと、ぼんやり考える。
やっぱり協力者を見つけるしかないのかな。でも、召喚師と引き合わせてくれるような身分ある協力者を捕まえること自体が至難の業だ。そんな人が捕まるくらいなら、直接ルーノに会いに行けるってなもんだよ。ああ、どうしよう。
つらつらと考えるうちに、目当ての店に到着した。
可愛らしい外観の、ハーブ専門店である。おっさんばかりがやって来るうちの定食屋とは縁のなさそうなお店だが、ここのシーブスの葉を使って煮込む鶏肉料理が、うちの看板メニューの一つなのだ。
ひょっこりお店を覗くと、奥で椅子に腰をかけて本を読んでいる店員の姿が目に入った。
「こんにちはー」
「あらハルカ、いらっしゃい」
顔を上げたのは、ミディという名の少女だ。私と同年代の女の子で、私の方で勝手に親近感を抱いている。なんせ、いつも筋骨隆々なオヤジ達に囲まれている私だからね。彼女は私にとって癒しのような存在なのだ。ただ、普段は彼女の母親が店先に出ているので、こうして会える機会はなかなかないのだが。
「ミディさん、なんだか今日はいつもと雰囲気が違うね」
普段長い髪をおさげにしている彼女なのだが、今日はハーフアップにしているようだ。
「すごく似合ってるよ、かわいい」
「ありがと。でも、本当はもっと違う感じにしたかったのよ。私には難しくて無理だったけど」
「違う感じって?」
「ほら、このあいだの祝神祭で、アルディナ様がしていた髪型。今、街ですごく流行ってるのよ。ハルカは知らない?」
ほほう。しつこいようだが主におっさん達と共に過ごしている私は、街の娘さん達の流行に全然ついていけていなかった。アルディナ様の髪型……、どんなのだったっけ?
「こう、上のほうの髪をとって、編み込みにして。それを横に流してゆるくまとめるの」
ミディさんの説明で、何となくのイメージはついた。ふむ、言われてみれば、そんな髪型だったような気がする。
「良かったら、私、やろうか? 多分できると思う」
「え、本当?」
ぱっとミディさんの顔が明るくなった。普段クールなミディさんが、一気に女の子の顔になる。
こちらの世界では、私自身は無造作にポニーテールにしているだけだから、髪をいじることができるだなんて思わなかったのだろう。でも私だって元の世界では女子高生をやっているんだから、編み込みくらいはお手のものですよ。
慣れた手つきで編み込みを作ると、言われた通りに毛先を横に流す。ヘアピンを駆使して上手く止めて、はい、できあがり。うんうん、我ながらなかなかの出来だ。
「わあっ、素敵! ありがとう、ハルカ!」
出来上がりを鏡で確かめていたミディさんは、弾んだ声でお礼を言ってくれた。
「お礼にうちのハーブをあげるって言いたいけど……、親に怒られそうだし……」
「え、お礼なんていらないよ」
「そうだわ、これをあげる」
ミディさんは手元にあった髪飾りの中から、桜色の花を模した可愛らしい飾りを取り出した。
「私の赤茶っぽい髪にはこういう色が似合わないんだけど、ハルカの綺麗な黒髪ならぴったりね。ちょっと屈んで。私がつけてあげるわ」
「ありがとう」
手抜きのポニーテールに、花が咲く。
この世界へ来て、初めてできた同世代の友達――って、言っちゃっていいかな。
嬉しいなあ。この髪飾り、大切にしよう。毎日身につけよう。
アルディナ様の話題が出て、もっと気持ちが揺れてしまうかと思ったけれど、大丈夫みたいだ。
自分の感情の動きを注意深く観察しながら、私はほっと息をつく。
きっともう、アルディナ様に会うことはない。ノエルに会うこともない。
まだ心の奥でくすぶっている感情は、あともう少しで、綺麗に消えてなくなることだろう。