07.

 うちの定食屋は結構繁盛している。

 私を雇ってもらった時にはご夫婦二人で切り盛りしていたのだが、少し前まではアルバイトの男性がいたようだ。
 彼が辞めてしまってからはどうにか二人で店を回していたものの、あまりに忙しすぎて大変だったと聞いている。そのアルバイトとはちょっとゴタゴタがあったようだから、次を雇う気にはしばらくなれなかったらしいのだが。

 でもまあ、お店を経営している身としては、忙しくて息もつけないというのはありがたいことなのだと思う。実際ご夫婦は、「神様とお客様に守られて、我々の毎日の生活は成り立っているんだよ」といつも感謝の気持ちを忘れない。
 ただ少し気になっているのは、あまりに頑張り過ぎなのではないかということだった。
 どうやら、彼らが身を粉にして朝から晩まで働いているのには、理由がある。

 ご夫婦には、ちょっとした額の借金があるらしかった。

 私に面と向かって借金の話をしてきたわけではないのだが、夜、店を閉めた後、二人であれこれ相談事をしているのが聞こえてしまったのである。
 これだけ繁盛しているお店なのに、どうして借金があるのだろうか。贅沢などとは縁遠い、慎ましやかな生活をしているご夫婦なのに、本当に、なぜ。
 しばらくは理由が分からなかったが、常連さん達の何気ない世間話の欠片をかき集めて、私はようやく理解することができた。

 それは――今はもう亡くなった、娘さんのためだったのだ、と。
 娘さんは体の弱いお子さんだったらしく、いつも寝たり起きたりを繰り返していたのだとか。彼女の医療費のためにたくさんのお金が必要だったと、そういうわけだ。
 娘さんは幼いうちに亡くなってしまったそうで、それからもう随分経つという。
 彼らが私にとても親切にしてくれるのは、娘さんの面影を私に重ねているからなのかもしれない。でなければ、自分達が借金で大変だというのに、見ず知らずの人間を雇い入れてくれたりするはずがない。

 いずれにせよ、一朝一夕で返済できるような額ではないようだ。

 そこでご夫婦は、更なる借金を抱えてでもお店を広げることを検討している様子である。
 今のお店はかなり狭く、一度に入れる客の数は十五人ちょっと。昼時には満席のために諦めて帰ってしまう客もいるほどから、店が大きくなっても客の入りについては心配ないだろう。

 だが、今のお店をそのまま拡大することは難しい。
 すぐ両隣には、また別のお店が建っているのだ。もし今の店を拡大しようとすれば、それらを買い取り、買い取った建物を壊し、自分達の店も建て直すことになる。

 では、別の広い土地に引っ越そうか。そうなると今度は、立地の問題があった。
 今のお店は、王宮からかなり近い良い位置にある。だからこそ、王宮の兵士達が常連客として昼に夜にと足を運んでくれるのだ。
 これがあと少しでも王宮から遠のいてしまえば、彼らの足も同じく遠のいてしまうのは目に見えていた。そうなると新しい客層を開拓する必要があるのだが、理想的な広さの土地を買えそうな地域はもはや住宅街ばかりで、今ほどの客入りを見込めるとは思えない。

 これは難しい問題だ。
 今のお店のままで、売り上げをもっと伸ばす方法はないものか。

 そんな閉塞した状況を打破してくれたのは、常連客の兵士の、何気ない一言だった。

 ――この店が、王宮にもあったらいいのになぁ。

 これは、このお店ではよく聞く褒め言葉の類の一つである。この店は何を食っても美味い、とか、毎日食べに来ても飽きない、とか、値上がりしても絶対に通ってしまう、とか。なので、いつもならば「ありがとうございます」と笑ってスルーしたことだろう。
 しかしこの時の私には、この言葉が胸にひっかかった。

 なるほど、それはいいアイディアかもしれない。

 いやもちろん、本当に王宮内部に支店を構えようというのではない。というかそんなのは無理だ。
 でも、店ごと持っていかなくても、商品さえあればいいのではないか。
 ――例えば、ここから私が運んでいくとか。

 私はかつて王宮に住んでいた身なので、王宮内部のことはだいたい分かっている。
 確か、一般兵の訓練場は割と入口に近いところにあったはず。
 そんな彼らの食堂はと言えば、訓練場からは結構歩く位置にあったと記憶している。訓練後にお腹の減った兵士達にとっては、いちいち食堂まで足を運ぶのが面倒だったりするかもしれない。
 それに、確か食堂の営業時間はかなり限られていたようだ。職業柄、毎日決まった時間に昼休憩を取れない兵士達は、そのまま食いっぱぐれてしまうこともあるようだ。そうなると、彼らは王宮の外へ食事に行く。
 ちなみに、一流の料理人達が腕をふるい、時間に関係なく各自の部屋で給仕してくれるシステムもあるのだが、それはもちろん上流階級専門である。かくいう私も、当時はこちらにお世話になったのだが。

 そんなわけで、この定食屋から王宮に出前をするというのはいいアイディアに思われた。
 そうだよ、もともとこちらの世界では、あまり食べ物の売り歩きをやっていない。せいぜい普段は、食べ歩き用にサンドイッチ系の軽食が店先で売られているくらいだ。そういえば元の世界も、ご飯とおかずの入った“お弁当”というのはアジア特有の食文化だったっけ。

 おお、これはいけるんじゃない?

 私は早速ご主人達に相談してみた。
 最初は狐につままれたような表情で私の話を聞いていた二人だが、次第に現実味を帯びた提案として考え始めてくれたようだ。

「確かに、店で出しているような料理を携帯用に準備して行商するというのは、面白い試みかもしれないな」
 ご主人は真剣な表情で、そう呟いた。
「一度、試験的にやってみてもいいかもしれないわねえ。十セットくらいから試してみれば、駄目でも損害はほとんどないし」
「食品の行商の許可が必要だが、まあそれはすぐに下りるだろう」
 話がとんとん拍子に進んでいく。

 でも、一つ問題があった。

「難しいのは、“王宮内で”食品を売るってことだな。今までそんな話は聞いたことがないし」
「そうよねえ。それについては、許可が下りるかどうか」
「訓練場までの立ち入りってことなら、どうにかなりませんかね?」

 私としては、王宮内、訓練場付近での販売が好ましいと思っている。
 普通の街中で販売してもいいのだが、街中であれば、別に弁当でなくても付近に美味しいお店がいくらでも構えているわけだし。それに、新しいサービスを始める時は、可能ならば既存の客を取り込むところから始めたほうがいい気がする。

 まあ……、本音を言ってしまえば。
 訓練場での販売許可が下りれば、王宮に立ち入ることもできて、私的に一石二鳥!
 という、身勝手な理由も含まれているのだけれども。

 このアイディアについて、店の常連客である兵士たちにもアドバイスをお願いしてみた。
 思った以上に皆の反応はよく、売りに来てくれればきっと成功するとのことだった。

 というのも、私の考えた通り、王宮内の食堂が色々と期待できないということに加え、外へ食べに出るのにも訓練の後に一度汗を流すようにしているらしく、実はそれも手間に感じることがある、とのことだった。そのため、食堂にも行かず、外に食べにも行かず、自分で持って来たパンをかじって凌ぐ兵士も多いそうだ。

 まさにターゲットは、そうした“諦めている”兵士達である。

 常連客の内の一人が隊長格のお偉いさんだったことも分かり、彼から王宮側へ口添えもしてもらえることになった。
 ありがたいなあ、こうやって助けてくれる人がいるというのも、きっとご主人とおかみさんの人徳が故だろう。

 そうして、動き始めて一週間後。
 ついに王宮での弁当販売の許可が下りた。

・   ・   ・   ・

 販売の朝は、ご主人達と共にいつもより二時間ほど早く起きて準備を進めた。

 こちらの季節は、日本でいえば、春の終わりごろという感じ。
 日本と違って全く湿気がないし、気温も極端には上がらないので、食材に気をつければ昼時の販売にも問題はないだろう。まあ、その辺りは、私なんかよりずっと詳しいプロのお二人が考えてくれている。

 ご飯とおかずがセットになった日本風の弁当を十五個用意した。
 あとは、軽食代わりに気軽に買ってもらえるように、私の愛情をたっぷり込めたおにぎりを十個ほど。飲み物については、訓練場に水飲み場があるそうなので、無理に用意しなくても大丈夫だろうと判断し、今回は見送り。

 さあ、出陣だ。

 訓練場へは言い出しっぺの私が出向くことになった。
 よく球場なんかでビールを販売している売り子さん達を意識して、大きな籠に弁当を詰め込んだものをたすき掛けにしてみる。うん、案外バランスはとれて安定しているぞ。でも、結構重いな。これはちゃんと売り切ってこないと、帰りが辛いぞ。

「大丈夫かい、ハルカ」
「ハルちゃん、重そうねえ。やっぱり私が……」
「だめです、おかみさん。ご主人とおかみさんがいないと、そもそもお店が回りません」
 心配そうなご主人とおかみさんを制して、私は王宮へ向かう通りに出た。

 今はお昼の少し手前だ。
 昼食をとるために街へ出てくる王宮の職員達はまだまばらで、人通りはそれほどでもない。
 時折、通り過ぎる人がちらりとこちらへ寄こす視線に気がついた。ひ弱そうな娘が、大きな荷物を抱えて何事かと思ったのかもしれないし、もしかしたら、籠から漏れ出る美味しそうな匂いにも気付いたのかもしれない。
 売れるかなあ。売れるといいなあ。

 王宮までは、荷物を抱えた私の足でも、歩いて十分と少しだ。
 ああ、なんだか緊張する。
 前回王宮へやって来た時には、思いっきり不審者扱いされて追い払われちゃったからね。
 でも、今度こそ。

 入口の門兵は、私の姿を認めると、くいと眉を上げた。
「許可証は?」
「あります。これを」
 私は首から下げていた許可証をぎこちなく引っ張り上げて、門兵に差し出した。
 門兵はそれを一瞥した程度で、すぐに「通っていいぞ」と道を空けてくれた。あまりのあっさりとした様子に、何だか拍子抜けだ。恐らくは、常連の兵士達の誰かが、あらかじめ門兵にも口添えしておいてくれたのだろう。助かった。

 何はともあれ、異世界へ出戻りしてから苦節二か月。
 ようやく王宮侵入に成功だ!