22.

 数日後、私はご主人とおかみさんに事情を説明し、魔術研究所への配達の際に、余分に弁当を三つほど用意してもらうことになった。
 本当はえこ贔屓みたいなことはしたくないんだけれども、リックさんをはじめとする調理師さん達にはぜひ頑張ってもらいたいところだし。それに、これ以上販売数も販売場所も増やせないうちの弁当ばかりが王宮で幅をきかせてしまうよりは、王宮の食堂とうちの弁当、持ちつ持たれつの程よい関係を築くことができれば理想的だと思う。

 というわけで。
 魔術研究所への配達時、瞳をぎらつかせつつ籠の中を睨みつけるルーナさんから三つの弁当を死守し、私は厨房へと向かったのだった。

 本来なら厨房の場所も知らないはずの私ではあるが、以前の記憶から大体の見当はついている。周りの目を気にしながらも、私は真っ直ぐ厨房へと向かった。王宮の中心地からは少し離れたところにあったはずだから、おそらく見とがめられはしないだろう。見とがめられたら、セナさん直伝「迷子になりました」戦法で乗り切ろうと思う。


 さて、見えてきた、食堂入り口。
 中を覗きこんでみて、私はほうと溜め息をもらした。
 さすが王宮の施設なだけあって、作りは非常に立派である。ステンドグラスの窓はとても大きく開放的で、陶器のタイルで彩られた空間は、このままパーティー会場にでもなりそうなものだ。

 ……しかし。

 昼時の一番忙しい時間のはずなのに、席は半分も埋まっていない。
 これは確かに由々しき事態、なのかもしれない。

「おいおい、定食屋から偵察が来てるぞ」
「おっ、本当だ、随分堂々とした偵察ぶりだな」

 食堂の入口に突っ立っていた私は、からかい半分の声かけに、慌てて身を引いた。
 まずいまずい、こんなでかい籠持って食堂近くをうろつくなんて、営業妨害もいいところだった。

「あのう、すみません。ここの調理師のリックさんという方、ご存知ですか」
 冗談混じりの野次を飛ばしてきた職員に訊ねてみる。私が食堂の中まで入っていくよりは、リックさんに来てもらった方がよさそうだ。
「ああ、リックかい? 知ってるよ、呼んできてやろうか」
「すみません、ありがとうございます!」
 いい人で助かった、と思っていたら、その職員は「お〜いリック、宿敵がお前に宣戦布告しに来てるぞ〜」などという意味の分からない声かけと共に厨房へ歩いていった。何事かと周りの客がこちらに視線を寄こしているではないか。くそう、目立ちたくないのに。

 すぐに出てきてくれたリックさんは、私の姿を見て驚いている様子だった。
「え、どうしたの? 配達の帰り?」
「はい。あの、少しですけどお弁当、持って来ました。もしよかったらどうぞ」
 そう言って、籠にかけていたクロスを持ち上げる。
 たった三つの弁当だったが、それを見たリックさんは心底嬉しそうな顔を見せてくれた。
「うわあ、わざわざ!? ありがとう、無理させちゃって悪かったね」
「いえ、少なくて申し訳ないんですけど」
「とんでもない! 待ってて、すぐ代金持ってくるよ。いくらだっけ」
「お代は頂きません。これが少しでもお役に立てばと、うちの主人とおかみさんが」
 さすがにそれは申し訳なさすぎる、と固辞していたリックさんだったが、私もお代は貰ってくるなと言われているから引くに引けない。ご主人達は、自分達の配達事業のせいで迷惑を被っている人達がいるのかと、やや気に病んだ様子なのだ。ますますリックさん達には奮起して頑張ってもらわねばならない。
 食堂の入り口でしばらく押し問答を続けていたら、「宿敵同士、禁断の恋がもつれて痴話喧嘩だ」などとさっきのおっさんが囃したててきたので、そこでようやくリックさんは引いてくれた。
「本当にありがとう。厨房の皆で頂くよ。また近いうちにお礼させてね」
「いえ、良かったら、味の感想聞かせて下さい。それじゃあ」

 喜んでもらえたようでよかった。
 私は意気揚々と定食屋へと戻っていった。

 そしてその晩、思いもよらぬ出来事が待ち受けていたのである。

・   ・   ・   ・

 夜深の空には、丸い月が一つ。
 窓の外では虫の音が波打つように鳴り響いている。

 私はベッドに横になりながら、眠れずにいた。

 時々こうして想いを馳せる。
 一年を過ごした巫女時代のこと、元いた世界のこと、そして今過ごしているこの世界のこと。
 この先の私は、どこでどんな風に生きているのだろうか。

 夜の空気は私を不安でかき乱す。
 けれど同時に、そんな私をあやそうとするかのように包み込む優しさもある。
 だから私は切なくなるのだ。

 ああ、切ない。とても切ない。


 眠れないまま寝返りを打った私は、窓に背を向けて目を閉じていた。
 完全な暗闇が怖い私は、いつもカーテンを開け放したままである。
 今日のような満月の夜は月明かりが眩しすぎるくらいだけれど、暗いよりはいいだろう。

 そんな月明かりに、不意に影が差した。

 部屋の中、窓と隣接する私のベッドに、見慣れぬ影が落とされる。

 私はぱちりと目を見開いた。

 ――何事だろう。

 息を潜め、ゆっくりと窓を振り返る。
 窓は、静かに開かれるところだった。

 その時の私の驚きを、どう表現すればいいだろうか。
 私は言葉が出なかった。言葉どころか、息さえもつけない。
 体を強張らせ、突然の闖入者が窓枠を乗り越えてくるのをただ見守るしかできなかった。

 月明かりを背に受けた闖入者の顔がよく見えない。
 けれどそれが何者なのか、すぐに分かってしまった。

「――ノエル?」

 そう問いかけた私にはもはや確信があったけれど、同時に、馬鹿なと疑う気持ちも捨てきれなかった。相反する二つの思惑が私の中で拮抗して、頭がくらくらする。

 相手からの返事はなかった。
 彼は、返事の代わりに素早く窓を閉めた。一瞬わっと響いた虫の声が再び遠くなる。

「ハルカか」

 低い声が私の耳をくすぐった。

 ――信じられない。
 嘘でしょう、何、これ。今何が起こっているの。

 私は身じろぎをして、掛け布団を手元に手繰り寄せた。その手がじっとりと汗ばんでいることに気づく。一方のノエルは、ベッドの上に降り立ってから、少しも動こうとしない。
 私達は奇妙に沈黙したまま、しばらく向き合っていた。

 やがて沈黙を破ったのはノエルの方だ。

「久しぶりだな」
 この場には全く相応しくない二言目である。
「いや、そうでもないか。先日王宮の廊下で――すれ違い損ねた」
「こ、こんなところで、何やってるの」
 ようやく言葉を思い出した私は、明後日の方向へ話を進めつつあるノエルを遮るようにして問いかけた。だってこれ、おかしい。おかしすぎるだろう。立派な不法侵入だ。巫女様の護衛騎士ともあろう男が、真夜中に、町娘の寝室へ不法侵入。どうするんだこれ。

「何しに来たの」
「お前と話をしに来たに決まっている」
「いやいや、おかしいでしょ。これ、完全に犯罪だよね?」
「お前が人のことを避けたりするから、こんな無茶をする羽目になったんだろうが」
 まるで私がこの事態を引き起こしたと言わんばかりの主張っぷりだが、勝手に人のせいにされては困る。私がノエルを避けていたのは事実だけれど、それが気に食わないと言うのなら、他にやりようはいくらもあったはずだ。その中で一番最悪の手段を選んじゃったよあなた。

「誰かに見られたらどうするの!?」
 私は精一杯の小声で叫んだ。
「そうだな、それは困る」
 そう言って、ノエルは部屋のカーテンを閉めてしまった。暗がりの増した部屋にノエルと二人きりなんて冗談じゃない。私は慌てて手元のランプを灯した。

「本当に信じられない。これが、巫女様の護衛騎士のすることなわけ」
 私はランプの明かりが安定したのを確かめてから、それを枕元のサイドテーブルへ置いた。
 その間に、ノエルはこちらとの距離を詰めていたようである。気付くと彼の手がぬっと伸びてきて、私の頬に触れた。
「ぎゃっ」
「――本当に、お前なんだな。戻ってきたのか」
 私は飛びのいてノエルから距離を取った。心臓に悪い!
「戻ってきたの、知ってたんでしょ! ……ていうか、どこまで知ってるの?」
「大体全部把握してる。お前がオルディス殿と廊下を歩いているのを見かけてから、色々と調べさせてもらったからな」
「……よく私だって分かったね」
 ノエルと顔を合わせづらかった理由の一つに、今の私を見られたくないというのもあった。こちらが本来の私の姿だというのは重々承知しているけれど、前よりだいぶみすぼらしい。
「髪の色が変わったくらいだろう」
「いや、何か色々、変わったと思うんだけど」
 本気で大差がないと思っているのか、それとも気を遣われているのか。
 まあとにかく、今はそれどころではない。

「あのね」
 私はどうにか気を取り直した。
「私は、ご覧の通り元気にやってるから。今の巫女様の邪魔をする気もないし、大人しく過ごして、そのうち元の世界に戻るつもりだし。だからもう二度とこんな無茶はしないで。本当に、強がりとかじゃなくって、心配しなくても大丈夫だから」
「心配するに決まっているだろう」
 暗がりの中で、ノエルの瞳がほんのりと輝いて見えた。

 今は暗くて見えないが、彼の瞳はとても綺麗なエメラルドグリーンだ。
 整った顔も相変わらずで、こんな時だというのに見惚れてしまいそうになる。けれど同時に、とことん世界の違う人なのだということも、まざまざと見せつけられる気持ちだ。見方を変えれば、そんな人に心配してもらえるだなんて女冥利に尽きるというところだが、なにぶん、こちとらすっぱり振られ済みである。浮ついた気持ちにはとてもなれない。

「私がここに呼ばれた理由も、ちゃんと国が調べてくれてるみたいだし。その結果が分かるまでは、どのみち大人しくしてるしかないでしょ。ここのお店のご主人達もすごく親切で優しくて、私、毎日楽しく過ごしてるんだ」

「お前は何も分かってない」

 私が一生懸命力説してみせたというのに、ノエルは容赦なく私の言葉を切り捨てた。
 さすがに私も、いらっとする。
「分かってないって、何がよ」
「何もかもだ。お前は今、自分がどれほど危険な状況にあるのか、全く理解していないだろう」
「危険って……」
 ちょっと大げさすぎやしないだろうか。
 確かに、私を呼び出した人間が誰だか分からない今の状況はやや不安ではある。しかし、既に犯人の目星はついているらしいし、あとは証拠を掴むだけだ。それに現状では、身に迫った危険を感じたことも特にない。
 そんな気抜けした私とは対照的に、ノエルはあくまで真面目な表情を崩さなかった。

「ハルカ」
「は、はい?」
 否応なくこちらも緊張してしまう。

「お前、俺のところへ来い」