23.

 再び沈黙が降り立った。

 いまいち状況が飲み込めない。
 そもそも、ノエルが夜更けに人の部屋へ不法侵入してきた辺りから私は混乱し通しである。そんな混乱状態の中で、「俺のところへ来い」などといきなり言われたって、無駄に心拍数が上がるばかりで正しく意味を読解することなどできるはずがない。

 しかし、ノエルが甘ったるい意味合いを込めて言っているのではないことだけは、これまでの経験則からすぐに分かった。だからつまり、ええと。――危険だから避難しに来い、ということだろうか。

「……なんでよ」

 こんな時まで可愛げのない自分が憎らしい。
 しかし、先程から全然こちらを気遣ってくれないノエルの強引なやり口に、多少腹が立っている。素直にノエルの手を取る気には、到底なれなかった。

「何故フラハムティ殿がお前を保護せずにいるか、考えてみろ」
「……私みたいに平凡な娘を下手に保護したら、却って目立つ、って」
 その時は、なるほどもっともだと納得した。
 しかし、今目の前のノエルの様子からすれば、これが及第点をとれるような回答ではないことは何となく分かってしまった。自然と、私の声は小さくなる。
「そんなもの、詭弁に決まっている。新しく雇った使用人を装ってオトゥランド殿の屋敷に入れてもらうとか、いくらでもやりようはあったはずだ」
「……」
「フラハムティ殿はお前を利用しているんだ。元巫女であるお前を再召喚し、王宮に混乱をもたらそうとしている不穏分子をあぶり出すために」
「利用だなんて。私は何もフラハムティ様に頼まれてない」
「何もしなくていいからな。むしろ、自然体のまま過ごしてもらった方が、都合がいい」
「全然意味が分からない。もっと分かりやすく教えてよ!」

「つまり、お前は囮おとりなんだ」

 囮?
 私が?

「元巫女に似ているが、本人かどうかよく分からない娘が王宮に出入りしている。――お前を召喚した人間がそれを知れば、確かめるために動かずにはいられないだろう。フラハムティ殿はそこを押さえようとしているんだ。お前が思わせぶりな行動を取ってくれれば、相手の動きも捉えやすくなる。そのために、お前は放り出されているんだよ。部屋の中にお前を閉じ込めていては、相手を誘い出せないからな」

 ……何となく、ノエルの言っていることが分かってきた。

「フラハムティ殿にとって、お前の安全は二の次なんだ。相手側がどう出るか分かっていない現状、お前に危害が加えられる危険も十分考えられるはずなのに、彼にとってそれは問題ではない。今の状況を黙認しているオトゥランド殿やオルディス殿も同じこと。今、お前の周りに、お前の本当の味方は一人もいないんだぞ」

 私は唇を噛みしめた。
 フラハムティ様達が、心底私に親身になってくれているとは、初めから思っていない。
 向こうは向こうの都合で私と接していることは分かっていたつもりだ。――ノエルに突きつけられた現実までは、さすがに理解していなかったけれど。
 だから、私がいわゆる「囮」の扱いだったことがショックなわけじゃない。

 それよりも、ノエルがどこまでも私の味方でいようとしてくれている事の方が何倍も身に堪えた。自分の立場だってあるくせに、夜更けに危険を冒してまでやってきて、私を助けようとしてくれている。……もう、私はそうまでして護ってもらう価値のある人間じゃないのに。

 黙ったままでいる私に、ノエルは苛立ったようだ。
 俯いた私の肩に手をかけた。その手に強い力がこもる。

「ハルカ、ここを出よう。後のことはどうにかする」

 その時、私の左手にはめていたブレスレットが、じんわりと光をまとい始めた。
 まるで呼吸をするかのように、ゆっくりと点滅を繰り返す。

 オルディスさんが、いつも身につけていろと言ったブレスレットだ。言われた通り四六時中身につけていたために、その存在をほとんど忘れていた。
 これって、身に危険が迫ったら、オルディスさんに知らせてくれるとかいうやつだっけ。

 ――やばいじゃん!

 説明もしていないのに、ノエルもこれがどういうものか察したらしい。
 紳士の象徴である騎士様のくせに、「ちっ」と忌々しそうに舌打ちをして私から手を放した。この人は、このガラの悪い方が本性なのだと、世のお嬢様方に知らせてあげたいところだ。

「あのさ、ノエル。話はよく分かったから」
 ノエルは黙ったまま私を見据えた。

「でも、私はノエルのところには行かない」

「……」
 答えは初めから、決まっている。

 今のこの生活は、私自身が望んだものなのだ。
 フラハムティ様やオルディスさん達の思惑がどこにあろうと、それとこれとは全く別の問題である。私がここにいたいから、ここにいる。
 それに、万が一、現状に問題が生まれて誰かに匿ってもらう必要が出てきたとしても、私が助けを求める相手はノエルじゃない。その時は、どんなに嫌がられようと、オルディスさんのところ辺りにでも押しかけてやるつもりだ。

 ノエルは、私なんかに構っていては駄目なんだ。
 だからもう、私のことは放っておいて。

 そんな心意気を込めて、真っ直ぐノエルを見つめ返してやる。
 しかしノエルも折れなかった。

「お前一人でどうするつもりだ」
「一人じゃないよ、オルディスさんやオトゥランドさんがいる」
「どこまで信用できるか分からないと言ったばかりだろう」
「でも、人を疑って怯えているだけじゃ、何も解決しないと思う。裏切られるかもしれないけど、それは覚悟の上で、私は二人を信じてみたいの」
「俺よりも、彼らを?」
「そういう問題じゃないでしょ」
 いつも冷静なノエルらしくもない。
「ノエルのことは信頼してる。でも、ノエルはアルディナ様を護らなくちゃいけない。私を保護しながらアルディナ様の護衛を務めるなんて、やっぱり無理だよ。私とアルディナ様は、王宮の人達にとっては、相容れない存在なんだから」
「……」
 ノエルは押し黙った。
 彼だってそんなことは分かっているのだ。多分、私よりもずっと。
「大丈夫、私、結構図太いよ。簡単にへこたれたりしないんだから」
 ぎこちなくも笑ってみせた。
 少し頬が引きつってしまったけれど、きっとこの暗がりならば分からない。

 しばらくして、ノエルは深々と溜め息をついた。

 何だかノエルの溜め息を聞くのも久しぶりだ。
 護衛をしてもらっていた頃は、しょっちゅうノエルが厭味ったらしく溜め息をつくのを聞いていたっけなあ。それだけ当時から気苦労をかけていたのだと思うと、まあ、今となっては反省しないでもない。

「お前、変わったな」

 そうだろうか。私自身はそんなに変わっていない、と思う。
 変わったのは、私を取り巻く環境の方なのだ。だから、前と同じようには動けない。それはお互い様のはずじゃないか。

「……やはり、本気で元の世界へ戻るつもりでいるのか?」
「……うん」
 一瞬、定食屋のご主人とおかみさん、それにセナさんの顔が浮かんだ。
 でもやっぱり、私の住むべき世界はここじゃない。一生ご主人達と一緒に過ごすことなんてできるわけがないし。どれだけ居心地が良くても、それは一時のことなのだ。これまでの短い人生でも、孤児院から親戚の家へ引きとられるまで、たくさんの別れと出会いを繰り返してきた。
 だから私には分かる。
 いつかは別れがきっと来る。だから、人に縛られて自分の居場所を決めちゃだめなんだ。

 以前の召喚の時もそうだった。
 ノエルとならばずっと一緒に過ごしたいと思ったけれど、元の世界へ戻り、私はその世界こそが自分の居場所なのだと納得した。ノエルのことだって、少しずつ時間が忘れさせてくれる……はずだったのだ。
 それが何故だか、今目の前で怖い顔をした彼がいるというのだから、人生何が起こるか分からないところだけれど。

「お前の、その物分かりの良さが憎い」
 ノエルは呻くように呟いた。

 そう思ってくれているなら、それがいい。
 本当の私は、物分かりがいい訳じゃない。本心を言ってしまえば、ノエルにどこへでも連れて行ってもらいたい。そう切実に思っている自分の気持ちを誤魔化すことはできやしない。だけど、なけなしの自制心でどうにか堪えているのが、今の私なのだ。

 ノエルに察してほしいとは思っていない。
 むしろ、絶対に気づかないでほしい。強がりだけど、それは本音だ。

「……分かった」
 ノエルは静かに頷いた。
「どうしても、俺とは来ないというんだな」
「うん」
 私は即座に頷いた。
 また一つ、ノエルの口から溜め息がこぼれる。

「いいか、ハルカ」
「うん」
「元の世界へ帰る目処がつくまでは、なるべく大人しくしていろ。お前は信じてみると言ったが、王宮は、お前を利用しようとしている人間で溢れているということは忘れるなよ」
 人間不信の種を思いっきり植え付けようとしないで下さい。
 でも、実際そうなんだろう。
「……一応、肝に銘じておく」
「俺は、オルディス殿のように大した補助魔術を扱うことはできないが」
 ノエルの視線は、私の左手のブレスレットに落ちている。
「何かあれば必ず助けてやる。それも、忘れるな」
「……ありがとう」
 お礼を言うことで、私が誤魔化したことをノエルは察していた。私は頷かなかった。それでまた文句を言おうとして開きかけた彼の口からは、代わりに溜め息が落ちた。これで何回目だろうか。今日はどうやら、溜め息のバーゲンセールのようである。

 ノエルがようやく私から視線を外した。
 そっとカーテンを開き、窓の外を確認する。

 私にあてがわれているこの部屋は、お店とは反対側に位置している。ちょうど細い裏通りに面しているから、夜中の人通りはあまり多くはない。それでも、人の家に忍び込むなんてマネ、あまりに危険すぎる暴挙ではあるのだが。

 しばらく外の様子を窺っていたノエルは、やがて音を立てないように窓を開いた。威厳ある騎士様とは思えないほど、ひらりと身軽に窓の外へ飛び出した。

 行ってしまうのだ、と思うと、言い知れぬほどの胸の痛みが私を襲った。
 勝手な感情だ。絶対に胸の奥へしまいこんでおかねばならない。

 ノエルはちらりとこちらを振り返ったが、もう何も言わなかった。
 闇夜に紛れ、彼の姿は消えた。

 私はしばらく窓の外を眺めたまま、動けなかった。