24.

 そして寝不足である。

 そりゃあそうだ。あんなことがあった後で、ぐっすり眠れるほど私の神経は図太くない。
 むしろ一睡もできなかった。

 何だろう。昨日のアレは、本当にあった出来事なのだろうか。

 もしかして、眠っていないと思いつつ実はしっかり眠っていて、全ては夢の中の出来事だったのではなかろうか。それが一番あり得る気がする。だって、まさかノエルがこんなところに乗り込んでくるなんて、そちらの方がよほどあり得ないではないか。そうかそうか、夢だったのか。
 でも、夢ならばこの強烈な寝不足感は一体何なのだ。

 私はベッドの上で両手をつき、項垂れた。
 夢であろうと現実であろうと、もうちょっとまともな所で再会したかったよ。
 私はといえば、寝ぼけ眼でもちろんスッピン、色気も何もない部屋着を身にまとった状態である。片思いの相手と向き合うにはいささか酷な装備ではないか。そんなことを気にしていられる事態でなかったことは分かっているものの、なけなしの乙女心がさめざめと涙を流している。
 まあ、これまでノエルのことを後回しにしてきたつけが回ってきたということなのだろう。

 でも、私の告白はなかったことになっていたようで、それだけはよかった。
 もしあの場で告白のことを蒸し返されでもしていたら、恥ずかしさのあまり死んでいたかもしれない。……完全になかったことにされるというのも、ほんのちょっと悲しいものがある気もするけれど。


 窓の外は晴天だ。
 高く澄んだ声で鳥が一日の始まりを告げている。

 ……よし、ふっきろう。

 ノエルからの忠告はありがたく受け取って、他の些細なことは考えないようにしよう。宰相のフラハムティ様は私をダシにして召喚者をおびき出そうとしているらしいから、身辺にはこれまで以上に気をつけなくては。あ、そういえば、ほったらかしの通学鞄に防犯ブザーが入っていたっけ。あれを持ち歩くようにしようかな。

 寝不足ですっきりしない頭を一振り。
 顔を洗うと少しだけ意識がはっきりしてきた。

 昨晩の一連の出来事があまりに現実離れしていたせいか、思いのほか私は冷静だった。
 そりゃあ、一睡もできなかったという程度にダメージを受けたのは事実だ。しかし、今、何も手につかず何も考えられない――というほどの動揺は見当たらなかった。今日もこれから、普段通りの一日を過ごすのだという自然な心構えがある。

 ノエルは、私が変わったと言った。
 その直後は、変わってなんかいない、と思ったけれど。
 ……やっぱり私、前より格段に図太くなってるよな。

 弁当の準備に勤しんでいるご主人とおかみさんに代わって、私は朝食の準備に取りかかった。
 王宮での弁当販売が始まってからの、私の日課である。
 この間作ったフレンチトーストが好評だったので、今日もその予定だ。昨日の晩から下準備をしてあるから、後は焼くだけでいい。そのうち和食っぽいメニューにも挑戦してみたいのだけれども、やっぱり醤油がないのが厳しすぎる。似たような調味料は見つけたものの、やっぱり醤油とは違うんだよなあ。

・   ・   ・   ・

 さて、その日の午後。
 昼の営業はここまでと、一旦の店を閉めたところへ、思わぬ来客があった。

 調理師のリックさんである。

「えっ、どうしたんですかリックさん、こんなところへ」
「こんにちは、ハルカさん。昨日はお弁当をどうもありがとう」

 昨日おすそ分けした弁当の空箱を、わざわざ仕事上がりに返却に来てくれたようだ。王宮内に返却口があるはずなのに、何とも律儀なことである。

「それで、お忙しいとは思うんだけど、お店のご主人はいらっしゃるかな」

 何だか妙にかしこまった様子だなと思いながらも、私は厨房へご主人を呼びに行った。ご主人はご主人で、王宮の厨房のことをとても気にしていたから、リックさんの名前を出しただけですぐに飛んで出てきてくれた。

 それで何が始まるのかと思いきや、リックさんがいきなりご主人に向かって頭を下げたのである。

「王宮の厨房で料理を担当しているリック=ギーズと申します。昨日は、わざわざどうもありがとうございました。頂いたお弁当は、同僚達と大変美味しく頂きました。それで、どうしてものお願いがあり、こちらへ伺わせて頂いたのです。―――あの、どうか僕を、しばらくこちらに通わせて頂けませんでしょうか!」

 一気にまくし立てられた内容は、噛み砕けば、とんでもないものだった。

 面食らった私と同じく、ご主人も言葉を失くして立ちつくしていた。
 部屋の奥からおかみさんとセナさんもこっそり顔を出してこちらの様子を窺っているようだ。

 これはつまり、客として通うってことではなく、弟子入りしたいということだよね。そこまであの弁当に感銘を受けたのだろうか。確かにうちの弁当は美味しいけれど、一晩でこうも思いつめてしまうほどの逸品かといえば、それはさすがに大げさな気がするのだが。

「ご迷惑は承知しています。ですが、どうしてもこちらで料理の勉強をさせて頂きたいんです。もちろん、その間の賃金などは頂きませんし、いくらでも僕をこき使って頂ければと思っています。毎日がご迷惑でしたら、何日かに一度でも。どうかお願いします」
「あの、いや、まあ、とにかく一度顔をあげて下さい。詳しいお話は奥で」
 ご主人は困り果てた顔をしながらも、優しくリックさんに声をかけてあげた。

 ああ、オトゥランドさんに続き、連日のようによく分からない来客が。
 ……来客のきっかけを作っているのは他ならぬ私である。ごめんなさい、ご主人。


 リックさんの話によると、食堂の調理師一同、昨日差し入れたうちの弁当をいたく気に入ってくれたらしい。これは人気が出るのも頷ける、と、自分達を省みるきっかけにもなったとのことで、当初のリックさんの思惑通りになったわけだ。
 しかし、それ以上のものをリックさんは感じたのだという。
 それは、画一的に料理を提供している自分達のような調理師には出せない味だとか何とか。リックさんは一生懸命あれこれ語ってくれたけれど、つまり簡単に言えば、「下町の味」とか「おふくろの味」とか、そういう類のものを感じたということなのだろう。
 すでに王宮側には話を通していて、料理修行という名目ならば、数カ月は休職も可能ということだった。行動が早すぎます、リックさん。そして王宮のホワイト企業ぶりにもびっくりだ。リストラするんじゃなかったのか。……実際は、あれこれと面倒かつ大変な条件を付けられているらしいのだけれども。

 さて、どうしたものか。
 ご主人の顔には、はっきりとそう書いてある。

 頷いてもらうまでは帰らない。
 リックさんの顔にも、はっきりとそう書いてある。

 外野の私とセナさんは、ご主人とおかみさんの意思を尊重するだけだ。
 個人的には、うちの厨房の人手はいつも足りていない状況だし、面倒なばかりの話ではないと思ったりもする。リックさんは素人ではなくれっきとした料理人だ。タダで即戦力になってくれるというのだから、私だったら喜んで受け入れてしまいそう。
 まあ、人のいいご主人にとっては、逆にそこが一番のネックになっているのかもしれない。タダ働きなんて申し訳ない、とか、絶対に考えている。それに、期間限定の弟子を店の戦力して勘定するわけにもいかないのだろうなあ。

 しかし、結局根負けしたのはご主人の方だった。

 さすがに毎日は、ということで、週に二日の通い弟子となることで、ひとまずは決着した。
 リックさんは大喜びだ。ありがとうありがとう、と、何もしていない私に握手を求めてくる始末。

 またこれで、お店がにぎやかになりそうだ。
 毎日の目まぐるしい変化に、私は若干ついていけていない。

・   ・   ・   ・

「そういうわけで、新しく若い料理人さんがうちに修業に入ったんですよ」
 ある日、私はほんの気軽な世間話のつもりで、魔道研究所のルーナさんとコリーさんに報告した。

 いつものように弁当配達にやってきた今日、オルディスさんの姿は見えなかった。
 代わりに、いつかと同じくボードゲームに興じていた若い魔術師二人が私の話相手となってくれているのだった。この人達は、いつ仕事をしているのだろうか。

 それはともかく、何でもない世間話のつもりが、部屋の空気を凍りつかせてしまったから驚いた。
 主な原因は、コリーさんである。私の話を聞き終えた途端、この世の終わりと言わんばかりにがくりと肩を落とし、腹の底から絞り出したような溜め息を吐いたのだ。
「もごもごもご……」
 今にも消え入りそうな声で、何事かを呟いている。
「え、なんですか?」
「……その話さ、本当なのかい?」
 コリーさんの近くで耳を傾けたところ、そんな質問が返ってきた。
「若い料理人って、男だよね」
「はあ、そうですが」
 目をぱちぱち瞬いていると、ルーナさんがやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
「男の嫉妬ほど意味不明かつ見苦しいものはないですよ」
 ああ、なるほど。私にも合点が行った。
 そういえば、コリーさんはうちのセナさんに惚れているのだった。
 たまの弁当配達でしか会えないセナさんのところに、頻繁に通う若い男がいる。実態はどうであれ、コリーさんとしては大変面白くない話なのだろう。
 そんな心配などしなくとも、リックさんも痩せ型だから、セナさんの好みからは大きく外れているというのに。むしろコリーさんの目下のライバルは、うちに来店する筋骨隆々のおっさん達である。そんな事実を告げてしまえば、ますます絶望してしまうか、兵士に転職すると言い出すかのどちらかであろうから、口を閉じておくことにしよう。

「そうだ、コリーさんもお客さんとしてうちに来てくれればいいんですよ。ほぼ毎日、セナさんもお店にいますよ」
「僕なんかが君の定食屋に行ったら、浮いて浮いて仕方がないよ」
「最近は若い男の兵士さん達の来客も増えてますし、そうでもないですって」
「ええぇっ、若い男の兵士達って。そ、それ本当?」
 あ、しまった。また地雷を踏んでしまったらしい。

「まーったく情けない男ですねえ! 雨も嵐もものともせずに毎日愛しの彼女に会いに行き、それでも想い報われず涙で袖を濡らしていると言うならまだしも、コリー、あなたまだ何もしていないじゃないですか! それで他の男の影がちらつくのが気に食わないと言われちまっても、こちとらへえそうですかとしか言いようがない」
 ルーナさんは口先だけはよく回っているが、その実じつまるでコリーさんの恋愛事情には興味がなさそうに、自分の弁当を真剣につついている。最近知ったが、彼女一人で弁当を二つ分食べているらしい。その細い体のどこに食べ物が消えていくのだろうか。

「ルーナみたいに豪胆な精神の持ち主には分からないよ」
 コリーさんはすっかりいじけモードである。
「でも、ハルカさんなら分かってくれるよね。片想いのつらさってやつを。

 そんな風に話を振られて、ぱっと浮かんだのはノエルの顔だ。
 ほんの数日前まで、私が思い浮かべる彼の顔と言えば、一年半も前に過ごした遠い記憶から引っ張り出された古ぼけたものばかりだった。
 けれど、今は違う。
 この間の夜更けに突然私の部屋を訪れた、あの暗がりの中のノエルの顔が。手を伸ばせば届く距離にあった、彼の顔が、頭の中に。

 ぐああああ、思い出すだけで恥ずかしい!
 何だこの一人で引きずって舞い上がってる感じは!

 どうやら確かに私はコリーさんと同類のようだ。
 それは認めなければなるまい。