30.

 ノエルは即座に私の存在を確認すると、ぐっと唇を引き結んで真剣な表情を見せた。……真剣というか、むしろそれを通り越して睨みつけられている心地だ。怖い。

「まあ、ノエル。どうしてここへ?」
「あなたが市井の娘を部屋に呼ばれたと聞いて、急いで参りました」

 ノエルは私から視線を外し、驚いて立ち上がったアルディナ様へと向き直った。
 そのまま彼女の側へ真っ直ぐ歩み寄る。

「何故こんなことをなさったのです。どこの誰とも知れぬ一介の娘を、まさかご自身の私室へ招き入れるとは」
「ご、ごめんなさい。私、どうしてもハルカさんとお話ししてみたくて」
 身を竦めるアルディナ様に、ノエルは厳しい表情を崩さない。
「一体何故、彼女と?」
「それは……」
 アルディナ様は黙り込んでしまった。
 どうやらうちの弁当を食べていたというのは、ノエルには内緒にしていたらしい。そうだよな、ノエルって結構な堅物だから、知っていたら絶対に許していなかっただろう。それに、彼を怒らせると怖いというのは、私もよく知っている。

 若干空気になったような気持ちで、私は大人しく席についていた。
 巫女様と騎士様が立っているからには、もちろん私も立ち上がるべきなのだろうが、今下手に動いて二人の意識をこちらに向けてしまうのは勘弁願いたいところだ。このままアルディナ様とノエルの間で話がまとまってくれればいいな、という微かな期待から、私は路傍の石にでもなったつもりで息を殺していた。

「……ごめんなさい。私、彼女の働く定食屋さんのお食事を、頂いたことがあるの」
 誤魔化しきれそうにないと腹をくくったらしいアルディナ様は、しょげかえりながらも白状した。まるで飼い主に怒られている子犬のようだ。
「彼女の定食屋の?」
「ええ。最近、兵の訓練場まで配達に来てくれている定食屋さんで……」
「それは知っています」
 すっぱりとノエルに切り捨てられ、アルディナ様はますますしゅんと頭を下げた。何だかその姿が憐憫を誘いつつも可愛らしい。こう、ぐっと胸にくるものがある。

「ノエル様、わたくしが独断でお弁当をお持ちしたのですわ」
 見かねたらしいソティーニさんが、石像であることを止め、助け船を出した。
「アルディナ様が仰ったことではありませんの。責任はわたくしにございます」
「ま、待って。違うわ。私がソティーニにお願いしたのよ。今日、ハルカさんをここへ呼んでほしいと頼んだのも私。だからソティーニもハルカさんも、何も悪くないの」
「アルディナ様、そのようなことを仰らないでください。言い出したのはわたくしです」

「誰が悪い悪くないの話をしているのではありません」
 ノエルはぴしゃりと言い捨てた。
 可憐な女性相手に、どこまでも容赦がない。相変わらずである。

「私が申し上げているのは、アルディナ様にもっと巫女としての自覚をお持ち頂きたいということです。確かにこの娘は、裏表のないごく普通の定食屋の店員にしか見えません。しかし、もしかしたら悪意を持ってあなたに近づこうとしているのかもしれない。我々護衛は、そういう最悪の場合まで想定して、あなたの側にお仕えしているのです。それを独断で、このような」
「……そうね、本当にごめんなさい。でも本当にハルカさんは悪くないのよ。怒るのならば、私に対してだけにして」

 アルディナ様は、私を庇いつつも、素直に謝った。
 だが。

 ちょっと言いすぎではなかろうか。
 私は気配を消しつつも、ノエルに対してふつふつと怒りが湧きあがるのを感じた。

 アルディナ様だって普通の女の子なのだ。
 時には、私みたいな同年代の普通の女子と気兼ねなくおしゃべりしたい時だってあるだろう。でも、そんなささやかな思いが巫女の身には過ぎた希望だと知り、納得しているからこそ、こうしてたった一度だけ、小さな冒険をしてみたのではないか。
 それを、頭ごなしにしかりつけるだなんて。
 しかも人目を気にしているからか、すっかり他人行儀な物言いだ。
 ノエルにはアルディナ様に対する思いやりというやつが足りない。

「――あのっ」

 ついに私は我慢ならずに声をあげてしまった。
 皆の視線が一斉に私へ集まる。
 特にノエルの視線などは、それだけで私を射殺せそうな勢いであった。

「……ええと。そこまで強く言わなくても、いいんじゃないかなと……思ったり……致しまして」
 お前は黙っていろと雄弁に語るノエルの視線に怖気づき、私は何とも情けない声で申し開きをしてしまった。
 しかし、どんなに怒っていてもノエルはノエルだ。まさか殺されはしないだろうと思い直し、私は改めてアルディナ様を真っ直ぐ見据えた。

「私は、今日、アルディナ様とお話ができてとても嬉しかったです。アルディナ様のこと、ずっと雲の上の人だと思ってましたけど、そうじゃなくて、普通の優しい一人の女の人なんだって実感しました。ノエル……様のお怒りも当然ですが、私は、今日の機会を感謝しています」
 平民の身で、かなり偉そうな物言いになってしまったかもしれない。だが、アルディナ様は嬉しそうににっこりと笑ってくれた。それだけで私も救われた思いになる。

 しかしノエルの怒りを解くには全くもって力不足の弁明だった。

「とにかく、彼女にはお帰り願いましょう。私が出口まで送ります」

 げっ。という言葉を、すんでのところで呑み込んだ。

「ノ、ノエル、あなたが彼女を送る必要はないわ」
「そうですわ。わたくしがハルカさんをきちんと責任を持ってお送りいたします」
 どこからどう見ても怒り心頭という様子のノエルに私を任せるわけにはいかないと考えたのだろう。アルディナ様とソティーニさんが必死に彼を止めようとしてくれた。だが、ノエルはか弱い女性二人の言葉に心動かされる紳士な男ではない。

「彼女には、色々と聞きたいこともありますので。――では、ハルカとやら。行くぞ」
「……はい……」
 私は早々に観念した。

・   ・   ・   ・

「全くお前は、何を考えているんだ」

 部屋を出るなり、早速ノエルのありがたいお説教が飛んできた。
 わざわざ遠回りで居住区の出入り口へ向かっている辺り、言いたいことが山ほどあるということなのだろう。あの晩ぶりに会ったというのに、何だこの状況は。

「オルディス殿に、巫女周りは気をつけろと言われているんじゃなかったのか?」
「……私も、まさかこんなことになるとは思わなかったんだもん」
 周辺に人気ひとけがないのをいいことに、私は恨みがましく呟いた。もちろん、それを聞き逃してくれるノエルではない。

「ソティーニ殿に弁当配達を頼まれたんだそうだな。彼女がアルディナ様付きの神官だと知らなかったのか」
「最初は知らなかった。知ってからは、もう手遅れだったというか」
「無理にでも知った時点で関係を断ち切るべきだったんだ。お前は、あの晩俺の言ったことを何一つ理解していない」
 ノエルの口調はひどく苛立っている。
「そこまで怒らなくても……」
「誰のせいでこんなに怒っていると思ってるんだ」
 ぐ、すみません。
「……せめてアルディナ様には当たらないであげてよ」
「あれはあれで問題がある」
 いやはや、どこまでも容赦のない男だ。

 傍から見れば国随一の美男美女カップルであろうノエルとアルディナ様だが、その実態は、躾しつけにうるさいお母さんと、お母さんが怖いけれどやっぱり大好きな娘さん、という感じなのかもしれないと思った。それはきっと、二人がいい関係を築けている証拠だ。少し切なく感じてしまうのは、まあ、許してほしいところである。

「本当にお前は、放っておけない。何をしでかすか分かったものじゃないな」
 しかしノエルの言う通り、自分でもびっくりだった。まさかアルディナ様とお茶を飲むことになるなんて、今朝には思いもよらなかったのに。
 たまたま今回は大事には至らなかったが、場合によっては、アルディナ様派閥に命を狙われて呼び出されていた可能性だってある。そんなところへのこのこと出向いてしまったのは、確かに完全なる私の落ち度だ。ソティーニさんと面会室で会うくらいなら構わないと、気楽に考え過ぎてしまっていた。そこは本当に反省している。

「そういえば」
 ふと、つい今したがの、束の間のお茶会を思い出した。
「アルディナ様、ちょっと疲れてるみたいだったよ」
 何となく、ノエルには伝えておきたくなった。

 しかし、疲れている、という言い方は語弊があるかもしれない。
 彼女はどこまでも美しく優しく、優雅だった。
 それこそ、街で皆が噂する、稀代の巫女「アルディナ様」そのもの。
 けれど、平民である私を密やかに私室へ招き入れ、とても楽しそうに身の上話をしてくれたという行動それ自体が、彼女の心に影を落とす“疲労”だとか“孤独”だとかを連想させずにはいられなかった。アルディナ様は、それだけ人との素朴な触れ合いに飢えているのではなかろうか。

「きっと、気軽に世間話ができるような友達が欲しいんだと思う」
「お前は辞退しておけ」
「それは分かってるよ」
 できれば、これからもアルディナ様と時々会って話相手にでもなれればいいなと思うけれど。もちろん、それは無理な話だ。彼女に近づけば近づくほどに、私の身も彼女の立場も危うくなる。
「……アルディナ様の孤独は理解しているつもりだ。だが、分かっていても、簡単にどうこうできる問題じゃない。それはお前とて経験があるだろう。時間をかけて、少しずつ王宮での暮らしに馴れていってもらうしかない」
 ノエルの言葉に、私は頷いた。
 そうか、ノエルは分かっているんだ。アルディナ様のことを、ちゃんと見ている。

「それよりも、何度も言うが、お前のことだ」
 うう、またその話に戻るのか。
 私の顔にうんざりした色が浮かんだことに気づいたのか、ノエルは瞬時に目を釣り上げた。
「どうもお前は危機感が足りないようだ。俺は本来口うるさい性質たちではないんだ。面倒事は嫌いだし、首を突っ込むくらいなら放っておく。だが、お前のその呑気な様子を見ていると、とても見て見ぬ振りなどできやしない。だいたい、自分の命がかかっているという時に、お前自身がそんな呆けた態度でどうするつもりだ?」
「いや、私は私なりに危機感を……」
「持っていたら、神官の居住区などにふらふらと足を運ぶはずがないだろう」
 ぐうの音もでません。
「以前は、お前のすぐ側にいられたから俺の心労もまだ多少は和らいだ。だが、今は違う。お前がぼんやりと危険の中へ足を踏み入れているその瞬間、俺はお前の側にはいられない。だから余計に――」
「大丈夫!」
 私はノエルを遮るように声をあげた。
「ノエルから見れば危なっかしいかもしれないけど、ちゃんとするから。今日のことも、いい勉強になった。だから明日からはもっとうまく立ち回れるよ。ノエルは心配しないで」
「ハルカ」
 ノエルが諌めるように私の名前を呼んだ。
 けれど私は振り向かず、逆に廊下を行く足を速めた。

 もう居住区の入り口近くまで戻って来ている。
 ちらほらと他の神官達の姿も見え始めた。

 私は逃げたのだ。
 ノエルからのお小言なら、いくらでも聞いていられる。
 でも、優しい言葉はダメだ。あれはいけない。
 うまく説明できないが、とてもいけない。