29.
まずい。非常にまずい。
だって普通に考えればあり得ない。
どうしてソティーニさんに弁当を届けていただけの私が、アルディナ様に会う会わないの話になるのだ。いくらなんでもおかしいだろう。
これはやはり、私の存在が既にアルディナ様側にバレていると考えた方がいいのだろうか。それで、弁当配達という名目で私を呼び寄せ、期をうかがって捕まえようとしている。何故私を捕まえるのか、それはかつてオルディス様さんが言っていた通り。アルディナ様にとって邪魔にしかならない私――元巫女を、排除するためだ。
そう考えればこの状況にも説明がつく。
ここは、素直にソティーニさんについて行っている場合じゃない。今からでも踵を返して全力疾走をすれば、何とか逃れられるだろうか。
だが、神官の中には魔術に通じている人達がたくさんいる。思い返せば、私の付き人をやっていた女性神官達はもれなく魔術が使えたはずだ。となると、このソティーニさんも恐らくは魔術の使い手なではなかろうか。本業の魔術師ほど苛烈な術は使えないとは思われるものの、私を足止めする術くらいならばいくらでも習得していそうだ。
こうなったら、ひとまず様子を見るしかないか。
私はオルディスさんから貰ったブレスレットに右手を添えた。もはや頼りはこのブレスレット一つである。私の身に何かあったらすぐにオルディスさんに連絡が行って、助けてもらえる……はずだ。多分。
「失礼いたします」
そうこうしているうちに、アルディナ様の部屋まで到着してしまったらしい。
私が暮らしていた部屋と同じ位置だ、間違いない。
でも、もし私を捕らえようとしているだけなら、わざわざアルディナ様の私室まで呼び寄せる必要などないはずだ。ああ、一体何が待ち受けているのか。
「アルディナ様、ハルカさんをお連れしました」
ソティーニさんが扉を開いた途端――ふわりと柔らかな香りが鼻先をくすぐった。
広い部屋の中で目を引いたのは、落ち着いた深い緑の模様が鮮やかな絨毯。そして白い壁にも同じく緑を基調とした柄が入っている。私がいた時は、全体的にピンクっぽい可愛らしい雰囲気の部屋だったが、当時とはまるきり印象が変わっていた。
「まあ、お待ちしていました。さあどうぞ中へ入って」
本物のアルディナ様だ。
椅子に腰かけていた彼女は、ゆるやかに立ちあがって私を部屋に招き入れてくれた。
以前パレードで見かけた時の、あのアルディナ様に間違いない。今日はふわりと柔らかそうな金の髪を横に流して一つでゆるくまとめ、シンプルな白いワンピースを身にまとっている。あのパレードの時よりもだいぶリラックスした様子で、浮かべた微笑にも余裕がある。
うわあ、本当の本当に、本人だ。
こうして間近で向き合うと、ますます彼女の美しさが際立って見えた。
恐らく私とは同年代だと思われるが、もう、羨む気持ちも起きないほどに私とは何もかもが違う。顔がもの凄く小さいし、肌は白いし、ほっそりとした腕はとても長い。身長も、百六十センチある私よりもまだだいぶ高いようだ。それでも、華奢なせいで大柄なイメージは全くない。
「突然お呼び立てしてしまってごめんなさい。驚いたでしょう」
呆けた表情でアルディナ様に見惚れていた私に、当の本人は優しく声をかけてくれた。
それで我に却って部屋を見渡したが、いかつい兵士達が束になって待ち構えているということはなさそうだ。タンスの中にでも隠れているのでなければ、この部屋にはアルディナ様が一人のはずである。
「立ったままではなんですから、どうぞ座ってください。すぐにお茶を用意させますね」
「えっ、と……」
アルディナ様は、自分が座っていたすぐ向かいの椅子を勧めてくれた。
だが、確かめるまでもなく、巫女様と単なる町民が同じ席に座ろうだなんて大非礼もいいところである。アルディナ様の言葉を鵜呑みにしていいものかと、私はここまで案内してくれたソティーニさんに助けを求める視線を送った。しかし彼女は、まるで石像にでもなったかのごとく、部屋の隅でじっと立ちつくすばかりである。この国では、貴人の前では物言わぬ像になるのがしきたりなのか。
仕方がないので、私は言われた通り席に着いた。
ええい、もうどうにでもなれ。
間もなく、侍女らしき女性がお茶を運んできてくれた。しかし彼女もすぐに退室してしまい、この部屋にはアルディナ様、私、ソティーニさんの三人だけになってしまう。しかもどうやらソティーニさんは私の監視役という立場らしく、会話に入ってくるつもりは毛頭ない模様だ。
「あなたがハルカさんなのね。お会いしてみたかったから嬉しいわ」
「わ、私にですか……?」
「ええ、あの美味しいお弁当を運んできてくれているのはあなたなのでしょう。いつもどうもありがとう」
お弁当! 思わぬ単語がアルディナ様の可憐な唇から飛び出してきて、私はぎょっと目を剥いた。もしや私が運んでいた弁当は、アルディナ様の口に入っていたのか。えええ、それはさすがにまずいだろう。もし毒入りだったりしたらどうするのだ。毒見くらいはしていたのだとは思うけれど。
私は今一度、今度は非難の意味を込めてソティーニさんに視線を送った。だがしかし、相変わらずソティーニさんは石像のままである。
「まさかアルディナ様が召し上がっていらしたなんて、その、驚きました」
他に何を言えばいいのか。
「そうよね、ごめんなさい」
ふふ、とアルディナさんは楽しそうに笑った。ああ、その笑顔がまた素敵過ぎる。こんな笑顔を見せられれば、どんな男もコロッと落ちてしまうに違いない。例えばそれが、堅物騎士様であろうとも。
「私、とても久しぶりに、街のお食事を頂きました。そこにいるソティーニが、王宮に出入りしている定食屋さんのお弁当の評判を聞きつけてきてくれて。それで、私のために手配してくれたんです。ハルカさんにはご無理をさせてしまったようで、申し訳ありませんでした」
「いえ、そんな、とんでもないです」
アルディナ様が、庶民の味に興味を持っていたとは驚きだ。そんな思いが表情に出てしまっていたのか、アルディナ様はくすりと笑った。
「私はもともと、小さな田舎町の教会で神に仕えていた、ただの娘に過ぎなかったんですよ」
そうしてアルディナ様は、身の上話をしてくれたのである。
貴族でも何でもない、田舎に暮らすごく普通の少女。
実家には、父と母と、小さな妹が一人。慎ましやかに生活していたアルディナ様は、日がな町の教会へ通って、神に祈りを捧げる日々を過ごしていたらしい。
しかし、当時から、アルディナ様の「力」は人目を引くほどのものだった。「力」とはすなわち、魔力のことである。魔力に優れた者が、魔術師もしくは神官として身を立てるのはよくあること。この時も、アルディナ様は、教会の神官様に、将来はどちらかの道を選ぶのがいいと助言を受けていたのだそうだ。
幼い頃から教会で過ごすことに慣れていたアルディナ様は、迷うことなく神官になる道を選び取った。そして田舎町の神官補佐から始まり、類稀なる魔力でもって、上へ上へと階段を昇りつめていくことになる。
「そんな私が、まさか巫女という大役に抜擢されるなんて、本当に驚きました」
それでも、任されたからには全力を尽くしたい。
皆の希望たる巫女として相応しい存在になれるよう、今は努力の日々――。
「色々と力が及ばず、本当にふがいないことです。私を立ててくれている皆に申し訳ない思いでいっぱいで。それでも頑張らなければと、毎日自らを奮い立たせるいるんですが」
アルディナ様はか弱い笑みを浮かべた。
「そうやってひたすら前を向こうとするほどに――無性に、昔が懐かしくなってしまうことがあって。食事のこともその一つだったんです。ここでの食事はとても素晴らしくありがたいのですが、時々、実家で食べていた素朴な味を思い出します。ソティーニは、そんな私の思いを分かってくれて、ハルカさんの定食屋のお食事を運んでくれたのね」
優しい声音は、ソティーニさんに向けられたものだ。
ソティーニさんは相変わらず全く動かず控えていたが、微妙に頬が上気しているような気がする。ちょっと照れて拗ねたような表情だ、と感じるのは、私の勝手な思いこみでもあるまい。
「私は、お弁当の味にとても感激しました。美味しくて、懐かしい。心の奥底から温まるような、不思議な感覚になるんです。それでどうしてもお弁当のお礼を言いたくて、あなたをここに呼んでもらったのです」
なるほど、そういうわけだったのか。
私は密かに胸をなで下ろした。
多分、アルディナ様の言葉に嘘はない。こんな嘘をついたって、何の得にもなりはしないはずだ。私を元巫女と見抜いていて捕まえようというわけではなく、単純に、感謝の気持ちから定食屋の店員を招いてくれたというだけなのだ。
それにしても、アルディナ様が普通の町娘だったとは意外だ。
どうりで、私が巫女の当時にアルディナ様の存在を知らなかったわけだ。身分のある有力な神官であれば、挨拶か何かで一度は目にしていてもおかしくない。私の知らない、日の当らぬところで、アルディナ様はしっかりと階段を駆け上っていた。そしてついに――神官の頂点とも言える、国の巫女となったのだ。元の世界の言葉で言うなら、アメリカンドリームというやつだろうか。ちょっと違うかな。
アルディナ様の身の上話を聞いていて、私は断然彼女に肩入れしたくなった。
今までと違う世界に連れて来られ、日々孤独の中、それでも後戻りのできない状況を私は知っている。周りの人達は、巫女としての自分を持ち上げるばかりで、本当の「私」を見てはくれないのだ。誰にも理解してもらえない不安と焦燥、それはずっと心の中にくすぶり続ける。
アルディナ様も、きっと同じ思いで日々を過ごしているのではないだろうか。
それでも全力を尽くしたい、そう言いきったアルディナ様は凄い。
だって、私にはできなかった。
いつも逃げ道を探して、そのくせ逃げ出すこともできなくて、言われるがまま、目の前のことをこなすだけで精一杯だった毎日を思い出す。
(私も、アルディナ様のために何かできればいいのに)
強くそう感じたが、私が彼女の支えになれるはずもないのは明らかだった。
むしろ、私の存在はアルディナ様にとっては害悪にしかならない。私が元巫女だということが周囲に知れれば、まずい立場に追いやられるのはアルディナ様だという。私にはもう以前のような「力」は全く残っていないけれど、きっと周りはそうは思わない。アルディナ様を巫女の座から引きずり降ろし、代わりに私を――。
(アルディナ様は、頑張ろうとしているのに)
足を引っ張ることだけはしたくない。
私に唯一できることがあるとすれば、それはさっさとこの世界から消え去ることだけだ。
(ああ、そうか、それに)
巫女の孤独――それを癒してくれる人が、アルディナ様にはちゃんといる。
彼女のために、お嬢様ながら庶民の食事を用意してあげたソティーニさん。どうでもいい人相手に、そんなことはできないはずだ。それに、他の付き人達とも、アルディナ様はうまく関係を築いているのかもしれない。
そして、もう一人。
「――アルディナ様、入ります」
突如、部屋の朗らかな空気を突き破るような、鋭い男の声が私達の間に割って入った。
アルディナ様の返事も待たず、乱暴に扉が開かれる。
入って来たのは、アルディナ様の護衛騎士であるノエルだった。