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旅人と少女(上)

 この靴もそろそろ駄目になりそうだな、エジンはふとそんなことを考えた。
 考えながらも足だけは規則正しく動かし続ける。ざく、ざく、と土を踏みしめる乾いた音が、頭の中に響き渡った。
 駄目になりそうなのは靴ばかりではない。身を包む外套やら背中に負った大きな鞄やら、護身用の剣をしまう鞘袋やら……つまりは全てがぼろぼろだった。流れ者の宿命というやつだ、いつも小奇麗な格好をしているわけにはいかない。
 風のせいで顔に張り付いた髪を払いながら、エジンは久しぶりに顔を上げた。なだらかな丘があと二つ続いている。その向こうには、小さな村。木々の間に点在する家々は、おそらく五十もないだろう。そのうちの一つの煙突から、煙がもくもくと上っている。これ以上ないほど牧歌的な風景だった。
 それにしても随分辺鄙(へんぴ)なところにある村だ。エジンはぼんやり村を眺めながらそう思った。最後に出た町からここまで来るのに、馬を使っても一日では辿り着けまい。それほどの距離を己の足だけで歩いてきたのだから、そろそろ休憩を取ってやらねばこの身体が参ってしまいそうだ。だが、あの小さな村に旅人を迎え入れる余裕があるのかは疑問だった。宿の一つさえ無さそうだ。
(そうしたら、またしばらくは村の側で野宿だな)
 今が春でよかった。真冬なら途中で野垂れ死んでいたかもしれない。
 取りとめのないことを考えながらも、やはり足は止めなかった。よく鍛えられたこの足があれば、丘二つなど平地を歩くに等しい。
「おじさーん」
 丘と丘の間に生えている大きな寿露の樹を通り過ぎようとした時だ。不意に空から若い娘の声が降り注いだ。
 エジンは多少面食らって顔を上げる。木の天辺から手を振る人影が見えた。
「おじさん、旅の人ー?」
「そうだよ」
 どうやら子供が木に登って遊んでいるらしい。随分高い木なのに危ないな、エジンはそう思いながら返事を投げた。
「そう、私達の村にいらっしゃい。これ、歓迎の贈り物。あげる!」
 木から赤い実がばらばらと落ちてくる。いくつかは受け止めたが、ほとんどはエジンの頭を小突いて地面に転がった。
「あはは、ごめんねー」
 鈴の鳴るような少女の笑い声。エジンは無事受け止めた寿露の実に噛り付いた。わずかな酸味と程よい甘さが口の中にじんわりと広がっていく。
「君、大丈夫? そこから一人で降りられるの?」
 二つ目を頬張りながら、エジンは再び木を見上げた。
「平気だよ、いつも上り下りしてるから」
 それを証明するつもりなのか、少女はするすると木を降りてきた。まるで猿のようだとエジンは思ったが、仮にも相手は女の子なのでそれは黙っておいた。
 とん、と軽い音を立てて少女が地面に降り立った。エジンと目を合わせ、にっこりと微笑む。
「あら、おじさんだと思ったらまだお兄さんだったんだね。上からだとよく見えなかった。ごめんね」
 エジンは気にしないという風に首を振った。かくいうエジンも、少女が思ったほど子供でない――十五、六だろうか――と気づいて密かに驚いていたのだが、それもわざわざ口にすることではないだろう。
「私、カナデ。すぐそこのソマリ村に住んでるの。よろしくね」
「僕はエジン。あてもなく各地を旅して回ってる。よろしく」
「孤高の旅人ってわけだね」
 そういう格好いい言い方もあるんだな、とエジンは苦笑した。
「よかったら、村を案内してあげる! うちの村、寄っていくんでしょ?」
「そのつもりだったんだけど、宿ってあるのかな」
 カナデはかくんと首を傾げた。
「ない」
「……ない、かぁ」
「でも村長の家に泊まればいいよ。きっと何泊でも歓迎だよ! だって、他所の人がうちの村に来ることってあんまりないし」
 屈託なくカナデは笑う。そのまま歩き出したカナデに続いて、エジンもなんとなく歩みを再開した。
「……両隣の国から、人が来ることはないの?」
「今はほとんどないよ。だって、こんな時期だしねえ」
 こんな時期、というのは、聞くまでもなくシノ国とユキフ国の冷戦のことだろう。今エジンたちのいるこのイェソマリ国を挟んだ両国が、非常に険悪な間柄になっている。いつ大戦争が起こってもおかしくない、一触即発の状態なのである。
 確かにそんな両国に挟まれているこの国へわざわざ足を運ぶ人間などそういないだろう。一たび戦争が始まれば、この小さな国は戦場になるといっても過言ではない。
「エジンさんも、あんまり長くここにいない方がいいかもね。そりゃあもちろん、個人的にはいつまでいてくれてもいいんだけどさ、戦争が始まっちゃったら大変でしょ」
 この少女は、「戦争」という言葉の意味を知っているのかと確認したい程に呑気な様子である。
「あ、でも安心してね。今はとびきり平和だから。まだもう少し大丈夫だろうって、ノムルが言ってるしね」
「ノムル?」
「村長の、息子さん」
 カナデは満面の笑みで振り返った。

 ソマリの村は、遠くから眺めたときと同じように至ってのどかで穏やかな所だった。
 道も舗装されておらず、柔らかい土を踏みしめる感触はこれまでの旅の過程と変わらない。家々も無作為に点在しており、広い土地にそれぞれが思うままに家を建てたのだろうと思われた。家と家の間は、近すぎず遠すぎず。窓越しに会話をできるほど近くはないが、気楽に戸を叩ける程度の程よい距離感があった。
 家畜の姿はあまり見えない。村長宅までの案内を買って出てくれたカナデに聞けば、もう一つ丘を越えたところに家畜用の土地を大きく囲っているのだという。代わりに犬や猫は繋がれることなく自由気ままに駆け回っていた。
「びっくりしたでしょ。本当に何もない村で」
 カナデは目だけをエジンに向けてそう尋ねた。言葉とは裏腹に、村を恥じているような様子は見られない。
「いや、色んなところを旅しているから、こういう村はいくつか訪れたことがあるよ。ただ、これほど隣村と離れたところにある村っていうのは珍しいかな」
「そっか。大変だったね、ここまで来るの」
「でもまあ、野宿は慣れてるから」
「今晩は安心してね。ふかふかとは言えないかもしれないけどけど、ちゃんとベッドを用意してもらうから」
 カナデはにっこり笑った。その裏表のない笑顔は彼女をますます若く感じさせる。十五、六だと思ったが、もしかしたらもっと歳若いのかもしれないとエジンは思った。そんなエジンの胸のうちを知ってか知らずか、カナデは落ちていた棒を拾って振り回し始めた。
「カナデ! あんたまた仕事放って遊びに行ったでしょ!」
 その時、突然鋭い声が飛んできた。カナデによって空に円を描いていた枝がピタリと止まる。
「……あー、ルヴァ」
 気まずそうに振り向くカナデに倣いエジンも視線を動かすと、両手で篭を抱えた髪の長い少女が怒ったように歩み寄ってくるのが目に入った。
「馬をちょっと走らせてって言っておいたじゃない。あの子達、あんたじゃないとなかなか言うこと聞かないんだから」
 ルヴァと呼ばれた少女はそこで一呼吸置き、胡散臭そうにエジンを見ると、再び真っ直ぐカナデを見すえた。
「隣の人、誰」
「エジンさん。旅人だって」
「またぁ? なんだってこんな時期に」
 遠慮する様子もなくルヴァは顔をしかめる。どうやら彼女にとってエジンは歓迎できる存在ではないらしい。だがそれよりも、エジンはルヴァの「また」という言葉が気にかかった。
「エジンさんは各地を当てもなく旅してるらしいよ。詳しいことは、一旦落ち着いてから聞くことにしよう、ねっ。これから村長のところに案内するつもり。馬はまた今度ちゃんと走らせとくからさ」
「あんたの今度って、全然信用できない」
 溜息と共にそう言って、ルヴァは去って行った。しばらくその後姿を見送ってから、カナデは肩をすくめて笑う。
「ルヴァって美少女なのに気が強いんだ〜」
「ところでさ、僕のほかにも誰か他所の人が滞在してるの?」
 そう尋ねると、カナデの笑顔が初めて曇った。少しためらうように沈黙してから、小さく頷く。
「一人、男の人が。お忍びで来てるみたいだから、あんまり大っぴらには言えないんだけどね。まあこんな小さな村じゃ大っぴらも何もないと思ってたんだけど……」
 エジンさんにはどうすればいいのかな? とカナデは首をかしげた。
「僕が言うのも何だけど、確かにこの時期に珍しいね。僕と同じような旅人なのかな」
「うーん」
 きゅっと唇を結んで再び黙り込む。
「オルト卿ってさ、知ってる?」
「オルト卿?」
 もちろんエジンもその名前は知っていた。現在冷戦中のシノ国とユキフ国、両国が未だ実際に刃を交えることなく小康状態をどうにか保っているのは、このオルト卿の存在が大きいとされている。シノ国の有力な政治家である彼が、大々的に反戦を唱えているのだ。ほとんど開戦に傾きかけた国勢の中一人踏ん張っているその姿は、近隣諸国にまで大きな印象を与えていた。
「彼がね、来てるんだ」
 エジンが眉をひそめると、カナデは慌てたように言い繕った。
「嘘じゃないよ。シノ国で反戦の声を上げ続けるのがあまりに厳しい状況になったんだって。暗殺者に命を狙われたりとか、そういうのが色々あって亡命してきたそうなの。今後はとりあえずユキフ国へ逃れて、そこからまた別の国へ行く予定みたい」
 大変だよねえ、とカナデはあまり大変そうな様子もなくそう言った。
「そんな有名な人が、一人きりで?」
「途中まではお付きの人も何人か一緒だったらしいけど。その人たちがどうなったのかは……聞いてない」
 エジンとカナデは共に口を閉じた。何とも言えぬ重い空気が二人を取り巻く。
「ごめんなさい。なんだか、怖い話しちゃって」
 カナデが取り繕うように明るい声を上げた。エジンが微笑んで首を振ると、足を止めていた二人は再び歩き出す。その時、見計らっていたかのようなタイミングで前から別の男の声が飛んできた。
「おーい、カナデ!」
 見ると、緩やかな上り坂の向こうに大きな家が建っている。小さな村だからかどの家もゆったりと構えていたが、前方に見えるのはその中でも一際立派なものだった。家の玄関近くに立っている男性が、こちらに向かって手を挙げている。
「あの人がノムル。村長の息子さんだよ」
 彼はカナデに向かって手を挙げていたが、視線はエジンを捉えているようだ。エジンは被っていた帽子を軽く上げて挨拶に代えた。

「はーい、お茶どうぞ」
 村長宅の居間に落ち着いたエジンは、失礼にならないよう部屋の中を見渡した。ちょうどそこへ、勝手知ったるなんとやらという調子でカナデが茶を出してくれたのだ。
「ありがとう」
 茶に口を付けると、素朴な味が広がった。久しぶりにほっと一心地がつく。
「全く、客人がいらっしゃったらすぐにここへご案内しなさい。お前の話はいつも長いからな、旅でお疲れのところをますます疲れさせてどうする」
 ノムルの苦言に、カナデは全く堪えた様子がない。
 エジンの向かいに腰かけたノムルは、見たところ二十そこそこの若者だ。洗練された顔立ちで、大きな都で颯爽と歩いていく様が似合いそうに見える。都会へ出ればさぞかしもてることだろうなとエジンは思った。いや、この村でも引く手あまたかもしれない。
「エジンさん、私の相手ってそんなに疲れる? そんなことないよねぇ」
「馬鹿、相手を困らせるような質問をするな。第一お前、馬の世話はどうした?」
「ちゃんとやるよ、後で」
 カナデは口を尖らせ、エジンの背中に回りこんだ。
「ノムルはうるさいんだから、もう」
 そんな二人の様子は、なんだか微笑ましい。
「君らは、兄妹?」
 何気なくそう尋ねたが、向かいのノムルはあっけなく首を振った。
「違います。まあ、似たようなものですが。この村では同じ年頃の者は皆幼馴染みなんです」
「こぉーんな口うるさい兄がいたら大変だよ」
「もういいから、お前は黙ってろ」
 ノムルは気を取り直したようにエジンに向き直った。
「騒がしくてすみません。……それでエジンさん、あなたは各地を回って旅をしていらっしゃるとか?」
「ええ。シノ国を回って、ちょうどこちらへ寄ったんです。できれば数日この村に滞在させていただければ嬉しいんですが」
「それは構いませんよ。ただ客人がいらっしゃることに不慣れな村ですから、色々とご不便をおかけするかもしれません。まずもって、宿すらないような村なもので」
「宿のことなら、ここに泊めてあげればいいでしょ? 部屋だってたくさんあるじゃない」
 カナデが口を挟んだが、ノムルは一睨みしただけで話を続けた。
「もちろんエジンさんがよろしければこちらは何泊でも。ただ、今はちょうど他にも旅の方がいらっしゃいましてね。時折顔を合わせることもあるかもしれませんが――」
 オルト卿のことか、とエジンはすぐに見当をつけた。
 ちょうどその時、ぎしぎしと側の階段が鈍い音を立て人が降りてくるのが見えた。細身の身体に、少し猫背気味の男性。中年とまではいくまいが、それなりの歳ではありそうだ。
 彼は、ダイニングに集まる面々を見てぎくりと身体を強張らせた。階段を降りる音がぴたりと止む。見慣れぬ顔があるからだろう、エジンを怪訝な表情でじっと見つめた。
「ちょうど良かった、ご紹介しましょう」
 ノムルが立ち上がり、階段の途中で佇む男性とエジンを交互に見やった。
「こちら、イルマンさん。数日前からこの村に滞在されています」
「……」
 イルマンと紹介された男性は、まだ黙ったままその場に佇んでいる。
 オルト卿ではなかったのかと思いはしたものの、エジンもわざわざ確認する気は起きなかった。もとより本名を名乗る気などないに決まっている。
「それで、こちらはエジンさん。今日からイルマンさんと同じく我が家に泊まっていただくことになりました。お二人とも、旅の方だそうで」
「どうも」
 エジンが軽く頭を下げると、それで呪縛が解けたかのようにイルマンは階段を下りてきた。
「旅? こんな時期に、奇妙な」
 自分のことを棚に上げて、そんなことを言う。
「いや、私はもう何年も、一所には留まらず色々な土地を訪ね歩いているんです。まあ、この時期にこの地方へ足を踏み入れてしまったのは流石にまずかったかなと思っていますが。そういうイルマンさんは?」
「……私は、ある事情があってユキフ国へ向かう途中なのだ」
「それじゃ大変でしょうね。シノからユキフへの出入りは、今は相当厳しいでしょう」
「あれ? エジンさんは? シノ国から来たって言ってたから、この後はユキフ国へ行くんだよね。ちゃんと入れるの?」
 カナデが不思議そうに口を挟んだ。エジンは頷きながら、これまで旅の供である鞄から一冊の手帳を取り出してみせる。
「これ、出入国帳。今まで行った国の出入の記録が残ってるんだ。これがあれば、僕が根無し草の単なる旅人だって証明してくれる。だから割とどこへでも行けるんだよ」
 手帳を受け取ったカナデは興味深そうにページをめくった。たくさんの日付と、色とりどりのサイン。ページはほとんど埋まっている。
「すごーい、こんなにいろんな国に行ってるんだ!」
 遠巻きにそれを見ていたイルマンは、明らかにほっとした様子でテーブルに近づいてきた。
「では君はすぐにこの村を発つのか?」
「そうですね、数日はお世話になろうかと思っていますが。まあ、遅くとも三、四日のうちには」
「イルマンさんは災難ですね。この村からユキフ国への入国許可を申請しているんですが、なかなか許可が下りないんです。それでこんな辺鄙な村に閉じ込めることになってしまって」
 ノムルが申し訳なさそうに言った。その言葉を受けたイルマンは憮然とした表情になる。
「行ってみればどうにでもなると思うのだが」
「いけませんよ、それで駄目ならまたこの村に戻ってくるしかない。馬を走らせても往復では一日以上かかります。それくらいなら、きちんと許可が下りてから発った方がいい」
 真面目なノムルに対して、カナデはどこまでも気楽な様子で笑顔を見せる。
「そうですよ。それにたまには、こういう田舎の村でのんびりして癒されていってください。エジンさんもね。今は時期が時期だけど、エジンさん達さえよければ急いで出て行かなくっていいんですよ」

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