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旅人と少女(中)

 その後部屋に案内され、荷物を一通り落ち着かせたエジンは、そのまま風呂まで入らせてもらった。ここ二日は川で頭を洗い身体を拭いただけだったから、まさに生き返る心地だ。気持ちが良くなって一人散策に出ると、まもなくカナデの姿を発見した。
 数人でなにやらはしゃいでいる。きゃいきゃいと騒ぐ子供達が、どうやらカナデを囲んでいるようだ。当のカナデは目隠しをしているらしく、ふらふらと危なげな足取りで歩き回っている。
(何をやっているんだ)
 エジンはなんとなくその様子を見守った。子供が声を上げると、カナデがそれを捕まえようと駆け寄っている。そしてあともう少しというところでうまく逃げられ、その両手が空を切るのだった。失敗するたびにカナデの喚く声がする。
(年齢はどうであれ、子供だな)
 エジンはくすりと笑った。彼女が何歳なのかと気にするのは無意味だと分かった。カナデはカナデ。それ以上、何を気にする必要もない。
 子供達の一人がエジンに気がついた。そのまま面白いいたずらを思いついたというように、はしゃぎ声を上げながらこちらへ近づいてくる。他の子供達もそれに倣った。
「待ちなさーい!」
 カナデのやる気に満ちた声が聞こえる。すぐに子供達に取り囲まれたエジンは、状況が飲み込めずにただその場で慌てるしかない。
「今度こそ捕まえるから!」
 おりゃー、と威勢のいい少女の声。はっとエジンが顔を上げたときには、目の前にカナデの両手が広がっていた。
「捕まえたっ!」
「うわっ」
 思い切り腰に抱きつかれて、エジンは思わずよろめいた。途端に子供達の嬉しそうな声が広がる。
「やっべー、カナデ大胆!」
「ラブシーンだ、ラブシーン!」
 なるほどこれを狙っていたのかとエジンは苦笑した。微妙におかしな事態に陥っていることに気づいたカナデは、恐る恐るというように顔を上げる。
「あれ、これ誰?」
 目隠しを外し、そして驚いたように固まった。
「ぎゃーっ、エジンさん! ごごごごめんなさいっ」
 真っ赤な顔で弾けるように飛び退いたカナデを、子供達がヒューヒューとはやし立てる。
「お兄さん、今度鬼やる? うまいことカナデ捕まえさせてあげるよ」
「もうっ、あんた達! 今日はもう遊んであげないっ。さっさと帰りなさーい!」
 子供達は蜘蛛の子を散らすように去っていった。残されたのはエジンとカナデの二人きり。カナデはまだ赤い顔のまま姿を消した子供達の方を眺めている。
「ほんっと、マセガキばっかり」
「この村には、子供も結構多いんだね」
「……うん。皆ね、若いうちに村を出て、外でお嫁さんとかお婿さん見つけて戻ってくるんだ。だから既婚者と子供は多いの」
「へえ。それじゃカナデやノムルさんみたいな若者は、あまり多くない?」
「うん。昔から仲良かった皆は、結構外に行っちゃったな。女の子は、それでも残ってる子もちょこちょこいるけどね。ほら、エジンさんが最初に会ったルヴァみたいに。でも男の子はホント少ないよ」
「それじゃノムルさんなんか、競争率激しそうだなあ。カナデも頑張らないと」
「頑張るって何!」
 拗ねたようにカナデは唇を尖らせた。
「ノムルさんって、若いのに落ち着いていて大人びてるし。格好いいしさ」
「……ノムルのお母さん、三年前に病気で亡くなってね。最近はお父さん、つまり村長も、病気がちなの。今も部屋で寝たきり状態。だからノムルは、自分がしっかりしなくちゃって考えてるんだと思う。大人びたフリしてるんだよ」
 それに、とカナデは隣のエジンを見上げた。
「私、ノムルよりもエジンさんの方が好みだなぁ。良かったらお嫁さんに貰ってよ」
 屈託なく笑う。先ほどまでエジンにしがみついて真っ赤になっていた少女とは思えない。カナデは本当に不思議な子だ。
「この村に定住か。それもいいかな」
「いいね、いいよ。ぜひそうして。ここ数年、もうすぐ戦争だ戦争だーって、両国に挟まれたうちの村に戻ってくる若い人、すごく減っちゃってるから。また昔みたいに活気ある村にしたいな」
 カナデは少し寂しそうな瞳で空を見上げた。
「でも、オルト卿がもうシノ国にいないなら、本当に戦争が始まっちゃうよね……」
 エジンも一緒になって空を見上げた。大きな雲がのんびりと青空を漂っている。
 その雲にも、答えなど書いていなかった。

 その夜、エジンは静まり返った家の階段をゆっくりと下りていった。気をつけてもぎしりと階段が鳴るので、せめてその音が家人を起こさないよう気をつける。ノムルは台所を好きに使っていいと言ってくれたから、水を一杯貰うつもりだった。
 喉を潤し、これからのことを考えたい。
 しかしノムルという若者は、カナデが評価していた以上に鋭く「大人びた」青年だったらしい。エジンが階下に下りていくのにすぐ気がついたようで、後を追って間もなく姿を現した。
「申し訳ない、起こしてしまったかな」
「いいえ、元々起きていたんです。お気になさらず。……何か飲み物を?」
「うん、水を一杯、と思って」
「よろしければ、酒もありますよ」
 いや結構、とエジンは断った。側のランプに火をつけるノムルを眺め、この青年が何のために起きてきたのかを考える。まさか飲み水の世話をするためだけに下りてきたわけではないだろう。
「エジンさんは、各地を回ってらっしゃるんですよね」
 ノムルは昼間と同じ質問を投げかけた。
「ですが、ただ旅をするだけでお金が入ってくることはない。何かを『生業』としていなければ」
 エジンはランプに照らし出された端整な横顔を黙って見つめる。
「もう一人の客人イルマンさんはもともと裕福な方なのでしょう、あなたが『本当に旅の方』と知っただけで安心され、どうやって旅の資金を捻出していらっしゃるか不思議には思われなかったようですが」
 ノムルはグラスに氷を落とし、水の入った樽のコックを捻った。トクトクと水の流れる音が薄暗がりに小さく響く。
「――彼をこれ以上この村に留め置くことは難しい。何だかんだと理由をつけて引き止めてきましたが、そろそろ彼の我慢も限界でしょう」
 どうかよろしくお願いします、とノムルは囁いた。
 たっぷりと水の入ったグラスを受け取り、エジンはしっかり頷いた。

 その翌日も平和に過ぎた。
 もうすぐ戦争が始まるかも知れないなどとは微塵も感じられない、穏やかな一日だ。
 昼過ぎ、エジンは村を散歩するついでに日当たりのよい小さな窪地を見つけ、そこを我が陣地と決め込んだ。ちょうど低木の陰になっているので人目にもつかないし、うまい具合に柔らかな草が生えているので居心地もいい。
 そこへ横になってうとうとしていると、いつの間にやって来たのか、少女達の囁き声が耳に飛び込んできた。
「カナデ、昨日来た旅の人はどこ?」
「さあ、分かんない」
 どうやらカナデとその友人達らしい。低木が茂っているお陰でエジンには気がついていないようだ。それにしてもどこへ行ってもカナデと鉢合わせるなとエジンは半分眠りながら思うのだった。
「分かんないって、カナデが連れてきたんでしょ?」
「そうよ、ちゃんと居場所くらい把握しておいてよ」
「うーん、ごめん」
 二対一。カナデが劣勢だな、とエジンは微かに笑った。
「でもさあ、こんな時期に二人も旅人が来るなんて絶対おかしいわ」
「そりゃあ、珍しいけど」
「何か裏があるわね、きっと」
「裏って何?」
「それが分からないから裏なんじゃない。とにかく、見張っておかなきゃ駄目」
「ご、ごめん」
「でも昨日の旅人はまあ許す。若いし。問題はもう一人のオヤジの方よ。何をするでもなくノムルさん家に住み着いちゃってさ。いつまでいる気なのかしら」
「オヤジには厳しいのね、ハーサ。なに、昨日の旅人気に入った?」
「別に気に入ったって訳じゃないわ。素性も何も知れたもんじゃないし。ノムルさんの方がよっぽど素敵」
「エジンさん、いい人そうだよ」
「馬鹿ねぇカナデ。見るからに悪そうな悪人なんてそういないの」
 カナデが擁護してくれるのはありがたいが、どう考えても逆転できそうな状況ではない。それにしても、こうした平和な村の若い娘さんとはいえ、考えがしっかりしているものだとエジンは妙なところで感心した。
 それから更に昼寝を続けていると、気がつけばとっぷりと日が暮れていた。

 わざわざ取り置いてくれた夜食をありがたく頂いて、エジンはベッドに横になる。
 あてがわれた部屋の窓から村を眺め、灯りが一つまた一つと消えていくのを確認した。――まもなく村は眠りにつく。
(もう少しだ)
 このソマリ村は本当にいい村だ。シノ国とユキフ国という大国に挟まれているというのに、不思議なほどの開放感がある。この土地がいつか戦争に巻き込まれてしまうかもしれない。それを思うと少し憂鬱になった。
(さあ、もう少しだ)
 また一つ、村の灯りが消えた。村に残る灯りはもはや数えるほどである。もうしばらくすれば、それすらも消え去り、村は完全な暗闇に包まれることだろう。
(――そろそろ動くか)
 エジンはベッドからそっと抜け出した。外套を羽織り、ゆっくりと慎重に部屋の扉を開ける。暗い廊下は月明かりによって微かに道筋を照らし出されているばかりだ。エジンはその明かりの伸びる方へ進んでいった。階段を、今晩は音を立てぬようにして降りる。エジンに気づいて起きてくる者はいない。
 そのまま家を出て、裏手に回った。草を踏みしめながらゆるやかな下り坂を下りていくと、すぐに小さな馬小屋が見えた。
 そこに、細い人影がある。
「こんな時間に、何をしているんです?」
 穏やかな声で話しかけると、影は飛び上がらんばかりに肩を揺らした。同時に息を呑む音が闇に吸い込まれる。
「イルマンさん――でしたっけ」
「お、お前は」
 ちょうど馬小屋から姿を現したのは、旅の姿をしたイルマンだった。一頭の馬を引きずるように連れ出して、その背に荷物をくくり付けている。自身はすっかり身支度を整えていて、これから一日でも二日でも馬を飛ばしていけるという様子だ。
「これから出立ですか? また変わった時間に」
 ちっ、とイルマンは低く舌打ちをした。
「私も好きで闇夜に紛れて出立するのではない。だが、日のあるうちに出ようとすれば、あのノムルという若者が私を引き止めるのだ。もうこれ以上私には時間がない」
「なぜそれほど急がれるんです」
「それをお前に告げる必要はあるまい」
 確かに、とエジンは笑った。
「では尋ねません。ただ逆に、僕の話を少し聞いてもらえますか」
 エジンは呑気ともいえる穏やかな声で口を開く。
「――シノ国に立ち寄ったときにね、ある噂を聞いたんです。今をときめくオルト卿の噂ですよ」
 見る見るうちにイルマンの表情が変わった。闇夜だから分からないが、陽があればその顔が青ざめているか、もしくは真っ赤に染まっているのが分かっただろう。
「シノ国とユキフ国で戦争が始まろうとしているこのご時世、オルト卿だけは開戦に異を唱えていましたよね。外にも内にも敵を作って、それでも己の信念を曲げようとはしなかった。戦争が生み出すのは苦しみと空しさだけだと常々彼は叫んでいたのです」
 たった一人きりの、孤独な『戦争』。彼自身苦しみと空しさに苛まされていただろう。
「だが、所詮は多勢に無勢。やがて彼は反戦論を唱えるのにも命がけという状況に追い込まれていきます。国のためを思って活動してきた彼は、その国の差し金によって、暗殺者にすら狙われるようになってしまう。それが国の答えなのかと、彼は絶望に打ちひしがれました。この国はあまりに愚か、そして残酷。もうこれ以上はと悟った彼は、国を捨てる道を選んだそうです。国を捨て、よりによって敵(かたき)となるユキフ国へ、彼は亡命した」
「……見てきたように言うんだな」
 イルマンは口の端を上げて笑った。
「愛国精神に溢れたはずの政治家が敵国へ亡命したと知って、どう思う」
「それはもちろん、皆裏切られたと思うでしょう。他のどの国でもない、ユキフ国への亡命だ。受け入れてもらえる当てがあればこそ向かったのでしょうから、きっとユキフ国と彼の間で何らかの取引があったと考えて当然です」
「売国奴、裏切り者か」
「そうです」
 イルマンはどこか満足そうに天を仰いだ。
「仕方がない。――私はもう、我が国に愛想を尽かしたのだ。どれだけ尽くしても応えてはくれない。それどころか、恩を仇で返される始末。だから私は国に復讐をしようと決めたのだ。私を――ユキフ国へ行かせてくれ。そこで私は新たな人生を歩み直す」
「イルマンさん」
 エジンは取り合わず、なお穏やかに話を続けた。
「僕はもう一つ、オルト卿の別の噂も聞いています」
 イルマンは眉をひそめた。筋書きを知っている芝居を見ていると、途中からまるで違う展開が始まってしまったという顔である。その顔に再び緊張が走った。
「オルト卿が開戦に異を唱え続けたというのは紛れもない事実。彼は周りが敵だらけになっても決して屈することはなかった。最初から、そして――最後まで」
 エジンは語尾を強め、言い切った。
「諦めて敵国に亡命したなど、嘘だ。彼はどうしても屈することができなかったのですよ。なぜなら、利益ばかりを追求する他の政治家達とは異なり、民だけは彼の味方と知っていたからです。城内では多勢に無勢と知っていても、やがて自らの命が狙われるようになった時でも、彼は決して反戦の声を途絶えさせなかった。最後まで――そう、暗殺者の手にかかる、その最期の時まで」
 しん、と場が静まり返った。馬小屋の馬たちが身じろぎする音が微かに聞こえたが、それはイルマンの耳には届かなかっただろう。
「その噂によると、オルト卿は無残にも殺されてしまいました。暗殺者は彼の側近の男だったために、油断してしまったのだろうということです。その元側近は、オルト卿の遺体をうまく処理すると、今度は自らがオルト卿を名乗り、シノ国から出奔しました。それがユキフ国との約束だったからです。オルト卿が敵国へ寝返った、その事実がユキフ国は欲しかった。そうして邪魔者を消し、人心を惑わせ、さっさと開戦に持ち込みたかったのでしょう」
「な、なんの話をしているんだ、お前は」
「オルト卿を暗殺し、その名を騙って敵国へ亡命しようとしている男の話ですよ」
 イルマンが右足で土を踏みしめた。と思ったときには、懐から小さな剣を取り出し風のような速さでエジンに詰め寄ってきた。
 エジンは落ち着いて対応する。同じく懐に潜ませていた短剣とイルマンが突き出した刃のぶつかる乾いた音が虚空に響いた。そのまま押し飛ばすように力を込めて懐から剣を抜き去ると、エジンは剣を脇に構えて鋭く突き出す。思いのほか身軽なイルマンは、身をよじってそれを避けた。そのタイミングで短剣を投げつけてきたが、エジンはそれも叩き落とす。
 だがイルマンは、やけになって剣を投げたわけではなかった。エジンが飛んできた剣に注意を向けた隙に、ひらりと馬に飛び乗ったのである。強く手綱を引くと、馬が大きくいなないた。
「こんなところで捕まってたまるか! どれだけ大変な思いをしてオルト卿をこの手にかけ身を偽り国を出てきたと思っている。絶対に屈しはせん!」
 イルマンに腹を蹴られ、馬が驚いたように身をよじる。その驚きのまま馬が地を蹴り、駆け出した。
「待てっ」
 エジンは舌打ちをし、後を追おうとすぐさま周囲に視線を巡らせた。馬小屋には他にも馬が数頭いるが、綱でしっかり繋がれているため外している間に見失う。――それならば。
 イルマンを乗せた馬の足を止めるほかないと、エジンはすぐに判断した。躊躇ったのはほんの一瞬で、足元に転がった短剣を素早く拾い上げ、暗闇の中全神経を集中させて馬の足に狙いを定める。
(痛い思いをさせるが、許してくれ)
 ぐっ、と短剣を構える指先に力を入れた瞬間。
 鳥の鳴き声のような、甲高い、澄んだ音が辺りに響き渡った。

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