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旅人と少女(下)

「オルー、止まりなさい!」
 続いてよく通る少女の声。何事かと思う間に、前方でイルマンの悲鳴が上がった。小さくなりかけていた馬の影がその場に止(とど)まり、上体を持ち上げ背に乗っていたイルマンを振り落としたのだ。
 エジンは突如現れた声の主を確認するより先に、一直線にイルマンの元へ向かった。往生際の悪いイルマンが更に逃げ出そうと立ち上がった足をすくい、転倒したところを馬乗りになる。なお暴れるイルマンの右腕を取って背中の方へねじり上げると、小さなうめき声と共にやっとイルマンは静かになった。
「エジンさん、大丈夫?」
 声を掛けられ顔だけで振り返ると、場の緊迫した雰囲気にどこか似合わないカナデがちょうどこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「カナデ、ありがとう。助かった」
「ううん、私、何もできなくて……」
 カナデは少し申し訳なさそうにそう言うと、エジンたちの側で足を踏み鳴らしていた馬へ近寄り、「怖かったね」と声をかけて首筋を丹念に撫で始めた。途端に馬は落ち着いた表情になる。
「よく懐いてるんだな」
「うん。この子達、ほとんど私が面倒見てるからね。逆に他の人のいうことはあまり聞かなくて困ってるくらい」
 そういえば、と、エジンはここへ来た初日に彼女の友人が同じようなことを言っていたのを思い出した。今はそれが大いに役立ったことになる。
 カナデはわずかに揺れる瞳でエジンの下敷きになったイルマンを見下ろした。
「……あなた、オルト卿じゃなかったんだね」
「くそ、くそっ」
「あなたがオルト卿を殺したんだ」
「黙れ、小娘!」
「黙るのはあんただろう」
 エジンが再び腕を強く絞ると、イルマンは悔しげに歯を食いしばった。
「カナデ、先にノムルさんのところへ行ってくれないか。これから僕もイルマンを連れてノムルさんのところへ行くつもりだから。夜更けに申し訳ないがもう少しだけ付き合ってくれ」
 カナデは真剣な眼差しでしっかりと頷いた。

 村長の家では、ノムルが初めから分かっていたというようにエジン達を受け入れてくれた。いや、実際に分かっていたのだろう。ノムルは早くユキフ国へ向かいたがったイルマンを意図的にこの村に引き止めていた。そのお陰でエジンもこんなに早くイルマンに追いつくことができたのだ。
 今、イルマンは村長宅の地下貯蔵庫で厳重に監視されている。エジンがシノ国へ飛ばした伝書鳩により、数日中にはシノ国へ引き渡されることになるだろう。
「本当にお疲れ様」
 カナデが明るい笑顔で茶を用意してくれた。もう真夜中を回っているが、この状況で何事もなかったかのように眠れるわけはなく、カナデやノムル、エジンはごく自然に席に着いていた。
「あったかいお茶飲んで、お菓子食べて、少し落ち着こう」
「お菓子はお前が食べたいだけだろう」
 呆れたようにノムルが言ったが、カナデは気にする様子もなく焼き菓子にかぶりついている。そんな二人の穏やかなやりとりを見ていると、今しがたの出来事は夢だったのではないかとさえ思えてしまう。
「それでさ、結局エジンさんって何者なの? 私未だによく分かってないんだ」
 もごもごと焼き菓子ごと口を動かしているせいでうまく聞き取れなかったが、おそらくカナデはそう言った。
「エジンさんの立場も考えず直球で聞くな」
 ノムルが諌める横で、エジンは笑う。
「別に構わないよ。二人にはすごく助けてもらったしね」
「エジンさん、シノ国の警察の人なの?」
「まあ、そんなものなのかな」
「もっと突きつめて言えば、スパイみたいな?」
「分かってるじゃないか」
 カナデも決して馬鹿ではない。ほわんとしているようでその実色々と考えている少女であることは、短い付き合いながらも何となく察していた。
「ただ、実際のところはほとんどただの旅人もいいところだよ。いろんな土地を回って、気になることがあれば伝書鳩で契約者――上司のような人に、報告する。時々は契約者の方から連絡を寄こしてくるから、依頼された事項を処理する。今回みたいに表立って動きづらいことに関して、よく頼まれごとがあるね」
「へええ、カッコイイ」
 キラキラと瞳を輝かせるカナデに、エジンは苦笑する。華やかとは程遠いこの仕事は決して憧れられるようなものではない。それに、今回ほど様々な意味で“重い”仕事というのもそうそうなかった。オルト卿が暗殺された、と、その一文を目にしたときの大きな衝撃。その暗殺者を捕縛せよという依頼が果たせるか否か、それによって確実に世情は変わっていっただろう。暗殺者イルマンを捕えた今――二国の関係はどのように変わっていくのだろうか。
「でも、僕も驚いた。あの場面でカナデが馬を止めてくれるなんてね」
「へへへ」
「へへへ、じゃない。俺も死ぬほど驚いたぞ。なんでお前があんな時間にあんな場所にいたんだよ。俺は、お前には何も話してなかったはずだろ」
 ノムルは殊更真剣な表情でカナデに詰め寄った。
「ここ最近、ノムルの様子がおかしいことにはすぐに気づいたよ。イルマンさんに対して異様に気を使ってるっていうか、気を張り詰めてるっていうか。事情はよく分からないけど何かあるんだろうなとは思ってた。それで、後を追うようにエジンさんもやって来て、ますます事態がおかしくなったでしょう。二人のこと、私は私なりに気にしてたんだよ」
 ぐ、と言葉に詰まるノムル。どうやら彼は幼馴染のことを過小評価していたようだ。
「それじゃあカナデは、僕のことも初めから怪しい奴だと思ってたんだな。前に友達に『いい人そうだ』って言ってくれてたけど、実際はカナデが一番僕のことを胡散臭いと……」
 からかうようにエジンが口を挟むと、カナデは真っ赤になって首を振った。手の中の焼き菓子をむやみに細かく砕いている。
「な、なんで友達とのこと知ってるの? でも本当に、エジンさんのことはいい人だって思ってたよ。怪しいと思ったから気にしてたんじゃなくて、その、どんな事情があるのかなぁっていう好奇心で」
「好奇心で危ない話に首を突っ込むな!」
 ノムルの叱咤が飛んできて、カナデは小さく首をすくめた。
「なによぉ、私だって役に立てたんだからいいじゃない」
「まったく……」
「それにしても、ノムルはどこまで知っていたんだ? イルマンのことも僕のことも、ほとんど察していたようだけど」
 エジンが一番驚いているのはそのことだ。いくら頭の回転が速い青年とはいえ、突如現れたオルト卿を名乗る男が実は偽者で、本人を暗殺して逃亡してきたなどとは普通考えまい。
「それは」
「――私がノムルに事前に伝えておいたのです」
 突如しわがれた男の声が居間に響いた。エジンが後ろを振り返ると、大きなガウンをまとった男がゆっくりと階段を下りてくるところだった。
「父さん!」
 ノムルがそう声をかけるのと同時に、カナデが立ち上がって男を支えに走った。ぐらぐらと揺れながら階段を下りるその姿は、カナデでなくとも手助けしたくなるほど危なっかしい。
「これまでご挨拶もせず、失礼しました」
 カナデの手を借りてやっと椅子に腰かけた男――村長は、深く頭を下げた。
「なにぶん、ここしばらく体調が優れぬもので。お許し願いたい」
「い、いえ。ご挨拶をするべきは私のほうでした。こちらこそ、お世話になりながら一度もお礼を申し上げず、本当に申し訳ありません」
 痩せこけてなお威厳を感じさせる村長の姿に、思わずエジンは立ち上がって頭を下げた。
「私の名はナナギ。もうご存知の通り、この村の村長をやっております。だがかつては私もシノ国に住んでおりましてね。オルト卿とは、その時の知り合いだったのです。私達は――互いに信頼を寄せ合う友人同士でした」
 エジンには思いもよらなかった話を、ナナギはゆっくりと語り始めた。
 その声はしわがれていながらも聞き心地がよく、話すのに任せていつまでも聞いていたくなるような、不思議な感覚を呼び起こす。
「私はその時、シノ国でとある要職に就く身でした。それなりに大きな家を持ち、重要な仕事を任され、今は亡くなった妻との間に子供もできて。とても順調な毎日を過ごしていました」
 不安など何もない。今もこれから先も、変わらず充実した日々を過ごしていくのだと、心からそう信じていた。
 しかし、不幸は突然降りかかる。
 ナナギの上司が仕事で不正をしでかしていたことが判明したのだ。それも、何年にも渡る長い間。それを発見したのは部下であるナナギだった。
 ナナギは上司を問いつめた。これはどういうことなのか、不正を行っているという認識はあるのか。熱く真っ直ぐなナナギは、相手が上司であろうとまるで遠慮を見せなかった。不正は不正、それは正さねばならないのだと、純粋にそれだけを考えていたのだ。
 上司は真っ青になりながらも不正を認めた。確かにお前の言うとおりだ、このままで済むとは思っていない。――だが、まだ誰にも言わないで欲しい。
 どういう意味かと問いつめると、上司は言った。この件を自ら公にし、全てを元に戻し、罪を償い悔い改めたい。そのチャンスを与えて欲しいのだ。身勝手なことを言っているのは分かっている、だが私にも家族がいるのだ、せめて自分の身を自分で正す機会を!
 子供が生まれたばかりのナナギにとって、この言葉は強い力を発揮した。部下から不正を指摘され、周りの冷たい視線にさらされ、職を退く。それでは本人だけでなく家族も様々な中傷を受けることになるだろう。だがせめて、本人自ら過去の過ちを告白し、真摯な態度で罰を受け入れようというのなら。少しは世間の風当たりも和らぐのではないか?
 そう思うとナナギはそれ以上強く言うことができなかった。分かりました、私は何も言わずただ見守るだけにしますから、どうかよろしくお願いします。そう言って、ナナギは身を引いた。
 それが全ての、過ちだった。
 気づけば不正はナナギによるものという話になっていた。上司がそのように告発したのだ。この職についた初めの頃から、ナナギは不正を行い私腹を肥やしてきた。恥ずかしながら、先日やっとそのことに気がついた。上司の監督不行き届きである、申し訳ない――。上司はいけしゃあしゃあとそう報告したのだ。
 それからナナギの人生が谷底へ転がり落ちるまで、あっという間の出来事だった。誰もナナギのいうことに耳を貸そうとはしない。それはおそらく、上司が更に上の面々を買収したこともあったのだろう。悪者は完全にナナギただ一人となってしまった。
 職を追われ、見せしめに国まで追われることとなったナナギに、ただ一人手を差し伸べてくれた者――それが、オルト卿だったのだ。
「彼は全力を尽くして、私の汚名をそそぐために奮闘してくれました。私自身は全てを諦めていたというのに、彼は決して諦めなかった。そしてついに真実を暴いてくれたのです。私は無実であり、真の罪人は上司その人であると」
 エジンは知らず拳を握り締め聞き入っていた。ノムル、カナデも神妙な顔つきでナナギのことをじっと見つめている。
「上司は投獄されました。そして十年の牢屋暮らしの後、国外追放となりました。一方私は元の地位に戻ることを認められましたが、もはや私自身にその気力は残っていませんでした。私はもう、色々なものが信じられなくなっていた。そこで私は唯一信じられる妻、子供と共に、唯一信じられる親友のオルト卿の勧めを受けて、この村で暮らすことにしたのです」
 そうか、とエジンは心の中で頷いた。
 ナナギの心と名誉を救ってくれたオルト卿のことを、彼が見間違えるはずがない。オルト卿を名乗るイルマンがこの村に姿を現した瞬間に、彼が偽者であることなど簡単に見抜けただろう。だからナナギは息子に忠告したのだ、あの男の言うことを信用してはならない。あの男はきっと何かを企んでいると。
 ナナギは穏やかな表情でエジンに目をやった。エジンが考えていたことを読み取ったように、小さく首を振る。
「私はね、オルト卿を名乗ったイルマンという男を見るまでもなく、彼が偽者であることは分かりましたよ。なぜなら、反戦論を唱えることに疲れて逃げ出す男など、オルト卿ではないからです。彼はきっと最後まで諦めません。自分の信じた道を歩み始めたら、絶対に止まることはありません。例え何があっても……」

 数日後、エジンは荷造りの済んだ鞄を持ち上げて、村長宅の玄関まで降りてきた。
 出立の日だ。
「エジンさん、また必ず立ち寄ってくださいね」
「うん、必ず」
 村の出入り口まで一緒に行くというノムルを説得して、玄関口でのささやかな見送りとなった。もともと大々的にやって来たわけでもないのだから、これくらいの見送りでちょうどいい。
「まあ、戦争にならなければの話ですが」
「きっと大丈夫さ。オルト卿の遺志はシノ国の民が継いでくれる」
 あの後、つつがなくイルマンの引渡しは行われた。その際エジンに手渡された契約者からの手紙には、シノ国の現状が簡単に綴られてあった。オルト卿の死を必死に押し隠していたシノ国だったが、やはり偽りで塗り固められた城は脆いもの、ついに真実が噂となって国民に知れ渡ることとなったらしい。それにより国民たちの中でオルト卿は英雄がごとく祭り上げられた。命を落とすことになっても反戦の意思を曲げなかった、シノ国の英雄。もはや彼の人気は決定的で、国内ではますます反戦論が高まっているらしい。最終的にはシノ国から妥協案を提示して、ユキフ国との戦争を回避することになるだろうと手紙には綴ってあった。
「次はどちらへ?」
「そうだなあ、とりあえずユキフ国を通って、その後は北へ行ってみようかと思っている。依頼が舞い込めばそっちを優先しないといけないから、どうなるかは分からないけどね」
 取りとめもない世間話をしていると、ザクザクと草土を踏みしめて駆けてくる足音がエジンの耳に飛び込んできた。
「エジンさーん!」
 はあはあと息を切らしてカナデがやって来る。旅の荷物を持つエジンの右手にしがみつくと、きっと強い眼差しでエジンを睨みつけた。
「エジンさん、まだ行かないでって言ったのに!」
「残念だけどそれはできないって言っただろう?」
 困り顔のエジンに構わず、カナデはなおも食ってかかる。
「まだ次の仕事決まってないんでしょ? だったらどうしてそんなに早く出て行っちゃうの。この村、狭いけど、まだまだたくさん見所あるよ。もっとみんなと一緒にいようよ」
「カナデ、エジンさんが困ってるだろう。わがままはやめろ」
 エジンに貼りついたカナデをどうにか引き剥がそうと躍起になるノムルには目もくれず、カナデは突然、最高に素晴らしい案を思いついたというようにぱっと顔を輝かせた。
「そうだ! それなら、私も旅に連れて行ってよ!」
「ええっ!?」
「そうだ、そうだよ、それがいいよ。私、この村ももちろん好きだけど、外の世界も見てみたい! エジンさんと一緒なら安心だしすごく楽しそうだし、うん、一緒に連れて行って!」
「あのねえ、カナデ……」
「しょうがないなあ、この村に残るか、私を一緒に連れて行くか、どっちか選んでいいよ」
 満面の笑みでそう言われると、どちらもそう悪くないような気がしてしまうから怖い。
「カナデ、いい加減にしろよ」
 さすがに本気で怒った声でノムルがたしなめる。やっとカナデをエジンから引き剥がすことに成功したノムルは、そのままカナデを後ろから抱きしめた。
「お前な、村を出て行くなんて言うな」
「ノムル?」
 きょとんとした顔で後ろを振り返ったカナデは、肝心なところで鋭いようでいて――やはり肝心なところで鈍いようだ。
 エジンは苦笑して、ぽんと右手をカナデの頭に乗せた。
「僕も、カナデは村にいて僕を見送ってくれると嬉しいな。……帰ってこれる場所っていうのが、僕にはずっとなかったんだ。だから、この村が僕にとっての『帰る場所』であれば嬉しい。そこにはやっぱり、カナデやノムルがいてくれないと」
「……うん」
 分かったような分からないような声で返事をして、しかし最後にははにかんだような笑顔を浮かべてくれた。
「きっと帰ってきてね、エジンさん」
 その笑顔を餞別に、エジンは片手を挙げてゆっくりと歩き出した。背中を向けてもカナデたちの視線を痛い程に感じる。この短い期間で二人がここまで自分に心を許してくれたことを、エジンはくすぐったく思った。
 根無し草の自分。最後の言葉はカナデをなだめる為に言ったものではあったけれど、そこに本心が微塵も入っていないわけではない。
 またいつか、この村に帰ってこれたら。
 村長の家から随分離れ、なだらかな丘を登ったところでふと振り向く。もう豆粒ほどの大きさにしか見えないカナデが、まだエジンに向かって手を振っていた。
 そんなカナデの様子を見ながら、エジンは旅の供といえる白い鳩を指笛で呼び寄せる。
 そして小さな紙に走り書きをして、鳩の足にくくりつけられた筒の中にしっかりと詰め込んだ。
『イェソマリ国は引き続き中立国として見守るのがよいと思慮する。属国とする必要はなし』
 もう一つの任務の報告は、これでいいだろう。
 エジンは鳩を空に放した。

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