01.

 慣れとは恐ろしいものである。

 例えば、初めてこの洞窟に足を踏み入れた遠い昔を思い起こしてみる。
 人里離れた薄暗い洞窟の中、ぽつんと一人佇んだ時のえもいわれぬ孤独感。生きて再び外に出ることができるのだろうかと、さしもの魔女も不安に思ったりしたものだ。それがどうして、今では怪しげな道具に辺りを囲まれ、カラス相手に独り言を繰り出す毎日が、魔女にとってすっかり心地のよいものとなってしまっている。
 もちろん望んで手に入れた生活だ、「慣れ」たことに後悔などしていない。例え百人中百人が大枚積まれようと謹んで辞退申し上げてしまうような陰気な隠居暮らしだろうとも、魔女自身にとってはかけがえのない楽園がごとき日々なのだ。むしろこの悠々自適の生活を脅かす存在が現れたのなら、その時こそ魔女の本懐を見せつけ相手を恐怖のどん底に突き落としつつ撃退してみせるつもりである。そう、撃退するつもりのはずだ。するつもりのはず、……だったのだ。そのはずだったのに。それがまた、まあ。

 繰り返してしまうが、慣れとは恐ろしいものである。

「そんなわけで、僕がどれほど苦労してこの水晶を手に入れたのか分かっていただけますね」
 魔女はぱちりと瞬きをして、改めて目の前の青年に焦点を合わせた。
 先ほどから彼はなにやら熱弁をふるっていたらしい。が、まるで話を聞いていなかった魔女にとっては、なにがどう「そんなわけ」なのか皆目見当もつかなかった。とにかく彼が言いたいことは、手土産に洞窟へ持ってきたこの水晶が大変希少価値の高いものだということらしい。それだけ分かれば十分だ。いや、それすらも別に分かりたくはないのだが。
 にしても、確かに水晶はこのような陰気な場所においても美しい透明感を保っていたが、それよりその水晶を持ってきた本人のほうが「稀有な美しさ」に関しては特筆すべき存在である――とは、魔女も死んでも口にするつもりはない。しかし事実、青年は大層な美形であり、彼の真剣なまなざしで見つめられれば、大抵の女ならば、もしかしたら女でなくともころりと心奪われてしまうかもしれなかった。美の女神に愛された青年は、しかも富の神にも可愛がられているらしい。この森を含めた地方一帯を治める領主の息子、という肩書まで備え付けている。いやはや、恐れ入る――天は二物を与えずという格言はどうやら当てにならないらしい。
 だがしかし、天は二物を与えたもうたが、きちんと匙加減というものをご存じだった。青年オーレリーは、この世に生まれ落ちたとき既に富と美貌を手にしていたものの、その代わりにあるものを備えていなかったのである。
 常識、というやつだった。
 もし常識とやらに階級が存在するのならば、と魔女はテーブルの下でこぶしを握る。最下級の常識でいい、このオーレリーにも授けてやってほしかった、おお神よ!
 つまりオーレリーは、全くもって常識というものを知らない青年だった。あまりに非常識が過ぎて、魔女においては「変人」の烙印を押さずにいれなかったほどだ。他の人間の意見を聞いてみたことはないが、おそらく彼のために同じ烙印を用意した仲間たちはそこいらじゅうに散らばっているに違いない。
 変人という言葉はあまりにひどいと言うのならば、ぜひ聞いてみたいと魔女は思う。誰もが敬遠する森の魔女の住まう洞窟に、三日と空けず通い詰める男はなんなのか、と。あまつさえ、せっせと通う理由が魔女への恋心ゆえとは果たして正気の沙汰なのか、と。皺の数を数えていたら日が暮れるであろうこの老婆の顔を見てうっとりしているなど、果たして健全な男子にあって許されることなのか!
 今現在事態は進行中である。オーレリーは洞窟で呪文の研究をしている最中の魔女のところへやってきて、薄汚いテーブルの向い側に陣取った挙句、とくとくと魔女への贈り物について語り続けている。うんざりしているのは、そんなオーレリーの存在に違和感を感じなくなってきている他ならぬ自分自身に対してだ。彼がいて、彼の姿が見えて、彼の声が聞こえることに、いつの間にか拒絶心が芽生えなくなりつつある。
(良くないねぇ)
 ため息に、そんな自戒の気持ちを込める。すると、魔女の心中を読み取ったかのごとく、カア、とカラスが止まり木から応(いら)えを寄こした。全くだ、さっさとあいつをどうにかしろ、そんな風に言っているのかもしれない。洞窟暮らしを始めて以来の相棒はめったなことでは鳴かないはずが、オーレリーの出現からこちら、カアカアカアカア実に感情表現豊かになってきている――主に怒りの感情らしいが――それを喜ぶ気には、魔女にもなれない。
「オーレリー、あんたねえ。私はこんなもん受け取らないといつも言ってるだろ」
「水晶を持ってきたのは初めてですよ」
「水晶だろうと魔法の杖だろうとガラスの靴だろうと! あんたの持ってくるもんは一切合財いらないよ! あんたのとこには金が腐るほどあるのかもしれないけどね、それにしたってこんなことばかりにつぎ込んで浪費してるんじゃ、そのうち自分の身を滅ぼすことになりかねないよ」
「ああ、リシュー」
 オーレリーはなぜか瞳を潤ませ身を乗り出した。
「僕の行く末まで心配してくださるなんて。ですが安心してください、浪費などではありませんから。いつも突き返されたものは換金して、あなたの名前で領地の孤児院や学校に寄付しています」
「なんだって!」
 魔女は悲鳴に近い声を上げた。誰もが恐れる森の魔女が、子供たちの未来を思って善意の寄付を!
「この馬鹿! 名誉棄損もいいとこだよっ」
「どうしてですか?」
「どうしてもこうしてもあるかい、あんた、私を何だと思ってんだ!」
 あああもう。馬鹿を相手に怒鳴ったところで体力を消耗するだけだと分かっているのに、怒鳴らずにはいられない。
「それとねえ、私を名前で呼ぶなと何度言ったら分かるんだ。嫌がらせだっていうんならこの上ないやり方だけどね」
 魔女は怒りついでに指摘した。この若造は、自分を怒らせることにかけては天才的だ。もしかしたら全ては彼の緻密な計画なのではないかと勘繰りたくなってしまうほどに。領地に住み着いた魔女を駆逐せんという彼とその一族の思惑が絡んだ一大計画が進行中――。まあその勘繰りも、ぽかんと口を開いたオーレリーの間抜け面(と言えど十分整っているが)を見るまでのことではあるが。
「相手を名前で呼ぶのは普通のことでしょう」
「私は普通の人間じゃないんでね。魔女にとって、名前ってのはその身を縛る呪力を持ったもんだと教えただろう」
「でも、リシューデンというのはあなたの本名ではないと……」
 それは確かにそうだ。しかし限りなく本名に近い。本名に近い名前は、それだけで拘束力が生まれる。
 以前オーレリーに名を訊ねられ、答えたくないから好きに呼べと言ったら「エリザベス」と名付けられたことがあった。そのときついつい、エリザベスは冗談じゃないからと本名を名乗りそうになってしまったのだ。慌ててリシュー“デン”と偽名にすり替えたが、それ以来、オーレリーは好き好んでその名を口にするのだから、やはり冗談じゃなかった。しかも愛称の「リシュー」などと呼ばれては、本名の愛称と同じなわけで、全く偽名を名乗った意味がない。
「とにかくリシューは止めるんだ、いいね」
「困ったな。それでは当初の通りエリザベス、エリーでいいですか?」
「エリーもダメ!」
「うーん、ではクリスティアーナというのはどうでしょう」
「それもダメ!」
「可憐にローズマリーは」
「絶対嫌だね!」
 わがままな人だなあ、とオーレリーは眉を下げてため息をついた。この男にため息なんぞをつかれたら、色々な意味で死にたくなる。
「あなたの言う名前をと思って尋ねた結果がリシューデンではないですか。それすら嫌がるだなんて……もしかして、リシューデンは本名だったりするのですか?」
 う、と魔女は言葉を詰まらせた。オーレリーは馬鹿なくせに変なところで察しがいい。どうにかこの話題を終わらせようと考えを巡らせるが、なぜか名前に執拗なこだわりを見せるオーレリーを前にそれは難しそうだった。となれば、忘れ草の粉を混ぜた茶でも飲ませこれまでのやり取りを忘れさせるか、はたまた無理やり洞窟から追い出して、唯一の出入り口に強固な結界を張ってしまうか。いやいや、そんな面倒なことなどせずとも、一言「これ以上追及するならもう二度と会ってやらない」と言い放てば効果十分ではあるまいか。――いやいやいや、それこそまるで若いカップルの痴話喧嘩のようではないか。森の魔女が口にすべき台詞ではない、却下だ却下。
 などと一人悶々と突破口を探っていた魔女だったが。
「あのう……」
 不意に、この洞窟には不似合いの(オーレリーのために『不似合い』がすっかり似合いになった洞窟だが)、可憐な少女の声が二人の間に割って入って、思いもよらず話は立ち消えになった。
「ああ?」
 つい本心からガラの悪い声で返事をしてしまった魔女は、振り返って目を点にする。
 いつの間にやら、若い娘が一人、洞窟の壁に寄り添うようにして立っていたのである。
 年のころは十六、七。艶のある黒髪は肩を少し超えたあたりで揃えられ、どことなく神秘的な雰囲気がある。初めて見る魔女という存在に圧倒されているのか、しなやかに伸びた手足も今は小さく縮こまっていた。少女は怯えた瞳で、しかしまじまじと魔女を見つめている。用意してきたであろう台詞は全て頭から飛んで行ってしまったらしく、小さな可愛らしい唇からはぱくぱくと空気ばかりが漏れるのだった。
「あらあら、なんだい、かわいらしいお客さんだこと!」
 オーレリーとの馬鹿げたやり取りのために洞窟への侵入者に全く気付かなかったことは苦々しいが、それでも今は魔女にとって嬉しい来客だった。それにそう、魔女と対面した人間の反応は、こうでなくてはならない。その点この娘は合格だ。オーレリーはもちろん不合格である。
「あんたみたいなか弱いお嬢さんが一人でこの洞窟へやって来るなんて、つまりは森の魔女である私に頼みごとがあるってわけだね?」
「え、あの、は、はい」
 少女はおずおずと頷いた。まだ怯えているらしく、頷き方さえぎこちない。
「まあいいからもうちょっと近寄りなさいよ。いくら魔女といえど、いきなり取って食べたりはしないよ。それにしてもまあ、まるで気づかず悪かったねえ。変な先客にちょっと手こずっていてね。でもそっちの話はもう終わったから大丈夫」
 隣でオーレリーがむっとしたように不機嫌そうな様子を見せた。それでも今は新しい可憐な客人を安心させるのが先と考えたのか、紳士な態度で少女へと話しかける。
「お嬢さん、そんなに怯えることはないよ。この人はとてもいい魔女なんだ。君にどんな悩みがあるのか分からないけど、彼女がきっといいようにしてくれる」
 いい魔女との紹介に噛みつきそうになった魔女だったが、それより別の好奇心が頭をもたげ、とりあえず口をつぐんだまま様子を見守った。なるほどオーレリーは、若い女性を前にしたときこのような態度をとるのか。優しく穏やかな物腰からは、いつもの変人ぶりなど想像もつかない。ここに恋愛という要素が投入されるとウザいくらいに情熱的になるのだから、まあそういうタイプが好きな女にはたまらないのだろう。
「きゃっ」
 魔女に怯えて突っ立ったままだった少女は、オーレリーの存在に気がづくと、やっと呪縛から解き放たれたように飛び上った。しかし今度は全く別の新たな呪縛にかかってしまったようで、オーレリーの顔を見つめたまま動かなくなってしまった。頬をほのかに染めるというおまけ付きだ。
「ほら、おいでよ。ここの椅子は見た感じはこの通りボロボロで今にも崩れそうだけど、座っているとそのうち居心地がよくなってくるんだ。きっと君にもぴったりくるさ。僕も今では自室の椅子より愛着を感じているよ」
 言っていることは意味不明であり(魔女にとっても少女にとっても)至極失礼ではあるのだが、オーレリーの甘い笑顔がついてくるなら話の中身など関係ないらしい。少女はこくこくと頷くと、それこそ「魔」の力で操られているかのように浮ついた足取りで席に着いた。
「ほらオーレリー、あんたはもう帰んな。守秘義務ってのがあるんでね、他の依頼人の話をあんたに聞かせるわけにはいかないよ」
 しっしっと追い払う仕草をすると、オーレリーは心外だというように首を振る。
「ずっと一緒に時を過ごしていた僕に今さら帰れだなんてひどすぎます。それに彼女だって、僕がいたほうが安心しますよ。そうだよね、お嬢さん?」
 少女は再びこくこくと頷いた。むむむ、と魔女は唸るしかない。この男は変人で天然だが、自分の魅力についてはきちんと理解しているし、そもそも元はかなりの遊び人だったらしいこともあり、若い娘の扱いなど赤子の手をひねるようなものらしい。自分のためにも国中の娘たちのためにも、ここらで彼をカエルに変えておいたほうがいいかもしれないなと魔女は思った。
「あ、あの、魔女様」
 少女が息も絶え絶えという様子でやっと口を開いた。
「なんだい」
「この男の方は……、魔女様の作った使い魔とか、なんですか?」
「違うよ、なんでこんな頭の沸いた使い魔を作らなきゃなんないんだい」
「だって、こんな綺麗な人、今まで見たこと、ないです」
「正真正銘、あんたと同じ人間さ」
 確かに一般人にはなかなかお目にかかることはできない存在かもしれない。生来の美形も手伝って、なおかつ育ちの良さからくる洗練された上品な雰囲気は稀有なものである。つまりは一般人とは住んでいる世界が違うのだ。そんな彼が魔女の洞窟に嬉々として足を運んでくるだなんて、本当に……まあいい、いくら言っても仕方がない。
「ただの人間ではありますが、そこらの使い魔に負けないほど心からあなたに尽くす自信はあります」
 さらりと流れ出たオーレリーのその言葉に、少女は心底びっくりしたように瞳を見開いた。
「惚れ薬の実験をなさったんですか?」
「……そうかもしれない」
 否定するのもうんざりだったので、魔女は適当にあしらうことにした。
「で、あんたの名前は? お嬢さん」
「は、はい。私はスリーンと言います」
 オーレリーと向き合うより魔女と向き合っているほうが精神的ダメージが少ないと判断したためか、少女もといスリーンは先ほどより随分落ち着いた調子で魔女に答えた。
「私の噂を聞いてやって来たんだね」
「はい。その類まれな魔力で願いをかなえてくれることもある、と」
「今の言い方なら分かっているようだけど、私は話は聞くが願いをきくとは限らない。興味のない願い事なら指一本動かすつもりはないよ、たとえ金貨の山を目の前に積まれても」
「……」
「どっかの馬鹿は私をいい魔女だなんて言ったけど、とんでもない。今あんたが相談を持ちかけようとしているのは、善悪の判断を持たない怖い魔女だってのをまずは肝に銘じておくこと」
「は、はい」
 そんなに怖がらせなくても、とオーレリーの非難する視線が痛い。それを無視して魔女は続けた。
「じゃあ聞こう。あんたの相談事ってのはなんなんだい?」
「はい。魔女様はご存知でしょうか、この地方に伝わるあるお祭りを――」
 スリーンが語り始めたのは、「水」にまつわるとある古い祭りについてだった。