02.

 この地方に古くから伝わる「ウォリアールの祭り」。
 三日三晩街中で住人たちが歌い踊い、水の女神ウォリアールを崇める陽気な祭りだ。夕暮れ時になると、各所にある塔や教会から水と花びらが撒かれ、美しく幻想的な風景が見られるという。最終日には女神の出ずる処と謳われるウォリスの泉で舞姫が舞を納める。その舞の美しさを一目見んと、他の地方からも人々が集まるほどなのだ。
 だがしかし、実際にこの祭りに参加した経験のある者は、実はそれほど多くない。なんせ前回ウォリアールの祭りが開催されたのが、ざっと三十年ほど昔のことだからだ。以来祭りは一度も開かれていない。
 それほど間が空いてしまっているのには事情があった。祭りの開催周期が五十年などといった理由ではなく、ある条件さえ満たすことができれば毎年開催してもいい祭りなのだ。では満たせなかった「条件」とはなんなのか。――それは一言で言えば、三十年来の「舞姫」の不在であった。
「となると、あんたら二人もウォリアールの祭りは見たことがないんだよね」
 魔女が確認とも言えぬ確認をすると、向かいに腰かけていた二人組は揃って頷いた。
「魔女様は、三十年前のお祭りをご覧になったんですか?」
「いや、私も見ていない。……祭りだからって浮かれて街に繰り出すほど、私も若くなかったんでね」
「それはともかく。確か今年は、実に三十年ぶりに祭りが開催されるはずでは?」
 不意にオーレリーが思い出したように口を挟んだ。さすがは領主の息子、街の行事などには詳しいようだ。
 スリーンはオーレリーの言葉を受けて小さく頷く。その気まずそうな表情に魔女はかすかな引っかかりを覚えた。
「へえ、祭りが開催されるってことは、今回の舞姫が見つかったってことだね。すごいじゃないか」
 更に話を掘り下げてやると、スリーンはますます居心地が悪そうに視線をさまよわせた。
 ウォリスの泉で舞を納める舞姫は、誰にもなれるものではない。
 水の女神ウォリアールに愛された娘でなければならないのだ。ただ泉の前で飛び跳ねて見せるだけでは舞姫の資格はない。舞姫が飛び跳ねるべき場所は泉の前などではなく――泉の「上」なのである。
 つまり、神聖な水面(みなも)を大地と見立てて蹴り、飛び、また降りる。そうした一連の舞こそを女神に奉納しなければならないのだ。当然並の人間にできる話ではない。水の上を自在に動き回る能力は、女神に愛された娘にのみ与えられるという。その娘とは、この地を愛し、民を愛し、女神を愛する濁りなき瞳をもつ乙女――。
「その舞姫こそが、スリーン、あんただっていうわけかい?」
「へえ、それはすごいな! でも確かに君は舞姫にふさわしいよ。とても可憐で愛らしいし、舞もすごく上手そうだ」
 魔女の指摘とオーレリーの手放しの賛辞を受けて、スリーンはとうとう真っ赤になって俯いてしまった。
「でもねえ。その舞姫様が森の魔女に相談事ってのは、あまり楽しい話じゃなさそうだね。舞について何か問題事でも起こったのかい?」
「……そうなんです」
 スリーンはやっと顔をあげて魔女の顔を見た。まだ何も話していないというのにすでに泣きそうな様子である。
「私、私、舞姫を務め上げる自信がないんです!」

 水というのは、魔力と非常に相性が悪い。
 逆に魔力と相性がいいのが火の属性である。魔を扱う者が最初に学ぶのは炎の扱いと決まっているほどだ。魔術の初心者であっても、木の棒に火を灯すのはそれほど難しいことではない。しかし水を操るとなると、よほど修練を積んだ者でもなければ全く思い通りにはいかないものなのだ。
 だからこそ人々はウォリアールという女神を生み出し、水を崇め奉っているのだろう。魔に侵されぬ神域として、水は人々にとって聖なる要素であり続けてきた。その水の上を自由に駆け回り飛び跳ねることのできる娘となれば、存在自体が稀なものとして敬われるのも自然なことだ。現にこの三十年間「舞姫」は現れず、祭り自体が封印され続けてきた。やっと新たな舞姫が、待ちに待った舞姫が現れたとなれば、今度の祭りはいつになく大きな盛り上がりを見せることだろう。
「ふうん、祭りの大トリを務める重責にやられているわけだ」
 簡単にまとめれば、スリーンの言いたいことはそういうことのはずだった。しかしスリーンは激しくかぶりを振って、魔女に縋りつくようにして言葉を重ねた。
「私にはものすごく重要なことなんです。私、昔からこういう重圧にすごく弱くて。普段はできることでも、人前でやろうとするとことごとく失敗してしまうんです。今までなんだってそうでした。それにそもそも、私はうまく水面を動けません。時々成功するっていう程度なんです。舞を通して踊れたことだってまだ二回しかないし」
「……祭りの開催はいつだい」
「二週間後ですね」
 オーレリーが冷静に答えた。
「あと二週間で、舞を完璧にするなんてできっこありません。でも皆このお祭りを心から楽しみにしているし、絶対に失敗できない。もうどうすればいいのか分からなくて、私」
 ついに本当に泣き出してしまったスリーンを見て、魔女はやれやれとため息をついた。スリーンの隣ではオーレリーが心配そうに背中をさすってやっているが、それで彼女の抱える問題が解決するわけではないだろう。
「で、あんたは私にどうしてほしい? 水に浮かぶ塗り薬でも作って、あんたの足に塗ればいいって?」
「そ、そんなことが、可能なんですか?」
 期待と涙を滲ませた瞳でスリーンが顔を上げた。魔女は口をへの字に曲げて首を横に振る。
「できないよ。んなもんができるんなら、あんたの前に三十年も祭りを中止にしている領主様が直々にこの洞窟を訪れて頭を下げてることだろうよ」
 領主の息子なら毎日のように訪れているが。
「そう、ですよね。でもとにかく、何かいい方法はないでしょうか? 皆を失望させないためにも、舞が絶対に失敗しない方法」
「ちなみに舞が失敗したことってのはこれまでにあるのかい?」
 オーレリーに尋ねてみると、彼は逡巡ののち頷いた。
「ありますね。確か割と最近の祭りで何度か。昔より水に対する魔力が人の中で失われてきているのかもしれないと、専門家たちが話していました」
「舞に失敗するとどうなるのさ」
「別に、どうも。残念だったなあという程度なんでしょう。舞姫を罰するとかそいういったことはなかったようです」
「だとさ。なら、ダメ元で頑張ってみればいいんじゃないかい?」
 しかしスリーンはとんでもないことを聞いたと言わんばかりに背筋を伸ばし、魔女に食ってかかった。
「そんな! 皆が待ちに待った三十年ぶりのお祭りなんですよ。女神ウォリアール様もきっと久しぶりの舞を楽しみにしてくださっています。私を舞姫に指名してくださった領主様だって。私にはそんな皆を失望させることはできません。皆が、この街が大好きだからこそ、絶対に成功させたいんです! もし舞を成功させてもらえるのなら、私の命と引き換えになっても構いません!」
「……あんた、馬鹿だねえ」
 魔女は言葉とは裏腹に、穏やかな声で諭すようにスリーンに囁きかけた。
「そんなもんを一体誰が望んでいるっていうんだい? 女神ウォリアールが本当に望んでいるのは、完璧な舞なんかじゃない。そんなのはね、二の次でいいんだよ」
「いいえ、私は今度の舞をどうしても成功させたいんです。水に沈んで皆を失望させたくない。お願いします、魔女様、どうかいい知恵をお授けください」
 祈るように両手を組まれてしまっては、魔女とて次の言葉を続けられない。ちらりと隣のオーレリーに視線を送ってみるが、こちらは「あなたに従います」と言わんばかりの真面目な顔を見せるだけで、この場の役には立ちそうになかった。
 ――仕方がない。
「スリーン。私は女神じゃないんでね、祈りをささげるのはやめてもらえるかい」
 魔女はため息と共に、不承不承降参の意を見せる。途端にスリーンの表情がぱっと明るくなった。全くこれだから若い娘は、泣けば済むと思っているから性質が悪い。魔女が涙でも流そうものなら、雫が皺に入り込んでふき取るだけでも大仕事になるだろう。
「一つだけ、思いつく方法があるよ。ただしそこは私の考える方法さ、あんたが手放しで喜べる策だとは思わないことだね」

 魔女が提示した準備期間は、一週間と六日だった。
 つまり祭の前日までである。
 前日の夜にもう一度洞窟へ来るようスリーンに伝えてあるのだ。一体どんな方法で舞を成功させるのかは、彼女に一切知らせていない。さすがにスリーンも不安がって魔女の言う「方法」がどんなものなのか聞きたがったが、とにかく祭の前日に来るようにの一点張りで追い返してしまった。納得のいかない表情を見せていたスリーンではあるが、魔女に刃向う術などあるはずがない。渋々といった感じでその日はオーレリーに送られつつ洞窟を後にした。
 そして約束の日。
 月が輝き星の瞬く夜空の下、約束通りの時間にスリーンは現れた。そして――なぜか、オーレリーまでも。
「なんであんたまでここにいるんだ」
 洞窟の入口に並んで立っているスリーンとオーレリーを見比べて、魔女は舌打ちしながらつっけんどんに言い捨てた。
「今度のことに関しては僕たちは仲間じゃないですか。もちろん最後まで見届けるつもりです」
「仲間って何だい、仲間って!」
「それよりも魔女様、舞のことなんですが」
 スリーンは気が気でない様子で魔女をせっつく。確かに何も知らされていないのだから、一刻も早く詳細を知って安心したいと思うのは道理だろう。
「まあいい。そうだね、あんまり遅い時間まで坊ちゃんお嬢ちゃんを連れまわすわけにいかないからね。ちょっとここで待っててちょうだい。すぐに人を呼んでくるから」
「人を?」
 スリーンとオーレリーが声を合わせて復唱する。何か便利な道具でも用意されていると思っていたのだろう、用意されたのが「人」と分かって混乱しているようだ。顔を見合わせ頭に「?」を飛ばす二人を残し、魔女は心許ない明かりのみが揺らめく洞窟の奥へ戻って行った。

「待たせたね」
 すぐに魔女は再び洞窟から姿を現した。小さな老体の後ろに背筋をすっと伸ばした細い人影が続く。月の出ている夜といっても、鬱蒼と茂った木々が月の光の邪魔をしている。その人影を照らし出したのは、赤々としたランタンの灯だった。
 相手は年若い女性であった。スリーンよりはいくらか年上かもしれないという程度。ランタンの強い赤を以って照らされていてもはっきりと分かる冷え冷えとした雰囲気は、いっそ高貴とすら感じさせる。色素の薄い真っ直ぐな髪は胸元まで伸び、わずかな風にもさらりと揺れた。飾り気のない白いワンピースをまとっているが、彼女のために計算しつくして作られたように似合っている。
「この子はニール」
「初めまして、二人とも」
 ニールと紹介された娘は、無感動な声音で挨拶をしてみせた。無感動だが、夜風にすっと溶け込んでいくような静かで深い声だった。
「魔女に話を聞いたわ。それで私の力を貸してほしいっていうから、来てあげたの」
「あ、あなたの力?」
 まだ混乱しているスリーンをよそに、ニールはちらりと隣に視線を送ってきた。魔女はもう種明かしをしてもいいだろうと思ったので、彼女に向って肩をすくめて返事に代える。
「私、あなたと同じ力を持ってるのよ」
 くす、とニールは形のいい唇を持ち上げ笑みを浮かべた。美しいが、軽薄な微笑だった。
「私と同じ力……」
「そう。あなたも、水の上を自由に動き回れるんですってね?」
 スリーンが衝撃を受けたように目を見開いた。スリーンは髪だけでなく瞳の色までも真っ黒なのだな、と魔女は見当違いの感想を抱く。
「魔術を習ってないのにそういう力を持っている子がいるなんて意外だったわ。でも魔女の話だと、あなたはうまく水面に乗ることができないらしいじゃない。私も完璧っていうわけじゃないけど、かなりの確率で成功できるわ」
 なるほど、とオーレリーが落ち着いた様子で口を開いた。
「つまりスリーンに代わって彼女に舞ってもらえばいいと、そういうことですね」
 魔女はゆっくりと頷いた。スリーンはまだ固まったまま動けずにいる。
「三十年間見つからなかった舞姫なのに、よくこんなにあっさりと二人目を見つけてくることができましたね」
「魔術師には魔術師の“繋がり”があるの。もともと私と魔女は知り合いよ。こうして声をかけられるのは久しぶりのことだからびっくりしたけど」
 ニールが代わって答えると、オーレリーは改めて彼女に向き直った。
「ニールさん、どうしてこれまで舞姫として名乗り出てくださらなかったのですか?」
 あら、とニールは心外だとでも言いたげに笑って見せた。
「だって私は魔女の見習なのよ。舞姫じゃない。水の上で舞えるからって、私にしてみれば『だから何?』って感じなの。いくら魔力が水には弱いからって、探せば同じように水面に立てる魔術師は他にもいるでしょう。ただ他の皆は祭に興味がないだけで」
 私だって魔女に頼まれなければ舞なんて、とニールはにべもなく切り捨てた。
「いいだろう、スリーン?」
 魔女のしわがれた声が割って入る。
「お前は舞を絶対に成功させたいと言った。そのためなら自分の命をかけてもいい、と。ならばより成功率の高い他人に舞姫の役を譲ることにも文句はないはずだ」
「それは……」
 スリーンは途端に瞳を揺らした。彼女の気持ちを代弁するかのようにオーレリーが再び口を開く。
「待ってください、あまりに無情じゃありませんか? スリーンは祭りのためにずっと頑張って練習を続けてきたはずです。なのに他人に代わらせるだなんて、今まで苦労してきた全てが水の泡になってしまう。彼女が舞うことにこそ意味があると僕は思います」
「気に入らないわね」
 尖った声でニールがオーレリーを遮った。
「舞を成功させるか、失敗させるか。重要なのはただその一点なんでしょう? 今さら努力がどうとか苦労がどうとか持ち出してほしくないわ。私も見習とはいえ魔女のはしくれ。契約はちゃんと履行する。それでいいじゃないの」
「しかし」
「……オーレリーさん、ありがとうございます。でも、いいんです」
 スリーンは俯いたままか細く呟いた。
「魔女様と、ニールさんの言うとおりです。私は絶対に舞を成功させたいんです。そのためには私が舞台に立てなくてもいい。そう、私より上手く舞える人がいるのなら、その人にお願いするのが筋です。何も、間違ってなんかない」
「スリーン」
 まだオーレリーが何かを言おうとしたが、魔女の重々しい咳ばらいが場をまとめてしまった。
「決まりだ。今夜はとりあえず、ニールの力を見せてもらう。きちんと舞える姿を見ればこの場の全員が納得するだろう」
 ニールが自信たっぷりに頷いた。闇夜でも分かるくらいに真っ青になってしまったスリーンと、納得のいかない様子のオーレリー。何ともちぐはぐな一行は、洞窟の先にある忘れられた泉へと向かったのだった。