03.

 泉は洞窟からさほど離れていなかった。
 木々の合間を縫って進むと、やがて目の前が開けてくる。そこに横たわる泉には月の光が惜しむことなく注がれて、まるで鏡のように光り輝いていた。ほんのわずかに吹いていた風も今はおさまり、水面は完全に凪いでいる。
「綺麗な所ですね」
 スリーンがぼんやりとした声で囁いた。
「とても神秘的で美しいわ」
 そうだろう、と魔女は頷いた。ここは魔女のとっておきの場所だ。生活に必要な水もここから汲んでいるし、時折気分転換のため足を運ぶこともある。
「本番に見立てて舞を踊るにはぴったりですね。大きさもウォリスの泉と同じくらいだし、なによりここなら人目もない」
 オーレリーも感心したように周囲を見渡した。
「ではニール、早速だが踊って見せてやってくれ」
 魔女の低い声が促すと、ニールは魅惑的な笑みを浮かべて頷いた。
 トントン、と軽い足取りで泉へ向かう。背中に羽が生えているかのように柔らかな動きである。そしてそのままわずかな迷いも見せず水面へ足を乗せ、その流れに乗って軽々と跳ね上がった。
「わぁっ」
 スリーンが感嘆の声を上げた。ニールは空中でくるりと回ってみせると、音もなく着地する――もちろん水の上に。水面は波紋を広げたが、それすら芸術の一部のように美しかった。ニールのぴんと伸びたつま先が水面を揺らすたびに、泉それ自体が喜んでいるように打ち震える。煌々とした月の光は、どんな照明よりも鮮やかにくっきりとニールを映し出していた。
 全身を使って滑らかな弧を描くニールの姿は、夜風になびく花びらのようでもあり。そのしなやかな右手が水面をさらって飛沫を上げると、水の粒が月光を浴びてきらきらと輝いた。
 水飛沫さえもがニールのまとう宝石のようだ。
 これが本当に人間なのかと疑わずにはいられない。実際彼女は魔女の一員だ。ただ舞っているだけではなく、なんらかの「力」を外に向けて振り撒いていてもおかしくはなかった。が、誰がそんなことを気にするものか。実際スリーンはすっかり呆けた表情でニールの舞に見入っている。祭本番となれば、同じように恍惚とした表情が何十何百と並ぶことになるのだ。
 しかし幻惑の時は長くは続かない。魔女はそれを知っていた。
 その思惑通り、ニールは程なくすると動きを抑えて次第に岸へと近寄ってきた。水面へ駆けだしたのと同じように滑らかに地面に舞い戻る。とん、と両足が着地すると、ニールは呼吸の乱れも一切見せず冷やかにほほ笑みを見せた。
「まあ、こんなものかしらね」
「御苦労」
 淡々とした二人のやりとりに、スリーンとオーレリーはぽかんと口を開いて言葉を失った。未だ頭が状況を把握していないというように、くしゃりとした老婆の顔とつやつやとした美女の顔を交互に見比べる。
「え、も、もう……お終いなんですか?」
 スリーンは呆然としながらも、突如断ち切られた魅惑の舞台を惜しむ声音で口を挟んだ。魔女は、ふん、とそっけなく鼻を鳴らすばかりである。ニールはそのあとを継ぐように呆れた様子で肩をすくめた。
「ここで一通り踊ったって意味ないでしょ。そこまでするほどの報酬をもらってるわけじゃないし。本番で一回踊れば十分だわ」
「それじゃあ、練習では一度も通して踊っていないと?」
 オーレリーが低い声で問い返す。
「そうだけど、文句でもある? 私と魔女の契約は、今回の祭りで舞を踊ってみせること。きちんと本番を迎えれば、それまでの過程をとやかく言われる筋合いはないと思うけど」
「ではもし、失敗したら?」
「しないと思うわ、余程運が悪くなければね。いつもだってほぼ成功するわけだし、本番もきっと大丈夫でしょ」
「ほぼ成功するけれど、稀に失敗することもあると」
「……そうよ。でも、だから何だっていうの? 魔女やあなたた達は、そんな私を見込んで今回依頼したわけでしょう。そこのお譲さんよりは、私のほうが成功する確率が高い、とね。なら私はありのままの自分で舞に臨む。それで仮に失敗したとしても、非難される謂われはないはずよ。――まあ、失敗しないでしょうけど。何度も言うようにね」
「……」
 オーレリーはむっつりとした表情で黙りこんだ。一方スリーンは先ほどまでのうっとりした表情から一転、今ははっきりと顔を強張らせている。
「それでも、少しでも練習をして、失敗する確率をできる限り低くしようとは、思わないんですか?」
 わずかに震えながらもスリーンは声を絞り出した。
「残念ながら、思わないわね」
「どうして」
「最初に言ったはずよ。私は舞姫とやらに興味はないわけ。舞の練習で時間を潰すくらいなら、魔術の勉強にその時間を費やすほうが私にはずっと有意義なの。あなたにとっては今度の舞が命よりも大切らしいけど、それを私にまで押しつけられちゃ困るわ。私はそういうものまで背負うつもりはない。ただ、水の上で舞を踊って見せるだけ。最初からそういう契約なんですからね」
 ニールは物分かりの悪い子供に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を繋いでいった。しかしその内容は、子供を諭すにしては容赦がない。容赦も加減も、思いやりもない。彼女のまとう空気と同じ、冷え冷えとした言葉が投げつけられただけだった。
「もういいだろう。これ以上話し合っても意味などない。今日はもう帰って、各々本番に備えるべきじゃないか」
 魔女がうんざりしたように声を上げた。それに頷くニールと、頷く気にはなれないらしいスリーン、オーレリー。場の空気はこの上なく悪かった。
「……私だって、あのくらいなら舞えます」
 ふてくされたようにスリーンが呟いた。
「なんだって?」
「あんなに少しの時間なら、私だって失敗せずに水の上を舞うことができます! だから私、あれじゃあ納得できません!」
 言って、スリーンは駆けだした。誰が止める間もなく一直線に泉へと向かい、激情をぶつける様に地面を蹴る。スリーンの小さな足が泉に触れ、激しい水飛沫を上げると、次の瞬間にはその身体がぐらりと傾いた。はっ、と皆が息を呑む音が無機質な水音にかき消される。スリーンは一瞬にして水の中に呑みこまれていった。
 ほんのわずかも舞うことができないままに。
 深さはそれほどなかったのだろう、スリーンはまもなく水面から顔を出したが、濡れた瞳はぼんやりと揺らぎ、まるで焦点が結ばれていなかった。どうして――と茫然自失の表情が誰へともなく問いかけている。
 魔女は口を引き結んでその様子をただ見守っていた。隣のオーレリーが我に返って駆け寄ろうとするのが目に入る。しかしそれより先にニールが動き、沈黙を守ったまま泉へと近寄って行った。
「無様ね」
 ニールはどこまでも冷淡だった。
「負の感情なんかに任せて舞おうとするから、怒ったんじゃない? ――あなた達の言う『女神サマ』が」
 スリーンは虚ろな目を上げ、やっとニールの姿を捉えた。それでも彼女の口から言葉は何も出てこなかった。ニールは手を貸そうともせず、またスリーンもなかなか泉から上がろうとしない。
 そして夜空の星々が何度瞬きをしただろうか。随分と時間が経って、ようやくスリーンは声を上げて泣いたのだった。

 それから三日後の、昼下がり。
 魔女はひょっこりと洞窟の入口から顔を出した。
 鬱蒼と茂る背の高い木々を見上げ、そのまた向こうにわずかに覗く青空に目を細める。顔を上げると木漏れ日が眩しいくらいだから、今日は雲ひとつない晴天に違いない。これぞ絶好のお祭り日和というやつだ。
 今日は祭の最終日である。祭の期間中も律儀に洞窟へ足を運んでいたオーレリーの話では、この二日の盛り上がりは相当なものだったらしい。朝から酒は飲むは歌は歌うわ、他のどんな祭の時より皆がはしゃいで、街一帯を治める側としては若干恐怖を覚えるほどだという。最終日となれば、今頃街は一層賑わっていることだろう。
「スリーンは一度も家から出ていないらしいんです」
 オーレリーは昨日、そんな風に言っていたか。しかしそんなことを報告されてもどうしようもない。スリーンが何を思い、何を感じようとも、舞の時間は確実にやってくる。
「さて、そろそろ私も行かなきゃね」
 魔女は億劫な気持をため息に込めて、ゆっくりと息を吐いた。引き受けた以上は、依頼人の依頼を希望どおりに叶えてやらねば魔女の名がすたる。さあ準備に取り掛かろうかと踵を返したその瞬間。
「――魔女様」
 かさり、と草を踏みしめる音とともに、か弱い少女の声が魔女を呼び止めた。
 顔だけで振り返ると、木の陰に隠れるようにして立ちつくしていたのは、――泣きはらした表情のスリーンだった。

・  ・  ・

 まもなく日が暮れようとしている。
 いつの間にか出てきた雲が大きくなびいて、夕日に赤く染められていた。街の喧噪はいつもよりも明るさと期待に満ちている。こうした活気を肌で感じるのも久しぶりのことだなと魔女は思った。
 通りという通りに人があふれていて、魔女は何度も誰かとぶつかりそうになる。この老体で周囲を気遣い歩いて行くのは大変なので、開き直ってひたすらまっすぐ進むことにした。今日の魔女はいつものローブを脱ぎ棄て、どこにでもいそうな至って普通の老女の恰好をしている。だからなのだろう、過ぎゆく人々は誰も魔女を気に留める様子はない。ただ、杖をついて歩く老人を吹っ飛ばさぬよう、ついと道を開けてくれるという意味では気にかけてもらっているようだった。老体というものもたまには役立つらしいと魔女は密かに含み笑いを浮かべた。
 普段は見当たらない屋台などもあちこちに姿を現し、そこから得も言われぬ美味しそうな匂いが漂ってくる。魔女はきょろきょろと屋台を覗き込みながら歩いていった。普段質素な食事をしていることに不満はないつもりだったが、こうして眺めているといやはや勝手に食指が動く。今晩は屋台で色々買い込み、それを洞窟に持ち帰って夕食にしようかと考えかけたが、それでは全くもって魔女の食卓らしくない。やはり我慢だと魔女は一人納得しなおした。いやしかし、洞窟で今日は留守を任せているカラスに土産として買っていくならいいのではないか?
「エリー、エリザベス!」
 その時だ。なにやら後ろのほうから若い男の声が上がった。
 魔女にとっては全く呼ばれる覚えのない名前であったが、思わずぎくりと肩を揺らした。よく通る澄んだ若者の声に、周りの面々も興味をひかれて振り返っている。――しかし自分だけは振り返らないぞ。
「待ってくださいよ、エリー。ああ、やっと見つけた」
 どんどん声が近くなって、ついに魔女の肩に何者かの手が置かれる。ぎゃっ、と魔女は首を絞められたカラスのような声を上げてしまった。
「先にあなたの家へ立ち寄ったんですけどね、もう姿がなかったので慌てて街中探しまわっていたんですよ」
 観念して振り返ると、実に晴れやかな笑顔を浮かべるオーレリーの顔がすぐそこにあった。側を通り過ぎる人々は、オーレリーの気品溢れた美形ぶりに驚き、次いでそんな美青年に甘く「エリー」と呼ばれる相手が皺々の老女であることに驚いている。
「……」
 魔女は無言で歩みを再開した。オーレリーが慌てて後をついてくる。
「どうして無視するんですか。これからウォリスの泉に行くんでしょう? それなら一緒に」
「人違いじゃないかね。私はエリザベスって名前じゃないから」
「だってそれは」
 オーレリーは魔女の怒りの原因にやっと思い立ったように、言葉を途切れさせた。
「仕方がないじゃないですか。あなたがあの名前で呼ばれるのを嫌がっているようだったから」
「だからってエリザベスはないって言っただろ」
「これでもスリーンの前では名前を呼ばないように気をつけていたんです。今回だけは勘弁してくださいよ」
 オーレリーは顔に似合わぬ情けない声で追いすがってきた。魔女は歩みを止めないままに昨日の流れを頭の中で思い起こす。確かにオーレリーは一度も名前を呼ばなかった。たまたまだと思っていたが、意識してのことだったのかとひとたび気づかされると、ねちねち責め続けるのも気が引けてしまった。
「それにしても、だいぶ人が集まってきましたね」
「全くだ。老体にこの人ごみは厳しいよ」
「その割には、僕が名前を呼んだ時、杖も邪魔だという勢いで歩いていましたけど」
「うるさい」
 魔女はこの人ごみが祭の間中続いていたものと思ったが、オーレリーの言葉からするとそういうわけでもないらしい。確かに少し注意を払ってみれば、人の波は確実にある一方向を目指して動き始めている。目指す場所がどこなのか、もちろん魔女とて分かっていた。
 ウォリスの泉。まさにこれからその泉で、舞姫の舞が見られるのだ。
「あなたがここにいるということは」
 オーレリーが歌うように呟いた。その後が続かないので、魔女はちらりと視線を上げて隣を行く青年の様子を窺う。オーレリーは嬉しそうに笑みを浮かべたまま、ただ前を向いて歩くのみだ。一体何なんだい、と魔女は口の中でもごもごと追及したが、雑踏のざわめきにかき消されて、その問いはどうやら彼まで届かなかったようだった。

 ウォリスの泉には既に多くの住人達が集まっていた。
 泉を囲んで人々がひしめき合っているわけだが、当の泉それ自体は水面を揺らすこともなく、しんと張り詰め緊張感を保っている。その奇妙な「熱」の差がますます場を特別なものに感じさせて、人々の興奮を煽り立てていた。
「すごい人だ。泉がちゃんと見えますか?」
「ああ、大丈夫」
 よく見えないと言ったらその場で抱え上げられかねない相手だったので、魔女は素直に頷いておいた。実際、やってきた時間を考えれば随分いい場所を確保できたと思う。それというのも、オーレリーが一緒だからに違いなかった。高貴な雰囲気をまとった彼が一般人に揉まれていると、なんだか申し訳ないような気がするのか、皆場所を空けたくなるらしいのだ。そうしてできた隙間を縫って、じりじりと少しずつ前へ進んできたのだった。
「あんたこそ、こんなところに混じらないでも特等席みたいな場所から見物できるはずなんじゃないのかい?」
 オーレリーは領主の息子だ。まさか領主の一族が席取り合戦じみたことなどしないだろう。今も彼の家族はどこか一番見晴らしの良いところで優雅に酒でも飲んでいるのではないか。
「そんなところから見たってつまらないじゃないですか。あなたもそちらに来てくれるというのなら、移動してもいいんですけど」
 それこそ絶対お断りだ。祭の最中に姿を消した息子がやっと戻ったと思ったら、隣に見知らぬ老女を連れている。その時息子がどんな風に老女を紹介するのか――。何十年振りのめでたい席で領主夫婦を卒倒させるようなことは、さすがの魔女もしたくなかった。
「あ、見て! 来ましたよ!」
 オーレリーが子供のようにはしゃいだ声を上げた。つられて魔女も泉に目をやる。
 昨日の晩、月に照らされ白く輝いた水面も美しかったが、今夕陽に照らされ赤く煌めいている水面も胸を打つような迫力があった。そこへ二人の共を連れた少女が姿を現し、ゆっくりと歩み寄ってくる。泉の淵までやってくると、ぴたりと止まった。それまでざわめいていた群衆も一切のおしゃべりをやめ、息を呑んで少女の様子を見守る。
 少女は赤を中心とした色鮮やかな衣装を身にまとっていた。ドレスというよりは、就寝時にまとうようなワンピースをずっと華やかにした印象だ。髪は丁寧に結い上げられ、たくさんの髪飾りで飾り立てられている。少女は泉に向って深く一礼をした。ただそれだけで、かけがえのないものを目撃した気分にさせられる。
 少女は再び顔を上げた。そしてそのまままっすぐに泉を見すえる。揺るぐことのない強い黒の瞳は、夕陽にさえも染まることはなくその存在を主張していた。吸い込まれそうな漆黒に、人々は言葉を失いじっと見入る。
 厳かに演奏が始まった。昼は街中で陽気な音楽を鳴らし続けていた音楽隊が、今は真剣な表情でゆっくりと旋律を紡いでいく。少女は音楽に合わせて深呼吸を繰り返し、つかの間瞳を閉じた。
 そして――。
 少女は駆けだした。たん、とん、と足音がリズムを刻む。再び少女が瞳を見開くと、目に見えない何かが彼女の身体をすくい上げたように見えた。同時にぞわり、と魔女の身体に震えが走る。隣のオーレリーも、周りの見知らぬ住人達も、おそらく同じ体験をしているはずだった。少女は空中で両手を遊ばせ、流れのままにその身を任せる。随分緩やかに舞い降りてきたと思う。再び彼女のつま先が降り立った時、そこは地面ではなく水面だった。音はしない。無音だった。だが、代わりに波紋だけが大きく広がった。少女を中心に水面全体が弧を描く。その勢いはすさまじく、魔女の側で誰かがはっと息を呑んだ。
 少女は――スリーンは、沈まなかった。
 それがさも当然だというように、スリーンは迷いも見せず水面を駆ける。再び跳躍し、舞い降りる。彼女が動くたびに泉は波紋を生み出し、彼女の舞の一部となった。幻想的な旋律だけが辺りに響き、代わりに水の音はまるで聞こえない。ただ、水面が揺れている。それがなければ泉に見える地面の上を彼女が駆けているのではないかと思ってしまいそうだった。
「綺麗だ……」
 オーレリーがぼそりと呟いた。
「スリーンはすごい。こんなに綺麗に舞えるなんて」
 夕陽の色を反射しているからだろうか、オーレリーの瞳が潤んで見えた。それを追及するほど魔女も野暮ではないつもりだ。
「吹っ切れたんだろうね。少し時間はかかったようだけど」
「いつ、スリーンは自分で踊ると言ったんです?」
「今日だよ。ついさっき。さすがにもう来ないかと私も思った頃に」
「そうなれば、ニールが舞っていたかも知れないんですね。もう想像もできないけれど」
「ああ。やっぱりスリーンが舞うからこそ、ってことだ」
 魔女が出かける支度をし始めた頃だ。スリーンがやってきて、頼りなげに魔女に声をかけた。そしてぽつりと言ったのだ。「やっぱり私に踊らせてください」と。
 それがスリーンの見栄からくる言葉ではないことは、魔女にはすぐにわかった。彼女の思いつめた表情に宿る決意には、そんな歪んだ感情の入り込む隙間などまるでなかったのである。
「私にもやっと分かったんです。舞姫に必要なのは、舞の技量でも水を操る魔力でもなくて、この街と女神様を愛する気持ちだってこと。だから例え失敗すると分かっていても、ニールさんには譲れない。きっとニールさんなら本番も完璧に踊ってくれるんでしょうけど、一番大切なものが欠けていては駄目だって思うんです」
 スリーンの言葉を思い返して、魔女は一人わずかに笑みを浮かべた。
 言いながら自分勝手な言葉を恥じている様子のスリーンだったが、魔女にはそれが嬉しくてたまらなくて、そうこなくっちゃと思いきりその華奢な背中を叩いてやったのだ。
 そのスリーンが今、あんなに堂々と舞を披露している。
「ちゃんとスリーンが決心してくれてよかったですね。僕たちも頑張った甲斐がありました」
「はあ?」
「あなたにしては随分手の込んだことをしたじゃないですか。自らスリーンのライバルを演じて見せるなんて」
「……はあ?」
 ひたすら前を見すえていたオーレリーは、くるりと魔女に視線を落とし、にっこりとほほ笑んだ。魔女はそこはかとなく嫌な予感に襲われて、言葉も少なく冷や汗を流す。
「やっぱり、あの美女の姿があなたの本来の姿なんですか? ニール」
 ひっ、と魔女は息を呑んだ。
「ななな、なにを」
 戸惑いのあまり上ずった声になってしまう。
「僕にまで隠さなくてもいいじゃないですか。ニールが憎い存在に見えるよう僕なりに助力したつもりなんですから、そろそろ僕を仲間と認めて種明かしをしてほしいです」
「だから、な、何の話だい」
「ニールはとても美しい女性でした。でも、あんなに美しくなくてもいいんですよ、本当のあなたは。だって美人であればあるほど、余計なライバルが増えかねないってことじゃないですか」
 オーレリーは一人うんうんと頷いている。
「訳のわからないことを言うんじゃないよ。ま、まさかニールが私の化けた姿だって、……思い違えているんじゃないだろうね?」
「化けているのは今の姿のほうじゃないんですか?」
 まあそれはいいとして、と。オーレリーは余裕さえ感じさせる笑顔を浮かべている。
「確か、『ニール』は古代魔術語で『存在しない』『何もない』とかいう意味なんですよね」
 なぜそんなことを知っている。危うく魔女は喚きそうになってしまった。
「それにあの晩のあなたは、なんだか話している感じがいつもと違いましたよ。堅苦しいというか、機械的というか。水を操るのは熟練の魔術師でも難しいという話でしたから、あの時のニールこそがあなたで、あなたに見えた魔女はまやかしか何かだったんじゃありませんか?」
 口調が堅苦しいなんて! そんなことまで構っていられただろうか。――とりあえず、今日のカラスへの土産はナシだ、ナシ。彼にも大層無理を強いたわけだけれども、上手くやり通せていなければ意味などない。見返りナシで面倒事を押し付けられたと知れば彼も怒り狂うだろうが、だがしかし、よりによってこんな変人放蕩貴族に筒抜けで――。
「ねえ、どうです。僕もなかなか考えているでしょう? スリーンの心を動かすのにも少しは貢献できたと思うのですが。せっかくなので、そのご褒美にあなたから報酬を頂けませんか」
「報酬だあ?」
 魔女はじとりとオーレリーを睨みつけた。剣呑な視線を受けてもオーレリーはまるでひるみやしない。
「……なにが欲しいんだ、言ってみな」
 ついに魔女は根負けして、ため息交じりにそう言った。このまま変な弱みを握られたままにしておいては、後々どんな面倒事が降りかかるともしれないではないか。それくらいなら多少の譲歩は仕方がない。
「権利を」
「権利?」
 いらいらと魔女が聞き返すと、オーレリーは嬉しそうに頷いた。
「あなたの名前を呼ぶ権利。リシュー、と。呼んでもいいですか?」
「……」
 ああもう、こいつは本当に、もう!
「勝手にしな!」
 その時だった。わっ、と大きな歓声が辺り一帯を包み込んだ。
 水面を舞い続けていたスリーンが、最後にひとつ大きく宙で一回転をして、ふわりと水の上に降り立って見せたのだ。そして満面の笑みを浮かべ、跳ねるようにして水際まで舞い戻って来た。しばらくぶりに硬い地面の上に着地したスリーンは、皆の拍手に応えて手を上げ、スカートの裾をつまんでお辞儀を見せた。ますます周囲は興奮を見せ、拍手喝さいが街全体を包み込まんというほどに大きくなっていく。
「スリーンは本当にやりましたね、リシュー!」
 早速「権利」とやらを行使し始めるオーレリーに一瞬げんなりした魔女だったが、思い直して苦笑を浮かべた。
 今日は三十年振りに舞姫の降臨した記念すべき一日だ。嫌なこと、腹の立つことはすべて忘れ、皆で大いに楽しもうではないか!