02.

 それから数日経った昼時のことだ。
 魔女はようやく寝床から抜け出して、寝ぼけ眼で顔を洗っていた。魔女の朝はいつも遅い。洞窟の中にいれば昼も夜も関係ないのだ、日の昇る時間に起きて、日の落ちる時間に眠るなどという健康的な生活を送っているべくもない。
 就寝中は洞窟の入口に強力な結界を張り巡らせているため、蟻の一匹すら侵入することは叶わない。その結界をぶち破ろうとする者が現れれば、当然魔女にも気配で分かる。幸い、これまでそうした痴れ者の訪問を受けたことは一度もないが。
 しかし今朝は、どうやらいつもと様子が違うようだった。洞窟の入り口でうろうろと歩きまわる何者かの気配を感じて、魔女は瞬時に神経を研ぎ澄ませる。
(オーレリーか)
 魔女は気配の主を確認すると、大きなあくびを漏らした。
 彼とて、魔女が昼を回らないとめったに行動を始めないことなどとうに承知しているだろうに、一体全体なにをやっているのか。溜め息と共に入口の結界を解除してやると、それに気づいたらしいオーレリーは、こちらへ向かって歩き始めたようだった。
 まだ老婆の姿に変化していないが、相手はオーレリーだ、もはや今更構うまい。そもそもオーレリーにとっては、目の前の魔女が婆だろうが娘だろうが大差はないのだ。むしろ近頃では、魔女の方が、彼の前で老婆姿を保つことに嫌気がさし始めていた。オーレリーが婆の自分に熱視線を向けてくるのが、何とも言えず気持ち悪い。
「おはようございます、リシュー」
 程なくして洞窟の真ん中までやってきたオーレリーは、魔女が変化の術を解いていることに気づき、わずかに目を見開いた。
「こんな早くから一体どうしたんだい」
「実は、折り入ってご相談したいことがあって。……でも、まだ身支度の途中でしたら、洞窟の外で待たせてもらいますが」
「別に身支度なんざするつもりはないから構わないよ。それとも、婆の姿の方が良かったかい?」
「いえ、そういうわけでは」
 オーレリーは慌てたように首を振った。
「で……、ご相談、だって?」
 嫌な予感しかしない魔女である。この男の相談やらお願いやらに、ろくなものがあった試しがない。
「正確には、僕の父からの依頼なのですが」
「さて、お引き取り願おうかね」
 魔女は、椅子に腰掛けようとしたオーレリーの背中を強引に押し出した。その場でたたらを踏みながら、オーレリーが困ったように魔女に視線を落とす。
「気が進まないのは十分分かっています。ですが、他に頼める魔術師はいないのです。僕にとっても、両親にとっても、兄にとってさえ、あなたは唯一、信頼できる魔術師なんですから」
「私はあんたの家の専属なんでも屋じゃないんだよ。事あるごとにこき使われちゃ、たまったもんじゃない」
 第一、と魔女は険を含んだ声とともにオーレリーを睨み上げた。
「信頼できる魔術師だって? 一家そろって何を寝ぼけたことを言ってるんだか。はぐれ魔女を信頼しようだなんて、風がいつでも南から吹くと信じるほどにおめでたい考えだね。私は、領主だろうが国王だろうが、気に入らないものには従わないよ。昨日の依頼主も、今日の標的になり得るんだ」
「いわゆる魔術師のそうした行動原理はよく理解しているつもりです。でも、あなたはそうじゃないでしょう」
 オーレリーは一片の揺るぎもない眼差しで魔女を見つめた。
「兄も、あなたを受け入れ始めているんです。魔術師というものを毛嫌いしていた、あの兄が。今回、父が進んであなたに相談事を持ちかけようとしているのも、きっと兄の影響があるからです。……我が家を動かしているのは、実質、兄のユーベルなんです」
 魔女は眉根を寄せた。
 ユーベルが魔女に気を許し始めているだなんて、とても思えない。この一か月、彼とは何度か共に時を過ごしているが、彼の魔女に対する対応は、完全に「仕事相手」に対するそれである。ユーベルは、義務だからこの洞窟に通っているに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもないのは明白である。
 しかし、そんなことをオーレリーに説いたところで無駄なのだろう。事実がどうであろうと、彼には響くはずもない。ユーベルが言っていた通りだ。オーレリーは、兄に強い劣等感を抱いている。
(能天気なだけが取り柄なくせに、この馬鹿は)
 何故だか妙に腹の中がむかついてくる。
「……兄の調子は、どうですか。順調に魔術を習得しているのですか?」
「まあ、そうだね。元々の素質がいいから、順調に行って当然だろう」
「でしょうね。あの人は、いつもそうですから。魔術に限らず、何だって上手にこなしてしまう」
 僕とは違って、という言葉がその後に続くことが、魔女には手に取るように分かった。
「――あああ、全くもう、面倒くさい男だねえ」
 たまらず魔女は声を上げた。
「どこの世界にだって、ああいう輩が一人はいるもんだ。何でもそつなくこなして、周りの羨望を一身に集めてしまうような人間がね。だけどその分、ああいうのには、厄介事や面倒事も集まってきやすいものなんだよ。優等生は優等生なりに、気苦労の多い人生を送っているのさ。いつも人に注目されているから、行動一つ一つに責任を持たなきゃならないし、八方美人やってるうちに、自分が一番やりたいことも分からなくなる。そのくせ凡人からは、そんな苦労も全く理解されず、やっかみの目で見られるばかり。あんたが思うほど楽しい人生じゃないってことさ。一人前の男なら、そのくらい分からないでどうするんだい」
 初めのうちは大人しく耳を傾けていた様子のオーレリーだったが、少しずつその顔に翳りが差し始めた。怒りに濡れ始めた瞳の奥に、絶望の色が滲む。それに気づいて魔女は軽く驚いたが、再度口を開く間もなく、オーレリーはさっと踵を返した。
「何も分かっていないのはあなたの方だ」
 沼の底のような重暗い彼の声に、魔女は動けなかった。
「兄の苦労については、人一倍理解しているつもりです。いつも真っ直ぐ胸を張って、揺るぎなく歩いていく兄を、僕は尊敬している。それでも、ふと気づけば、心の弱さから兄を妬んでしまいそうになるんです。兄はこれまで、僕が欲しくて手に入れられなかったものを、たくさん手に入れてきました。今度もそうなるんじゃないかと思うと、不安に押しつぶされそうになってしまって、自分でも呆れるくらいに、どうしようもない」
 オーレリーは強く拳を握り、それからわずかに振り返った。
「あなただけは、兄に渡したくないんです」
「な……」
 最近のオーレリーの情緒不安定ぶりは、兄への劣等感に加え、魔女の存在が火に油を注いでいるからだと言うのか。魔女はらしくもなく、顔に熱が集まるのを感じた。そこまで想われれば、もはや本望というやつだろうか。――いやいやいや! 冗談じゃない。魔女の魔女による魔女のための魔女暮らしに、そんな要素はこれっぽっちも必要ないのだ!
「すみません、頭を冷やして出直して来ます」
 オーレリーは一言だけ言い置くと、それ以上は振り返ることなく、洞窟から去って行った。


 それから暫く、オーレリーは洞窟に姿を見せなかった。
 魔女は一人、魔術研究に没頭した。邪魔する輩がいないお陰で、研究が進む進む。進み過ぎて、怪しげな魔道具やら魔道薬やらが洞窟中に溢れかえってしまう始末だ。ここ最近洞窟の外の森でのびのび暮らしていたらしいカラスが久しぶりに顔を見せたが、洞窟内の魑魅魍魎ぶりに辟易したらしく、まもなく再び姿を消してしまった。
「これは……、ご近所におすそ分けしたいくらいだね」
 魔女は出来上がった魔道具類の山を眺め、自嘲気味に呟いた。
 オーレリーを本格的に怒らせてから、三日が過ぎた頃だ。その間、あの若者のことはあまり考えないようにしてきたが、こうして一息ついてしまうと、嫌が応でも思い出さずにはいられなかった。
 あれからオーレリーはどうしているだろうか。魔女との言い争いなどすっかり忘れて、あっけらかんと日々過ごしている……とは、どうにも考えにくい。彼の執念深さは、花売り娘への恋煩いの件からこちら、嫌というほど思い知らされている。
 さりとて、いつまでも落ち込んだままでいるような性格でもないはずだ。あれは、基本的にじっとしているのが苦手な男だ。どんなに不利な状況であろうと、自ら動くことを躊躇わない。そういう彼の真っ直ぐな気質は美徳であると、魔女は素直に認めている。巻き込まれる側にとっては溜まったものじゃない、とも常々思ってはいるが。

「おい、何をのんびりしているんだ」

 その時、ずかずかと足音も荒く洞窟内へやって来る人影があった。
 ユーベルである。
 普段人目を忍んで質素な出で立ちで通ってくるのとは正反対に、今日はやけに上品な格好をしている。黒を基調にした上下は仕立てのいい生地であることが一目瞭然であるし、足元の靴も、服に劣らずぴかぴかに磨き上げられた本革の高級品だ。
 そんな彼のいでたちを見て、魔女は瞬時に悪寒を覚えた。
 これは、いかにも面倒な問題が降りかかるに違いない。
 ユーベルは洞窟内をぐるりと見渡すと、山と積まれた魔道具類に一瞬言葉を詰まらせたが、わざわざ話題に乗せるつもりはないようで、すぐに魔女に向き直った。
「お前は、またそんな婆の格好をしているのか」
「何だい、今日は授業の日じゃないはずだろう」
「お前こそ何を言っている。すぐに屋敷に向かわないと、間に合わないぞ」
「はあ!?」
 一体何の話がおっ始まったというのか。魔女が思いきりと眉間に皺を寄せると、それだけで状況を察知したらしいユーベルは、右手でこめかみを押さえ、深く息を吐いた。
「……あの馬鹿。話してなかったのか」
 魔女は魔女で、そんな彼の挙動から、何となく状況が呑み込めてしまう。
 思い返せば、オーレリーが最後に魔女のもとを訪れた際に、領主から依頼事があると言っていたはずだ。あの後、険悪な雰囲気になってしまって結局話は聞けずじまいだったが、今まさにその「依頼事」の関係でユーベルがやって来たのだろう。しかも、どうやら相当切羽詰まった状況のようだ。
「よく分からないが、今日は忙しいんでね。依頼があるならまた次の機会にしてもらおうか」
 詳しく聞けば逃れられなくなる。魔女は詳細を聞くことを放棄して、しっしとユーベルを追い払う仕草をした。が、向こうは向こうで、そんなことで身を引くような殊勝な性格ではない。
「森の果ての洞窟に引きこもっている世捨て人に、どんな急用があるというんだ。――もういい、とにかくついてきてもらうぞ」
 ユーベルは強い力で魔女の手首を掴むと、そのままずるずる引きずり始めた。本物の老婆であれば、今の一掴みで間違いなく手首の骨がいかれていたはずである。もちろん魔女は大仰に抗議の声を上げた。
「何するんだい! 老人虐待だよ!」
「それは心外だ。そうならないよう、さっさとその変化を解け」
 ユーベルにじろりと睨みつけられると、それだけで魔女の視界がぐらりと揺れる。目の前の景色が歪み始め、嗚咽が胸をつくのである。――この男、強制的に魔女の術を解きにかかっている。
「やめないか、ユーベル! 魔術の師に向かって横暴な!」
「どのみち、今回ばかりは老婆のお前では困る。俺はオーレリーと違って、絶望的な熟女趣味だと誤解されるのは我慢ならないからな。無理やり術を解かれるのが嫌なら、自分で元の姿に戻ることだ」
「だから一体、それはどういう……」
 言いながらも、辛抱たまらず魔女は変化の術を解いた。途端に、その身を押しつぶすような重圧から解放されて、魔女はほっと息をつく。しかし、理不尽なやりように、怒りだけは収まるはずもない。
「手を離しな!」
 魔女は厳しく一喝すると、腕を掴んだままのユーベルの手元に雷(いかずち)を走らせた。弾ける光はほんの一瞬。すぐにユーベルによって雷は消滅させられてしまう。ここ最近、相手の術を消滅させる技にどんどん磨きをかけているユーベルだ。魔女にとっても、いささか分が悪い。
 それでもさすがに彼は魔女から手を離した。
「痛いな、何をするんだ」
「それはこっちの台詞だよ。訳も分からず誰があんたについていくもんか!」
「全く……」
 ユーベルは心底面倒くさそうに首を振った。
「だからオーレリーの奴に、話をつけるよう言っておいたのに」
 その言いようは何なのだ。まるで魔女が、オーレリーの頼み事ならば何でもほいほい引き受けるかのように聞こえるではないか。
「これからうちの屋敷で、各地の領主を招いてのパーティーが開催される。お前には、俺のパートナーとして同席してもらいたい」
「はああああ!!??」
 魔女は腹の底から声を上げた。上げずにいられようか。
 領主の館でパーティー。その息子のパートナー役として同席。
 ――冗談じゃない。
「何で私がそんなこと。分かっているだろうが、死んでもご免だ!」
「ここまで来たら乗りかかった船だと思って、付き合ってもらうほかないな」
「ここまでもどこまでもない! 船に乗りかかった覚えはこれっぽっちもないよ!」
「この間、母が毒殺されかかった事件があっただろう。未だ真相の分からない中で、招待状こそ出しているとはいえ、不特定多数の集まるパーティーを開催するのはあまりに危険だ。魔術を操る輩が再び母を狙わないとも限らない。お前には、そういう不審な人物が会場に潜んでいないか、俺と共に監視してもらいたいんだ」
「そんなパーティー、そもそも開催しなけりゃいいじゃないか」
「そういうわけにはいかない。引きこもりの魔女とはいえ、このパーティーがどんなものかくらいは知っているだろう」
 ユーベルの指摘に、魔女は言葉を詰まらせた。
 この国では、古くより、各地の領主たちが持ち回りで一年に一度、地方の上流階級を招いての大規模なパーティーを開く習わしがある。領主の数は全部で八人だから、八年に一度はお鉢が回ってくる計算だ。順番がやってくれば、各領主は己の権力と財力をこれでもかというほどつぎ込んで、豪華絢爛な催しを開催する。贅を尽くしたパーティーは、一年の娯楽をその一日に凝縮したとさえ言われるほどだ。
 裏を覗けば、領主たちに散財させたい王家の思惑が見てとれる嫌らしい習わしなのだが、やるからには領主たちも本気を出す。彼らにとって、見栄を飾るはすなわち矜持を守ることと同義なのだ。
 もちろん、魔女にとってはそんなパーティーなど全くもってどうでもいい。見栄も矜持もカラスの餌にくれてやる。金の杯で酒など飲まずとも、木の器で泉の水が飲めればそれで十分。
「もうパーティーの開催まで時間がない。すぐに向かうぞ」
 ユーベルが当然のように魔女を急かした。この男も、ある程度物の道理が分かっているとはいえ、やはり支配階級の人間なのだ。人にものを命ずることに、いささかの疑問も抱いていない。
「オーレリーはあんたを尊敬すべき完璧な兄だと言っていたが、そうでもないね」
 呆れたように言ってやると、ぴくりとユーベルが片眉を上げた。
「あのオーレリーだって、人に何かをして欲しい時、きちんと相手と同じ目線に立って『お願い』することができるっていうのに。あんたのそれは何なんだい?」
 魔女は腕を組んで鼻を鳴らしてやった。少しは堪えた表情を見せるかと思いきや、ユーベルはしばし無表情で魔女を見つめていたかと思うと、ふっと口の端を上げて笑った。
「……そうだな。俺はあいつのように、人の懐に飛び込んでいく術を知らない。こちらが頼まずとも、向こうから自分を使ってくれと人が群がってくる。これまでずっと、そうだった」
 それはどこか自嘲的な響きを持って魔女に届いた。
「……言っとくが、私はそんな『ご親切な』人間じゃないからね」
「そのようだ」
 ユーベルは降参だとでもいうように、肩をすくめた。
「――頼む。俺たちに、力を貸してくれ」