03.

 ああ、なんて。まるで夢のような世界。
 もし魔女が普通の町娘であったならば、目の前に広がる光景をして、そう感嘆せずにはいられなかったであろう。
 煌めく無数のシャンデリア。磨き抜かれた曇りのない大理石の床。精巧な彫刻で形作られた柱やアーチ。その合間を、赤に黄色、紫に青と、色とりどりのドレスを身にまとった女性たちが軽やかに通り過ぎていく。魔道具を大量に用意したのであろう、夜の帳はとうに降りたというのに、眩しいほどの照明が建物全体を包み込んでいる。ほのかな熱気も、魅惑的な香水の香りも、全てが気持ちを浮き立たせる調味料になる。
 これが、一貴族の催す舞踏会なのか。
 魔女は半ば呆れながら、目の前の光景にしばし見入った。

 今夜の魔女は、不本意ながらも他の淑女たちと同様、宝石をちりばめたキラキラのドレスを身にまとっている。もちろん、老婆の姿ではない。こちらも死ぬほど不本意ながら、十代の娘の姿で――そう、変化の術は解いているのだ。
(全くもう、落ち着かないったらないよ)
 透きとおりそうなプラチナブロンドの髪は緩やかにまとめ上げられ、首筋が何とも心許ない。それに、羽のように軽やかなドレスが足にまとわりつくたびに、いつもの黒いローブが恋しくてたまらなくなる。
 魔女は密かに溜め息をついた。
 ユーベルに頭を下げさせることに成功してしまった魔女は、その流れで舞踏会のパートナー役を引き受ける羽目になってしまったのだ。あの時、あの流れに会話を持ち込んだのは、完全に魔女の落ち度だった。ユーベルは初めからああやって頼み込むことも勘定に入れていたのかもしれない。
「その不機嫌そうな表情を引っ込めろ」
 隣に立つユーベルが、小声で魔女をたしなめた。
 豪華絢爛な舞踏会の様子を見て、魔女が感動しているのではなく、呆れかえっていることに、彼は目ざとくも気づいていたらしい。しかし、人の顔ぐらいは好きにさせてほしいものだ。
「いやはや全く、ここまでど派手とはね。金ってのは、あるところにはあるもんだ。恐れ入ったよ」
「俺たちだって、できることなら堅実に蓄えておきたいところなんだ。この舞踏会で喜んでいるのは、金も責任も無用で騒いでいる招待客の方だろう」
「あんたのその苦虫噛み潰したような表情も、引っ込めた方がいいんじゃないかい」
 冷ややかに言ってから、魔女はそっと口を閉ざした。
 領主の挨拶が始まったのだ。
 相変わらず平和ボケした、穏やかな顔の領主。しかしこうした場には慣れたもので、挨拶をする声も、普段は猫背気味のその背筋も、ピンと糸が張ったように伸びている。彼の傍らに立つ妻――ユーベルたちの母親は、やはりはっとするほど美しかった。舞踏会に対する不安など露も見せない悠然とした笑みは、絵に仕立て上げたいほど完璧だ。
 側に控える彼らの長男は、なるほど聞いていたとおりとことん父親似だ。隣に美しい妻を従えている辺り、父親の“手腕”をもしっかり受け継いだらしい。
 そして、更にその隣にオーレリー。
 久しぶりに彼を見た気がするものの、よくよく日にちを数えてみればまだ一週間も経っていない。それで久しぶりだなどと感じてしまう自分の感覚に、魔女はぶるりと身を震わせた。そんな魔女には一瞥もくれず、オーレリーは母親によく似た微笑を浮かべて父の挨拶に聞き入っている。魔女がユーベルにエスコートされるのを黙って見ているはずがないと思っていたので、魔女としては少々肩透かしを食らった気分だ。はてさて、彼は何を考えているのだろうか。
 やがて領主の挨拶は終わり、夫婦が揃って踊り始めた。長男夫婦もそれに続く。ユーベル、オーレリーは手拍子を送るのみだ。その流れで招待客たちも次々にフロアの中心に躍り出て、一気に場は華やいだものになった。

 舞踏会の始まりだ。

 魔女は改めて辺りを見まわした。
 まるで揃いの仮面を張りつけたように笑顔を振りまいている招待客たち。空々しい笑い声があちこちから沸き起こり、それが音楽家たちの演奏と相まって、不協和音のように響いていた。
 それだけではない。どうにも先ほどから身に刺さる、鋭く熱い視線の数々に気づかないはずがなかった。視線の主はうら若い令嬢方だ。もちろん彼女たちの目当ては、魔女の隣に佇んでいるユーベルに決まっている。
 この一家の見目麗しい次男と三男は、結婚適齢期でありながら、未だ独身。領主の地位こそ既婚の長男が継ぐだろうが、次男三男とて一流貴族の一員であることには変わりない。とくれば、彼らのどちらでもいいから獲得したいと目論む令嬢たちは多いことだろう。むしろ、この場にいる未婚の娘たちは全員その心積もりで“参戦”しているのかもしれない。
 ユーベルの表情が先程から冴えないのも、それを自覚しているからに違いなかった。これまでも、同じ類のパーティーが開かれるたびに、舌なめずりをする狼の群れに囲まれた仔羊気分を味わってきたのだろう。
「これは、追加料金を貰わなきゃならないね」
「なんだって?」
「体のいい虫除け代わりに使われるだなんて聞いてないんだが、あんた、初めからそのつもりだったろう。母親の身辺警護よりもそっちの方が骨の折れる仕事になりそうだよ」
「……まあ、否定はしない」
 ユーベルが、珍しくばつの悪そうな顔で視線を逸らした。
「こうもご令嬢方の殺気のこもった視線を受けてちゃ、暗殺者が紛れ込んでいても気づけそうにないよ。ユーベル、あんた自分で頑張るこったね」
「いや、本依頼の方を疎かにしてもらっては困る」
 慌てた様子で魔女を制するユーベルが、いつになく若者らしいのが面白い。
 そう、正式な仕事は、彼ら兄弟の母親の護衛だ。どこぞの魔術師が再び密やかな罠を仕掛けてきやしないか、魔女は慎重に見極めなければならない。
 だがしかし、冗談ではなくそれは難しい作業になりそうだった。なにせ、微かな魔力の気配ならば、先程から途切れることなく漂っているのだ。どうやら、招待客の中に、媚薬代わりの香水をまとっている人間が何人もいるらしい。
「はあ、全く。この兄弟も、よくも今日まで無事だったもんだよ」
「え?」
「いいや、別に。それより、犯人の目星はまだついていないのかい?」
 それとなくホールの中を歩きながら、魔女はユーベルに問いかけた。前回の暗殺未遂からそれほど時間は経っていないが、彼らも事件をほったらかしにしているわけではないだろう。
 するとユーベルは、一瞬言葉を詰まらせてから、曖昧に頷いた。
「そうだ……と、思う」
「なんだい、その煮えきらない答えは」
「いや、実際全く見当はついていない。だが、母の様子が少しおかしいんだ。母自身も身に覚えがないと言っているが、どうも歯切れが悪い」
「ふうん、言いづらいこととくれば、過去の男関連かねえ?」
 なにせあの美女っぷりだ。若い頃に一つや二つや三つくらい、火遊びをやらかしていたとしても不思議はあるまい。例えば、彼女に捨てられ恨んでいた男の犯行という線もあり得よう。だが、それならば何故犯人は「今」動いたのか。どうせなら、彼女が領主と結婚した時だとか、子供が生まれた時だとかに狙いを定めてきそうなものだが。
 魔女が難しい顔で考えている間にも、パーティーはますます盛況になっていく。老若男女入り乱れ……と思いきや、若い娘の比率が異様に多いようだ。しかも、オーレリーの方は「虫除け」がいないせいですでに娘たちに囲い込まれている。
「あんたたち兄弟も、女遊びはほどほどにね。後で痛い目を見るよ」
「ご忠告どうも」
 ユーベルは肩をすくめた。
「ユーベル殿、お久しぶりですな」
 そんな中、一際恰幅のいい中年男性がユーベルに声をかけてきた。手入れに数時間は費やしていそうな艶やかな黒ひげが嫌でも目に留まる。
「モンクリフ卿、これはどうも。ご挨拶にお伺いするのが遅れて申し訳ありません」
「いやいや、舞踏会は始まったばかりではないですか。私の方が、つい待ち切れずにお声かけしてしまっただけ。申し訳ない、はっはっは!」
 どこに笑いどころがあったのだろうか。魔女は心の中で突っ込みつつも、大人しくユーベルの後ろに控えて様子を見ていた。その魔女に、黒ひげ貴族がちらりと視線を寄こす。
「ユーベル殿が特定の女性をエスコートされているとは珍しい。ご紹介いただけますかな?」
 来た、これだ。これが面倒だったのだ。魔女はげんなりした気持ちが顔に出ぬよう、懸命に表情を引き締めた。
「ええ、彼女は私の友人の妹君で、エリザベス=マーラント嬢です。彼女の兄の代わりに、本日は私がエスコートを。エリザベス、こちらは私の父のご友人の、モンクリフ卿です」
「初めまして、エリザベスと申します」
 魔女は黒ひげ貴族に向かってにっこりと微笑んでやった。エリザベスの偽名に猛烈な反発心が湧きおこるが、ここで文句を言っても仕方がない。
「これはまた美しいお嬢さんだ! しかし、ご友人に代わってのエスコートですか。私はてっきり、ついにユーベル殿もお心を決められたのかと」
「まだまだ若輩者ですから、先のことは……」
 ユーベルのその答えを聞くや否や、黒ひげは満面の笑みを浮かべて頷いた。そしてくるりと後ろを振り返ったかと思うと、「アリッサ、こちらへ来なさい!」と若い娘に呼びかけたのだ。魔女は頬が引きつるのをとうとう抑えられなかった。黒ひげが呼び寄せたのは、明らかに彼の娘だ。なるほど、父親自らユーベルに探りを入れて、隣の女が婚約者でも何でもないと分かったら、今度はここぞとばかりに自分の娘を推薦しようという腹か。
「ユーベル様、お久しぶりですわ。わたくしのことを憶えていらっしゃるかしら」
 自信たっぷりに現れた黒ひげの娘は、なるほど父親とは似ても似つかずかなりの美女だ。それでもユーベルはまるで心動かされた様子はないようで、付き合いの浅い魔女にも分かるほど他人行儀な笑みと共に、二、三の受け答えをするに留めていた。
「それでは、モンクリフ卿、アリッサ嬢、どうぞ本日はお楽しみください」
 白々しいが、とろけるように甘い笑みを、ユーベルは彼らに向けて披露した。それが置き土産だというように、ユーベルは魔女の手を取ると、見せつけるようにしてその場を立ち去ってしまう。
「……一晩中あんなことを繰り返すってのかい。独身貴族サマも大変なこって」
「それでも今日はお前がいる分だけまだマシだな」
 ちらりとフロアの一角に目をやると、オーレリーがいるらしき辺りには相変わらずの娘の山ができたままだ。
「今夜は、ああいう手合いはオーレリーがまとめて引き受けることになっている」
「オーレリーも、よく了承したもんだね」
「元々人当たりのいいやつだからな、相手を適度にあしらうのも上手いし、それほど苦にもならないようだ。それに今は母親の身の安全がかかっているし、与えられた役割に文句を言うほどあいつも馬鹿じゃない」
「なるほどねぇ、なら、こっちはこっちで気合いを入れなきゃね」

 ――とは言ったものの。
 それですぐに動きが起こるわけでもなかった。
 ごくごく普通の――普通よりはずっと豪華で贅沢だが――舞踏会だ。魔女の耳に届くのは、途切れることなく続く音楽、談笑の声、ステップを踏むヒールの音ばかり。それに加え、媚薬の魔力が魔女を煙に巻こうとするせいで、本当に、感覚がおかしくなってしまいそうだった。
 げんなりしている魔女を見かねたのだろうか、少し休もうと提案したユーベルの言葉に頷き、魔女は壁際に設置された椅子に腰掛けた。彼が飲み物を取ってきてくれるというので、それに甘える。
 魔女は一人、ぼんやりとフロアを眺めた。人垣の間に覗いたオーレリーの表情が、屈託のない明るい笑顔であることにかすかに尻込みする。
 確かにあれはああいう男だ。人たらし、とでも言えばいいのだろうか。すぐに相手と打ち解けられるだけでなく、もしも相手が女性であったなら、自分が少し特別な存在なのだと感じさせるような、甘やかな接し方で、ごくごく自然に振る舞うのだ。
 それはきっと、魔女でなくても同じこと。
(私の場合は、オーレリーを拒絶したから。それであれは、ムキになってるんだ)
 彼が花屋の看板娘に恋をしていた時も同じ。マーレは初めからオーレリーを全く受け入れなかったから、彼はきっと意固地になった。ならば、もしまた新しく、彼を拒絶する風変わりな存在が現れたら……?
(……)
 どうでもいい。そう割り切ろうとするのに、胸の中に広がる靄(もや)が晴れてくれない。
 何がこんなに引っかかるのか。
 引っかかる――引っかかる、魔女の感覚に。
「!」
 魔女は不意に顔を上げた。
 場の空気が微かに変わったのだ。
 ほんのり、いたずら程度の媚薬の香りなどではない。はっきりとした魔力の流れが、今、明らかにこのフロアの中に入り込んだ。
「おい」
 グラスを手に、ユーベルが早足で戻ってくる。彼の表情にも緊張が走っていた。
「向こうで気になる男を見かけた。どうも、いつものお前のように、姿を偽っているように感じる」
 やはり、気のせいではない。魔女は頷いて立ち上がった。