05.

「お取り込み中申し訳ないが」
 魔女は険のある声で二人に話しかけた。いかにも不機嫌そうなその声は、思った以上に周囲に響いてしまったようだ。当人たちよりも、周りのカップル達のほうがよほど敏感にこちらへ視線を向けた。
 一方で、目当ての二人は、どこかのんびりとした様子で魔女を振り返る。
 ようやくオーレリーと真正面から向き合った魔女は、彼の顔を見るなりぐっと眉をしかめた。
 いつもはうざったいばかりにキラキラと輝いているオーレリーの瞳が、今はどこか虚ろだった。目の前の魔女を魔女とも認識していないのかもしれない。正気とはほど遠いところに彼の意識があることは、魔に通じる者ならば一目で分かるに違いなかった。
 恐らくは、魅了の術にかかっているのだ。
「あら、わたくし達に何かご用でしょうか」
 軽やかな声がして、魔女は視線を隣へ移した。オーレリーにぴったりと寄り添っている可愛らしい令嬢が、大きな瞳を瞬きながら魔女を見つめている。
 まだ少女の域を出ない、あどけない表情だ。人形めいて整った目鼻立ちに、魔女は密かに吐き気を覚えた。この令嬢の姿が仮初のものであることは、魔女とてすっかり承知しているのだ。この美少女の仮面の下を、ぜひとも拝んでみたいところである。
 そもそも、なにもかもを承知ですっとぼけた様子を見せる、人を食ったこの女の態度が一番魔女の気に食わなかった。魔女はずいと一歩を踏み出すと、悪びれた様子のない令嬢をきつく睨みつける。
「趣味の悪いお遊びはそこらにして、この坊ちゃんを返してもらおうか」
「まあ、突然現れて、あなた一体何なんですの?」
 令嬢は突然の乱入者に怯えたように、オーレリーの腕へとしがみついた。どうやらまだこの馬鹿げた茶番を続けるつもりらしい。オーレリーはと言えば、呆けたまま、全くの無反応だ。そんな二人の様子を眺めつつ、魔女はゆっくりと息を吐いた。
「あんたがどこの誰で、一体なにを企んでいるのか知らないが」
 これ以上怒りに任てせ言葉を荒げては、そこに付け込まれる。魔女は努めて冷静に続けた。
「領主一家に害をなすというのなら、黙っているわけにもいかないんだよ。……不本意ながら、領主様より直々に害虫駆除のご依頼を仰せつかっているものでね」
「何を仰っているのか分かりませんわ」
 令嬢は不意に瞳を細め、不遜な笑みを浮かべた。
「オーレリー様とは、心通じ合った仲なんですの。部外者であるあなたにどうこう言われる筋合いはありませんわ。それに、彼は約束してくださったのよ。わたくしのためなら何でもしてくださるって」
「ほう。それで、一体何をさせようっていうんだい」
「そうねえ……」
 令嬢の笑みがますます深いものになっていく。オーレリーの肩にしなだれかかるようにして、彼の無表情を下から覗き込むその仕草が、魔女をますます苛立たせた。
「まずは、彼のお母様にわたくしを紹介して頂こうかしら」
「なるほど」
 令嬢は明らかに魔女を見下し、挑発していた。しかしそれでいて、全くの見当はずれな応えを寄こしているわけでもなさそうだった。今の一言で、魔女は彼女の思惑を知る。
 やはりこの女は、以前オーレリーの母を毒殺しようとした「何者か」の一味――もしくは首謀者――なのだ。そして恐らく、領主一族ならば誰でもいいのではなく、目標はオーレリーの母ただ一人。彼女に対する警護が厳しい中、まずはオーレリーを術中にはめ、彼を人質として目標へ迫ろうという魂胆なのだろう。
 そうまでしてオーレリーの母の命を狙う目的は分からない。だが、今この場で重要なのは目的ではなかった。目的を達成させないために、この女を止める。それだけできれば十分だ。
 ――だが。
「オーレリー」
 魔女は強い口調で目の前の男の名を呼んだ。もちろんただ呼びかけたのではない。言葉に魔女の魔力を注いでいる。名は、人を縛る強い力を持つものだ。もしかしたら、呼びかけることで彼が正気に戻るかもしれないという淡い期待を込めてのことだった。
 しかし、彼はほんのわずかに魔女へ視線を寄こしただけで、再び焦点の合わない虚ろな瞳でまぶたをふせてしまった。
「……」
 よくない状況だ。オーレリーを人質に取られた状態では、この女を止めるのは難しい。
 とはいえ、オーレリーにかけられている術は簡単に解ける類のものではないようだった。またしても、魔女は己の選択を後悔する羽目になる。この場にユーベルも連れていたら、彼の力で魅了の術を無理やり解くことだってできたかもしれないのに。
 だがしかし、どうしようもないことを今嘆いていたって仕方がない。
 他に方法はないのか。例えば、この女が抵抗する間も与えず、一撃を食らわせることはできないだろうか。……いや、魅了の術にかかっているオーレリーが彼女を庇いに出れば、オーレリーが大けがをすることになってしまう。ならば、気付かれぬよう相手に麻痺の魔術をかけてやるのは? ああ、それも駄目だ。女の胸元で輝いているネックレス。キラキラと眩い煌めきを放つトップの宝石はおそらくペリスナル、体内に作用する魔術を防御する効能を持っていたはずだ。では、一旦大人しく彼女に従い、オーレリーの母のもとへ連れていくか。そこにはユーベルがいるはずだ、彼にオーレリーへかけられた術を瞬時に解いてもらい、それから――。駄目だ! やはりそれも危険すぎる。この女は以前の毒殺の使用人とは違って、どうやら只者ではない。目標の目の前まで連れていって、果たして首尾よく彼女を抑え込むことができるかどうか……。
「オーレリー、そんな女の隣にいないで、こっちへ来な」
 目まぐるしく考えながら、魔女はオーレリーへ再度声をかけた。返事が返ってくるとは思っていない。ただ、今のこの時間を少しでも引き延ばしたい。
 やはり一言も口をきかないオーレリーを尻目に、魔女は状況をじっくりと観察した。
 そういえば、オーレリーの正装を見るのはこれが初めてだった。深いブラウンの上下は、オーレリーの明るい気質に馴染むいい色だ。それほど派手な装飾はなく、全体的にシンプルな仕上がり。確かに普段からオーレリーの出で立ちは簡素なものが多かった――もちろん使われる布地は最高級のものばかりだが。
 そんな彼だからこそ、魔女にはある一点が気にかかった。
 彼の右手の中指にはめられた指輪。いかにも貴族らしい今夜の正装には、それでも地味に感じられるささやかなアクセントに過ぎないのだが、オーレリーがはめているとなると、どうにも違和感があった。
 オーレリーは、魔女の知る限り、普段そうした装飾類を全く身につけない人間だ。曰く、腕輪やら指輪やらの装飾具は窮屈に感じられて好きではないらしい。あなたと交わす指輪ならば一生死んでも外しませんが――などとのたまってもいたが――まあそんなことはどうでもいい。
「オーレリー、私の声が聞こえていないのかい」
「無駄よ、諦めなさいな」
 令嬢は勝ち誇ったように魔女に言い放った。それは魔女を魔術で出し抜いたという術者としての自信よりも、見目のよい若い男を手中に収めてやったという女の喜びの方が勝って聞こえた。
「……やれやれ、全く。今日は踊らされてばかりだね、本当に」
 魔女が静かに呟いたときだ。空で静かに成り行きを見守っていた明るい月に、影が差し始めた。月を覆った雲が、気まぐれな小さな流れ者などではなく――とてつもなく大きな雨雲であると気付いた者は、果たしてその場にいたであろうか。
 しかし程なくして雨のしずくが降り注ぎ始めると、否が応でもテラスにいた全員が夜空を見上げることとなった。雨かしら、誰かが呟いたその一言に応えるように、あっという間に本降りとなる。
「まあ嫌だわ、オーレリー様、室内へ戻りましょう」
 甘えた声で令嬢がオーレリーの腕を引いた。大慌てで退散していく他のカップル達を見送りながら、だがしかし、オーレリーはゆっくりと首を横に振る。
「このまま、ここに残ります」
 彼が賛同しなかったことがよほど意外だったのだろう。令嬢は零れ落ちんばかりに目を見開いた。
「何を言っているの? せっかくのドレスが台無しになってしまうわ。戻るのよ、オーレリー」
 令嬢が言葉に魔力を込めたのが、魔女にも伝わった。こうなれば、魅了の術にかかっているオーレリーに拒絶などできようもない……はずだったのだが。
 令嬢をひたと見すえた彼の瞳には、いつの間にやらしっかりとした意思の光が戻っていた。
「いえ、残ります。僕の愛しい人のためならば、僕は濡れ鼠になろうと泥まみれになろうと構いませんから」
「オーレリー!?」
 令嬢の怒りをはらんだ声は、覆いかぶさるように響いた雷鳴にすっかりかき消された。叩きつけるような横殴りの雨に、獲物を狙っているかのごとく幾度となく呻いている雷の嫌な怒号。魔女は無言で目の前の女を睨み続けた。
 ――ここまでの大掛かりな術を行使するのは久しぶりのことだ。
 気を抜くことは、できない。
 オーレリーはやけに紳士的な手つきで令嬢の肩に己の両手を添えた。あくまで恋人を労わるような優しい手つきに、令嬢は一瞬怒りを忘れたように彼を見上げた。だが、オーレリーは優しい笑顔のままに、肩に添えた手に力を込める。
「やめてオーレリー、痛いわ!」
 令嬢の悲鳴に似た抗議の声にも、オーレリーはまるで耳を貸さなかった。
 魔女は右手を空へとかざす。瞬間、待っていたとばかりに雷鳴が一際大きく轟いた。そのまま一閃、神の鉄槌がごとく乱暴な煌めきが魔女の指先へ降り立つ。耳をつんざくような音と光の衝撃に、令嬢は身を引きかけた。だが、オーレリーがそれを許さない。
「あんたが何を企んでいるのか、私は何も知らないが」
 魔女は冷静な声音を崩さず令嬢へ言い放った。
「これだけ不快な思いを味わったのは久しぶりだよ。理由はそれだけで十分だね? ――さあ」
 右手にほとばしる雷(いかずち)が、解き放たれる瞬間を待って落ち着かない。
「覚悟しな」
 とっさに令嬢が結界を貼ろうと動いたのが魔女の視界に入った。だが、オーレリーが彼女を羽交い絞めにしたせいで、術の行使もままならなかったようだ。令嬢は可愛らしい顔立ちに似合わぬ驚愕の表情を浮かべた。雷をまとった魔女の右手が令嬢の胸元へ一気に伸びる。
「うっ!!」
 一切の遠慮をせず、魔女は令嬢へ雷を放った。激しい電流が彼女の身の内で暴れ回る。感電しそうになったオーレリーが、素早く令嬢から身を離した。彼女はまだ何かの術を行使しようとしたらしい。声にならない声で何事かを呟いていたが、到底術を象ることはできなかった。
「この人は、大丈夫なんですか?」
 どこまでもお人好しなオーレリーが魔女へと問いかける。魔女はふんと鼻を鳴らした。
「死にはしないよ。この女も魔女のはしくれならね」
 散々こちらを無視した挙句に、久しぶりの第一声がこの女の心配事か。魔女はどうにも面白くない。それでも若干術の威力を弱めたその瞬間。令嬢は、どてりと地面に倒れ込んだかと思うと、四つん這いになってその場を逃げ出した。先程までの可憐な立ち居振る舞いはどこへやら。気が触れたのかと思うくらいの渾身の逃走ぶりである。とっさに魔女は彼女を捕らえようと動いたが、害虫のごときしぶとさを見せた彼女に競り負ける形となってしまった。
 令嬢は、テラスの手すりから身を乗り出し、そこから飛び降りた。
 あっと驚き駆け寄った魔女とオーレリーが見たのは、一羽の鳩がよろめきながら飛びさる後ろ姿だ。なおも雷をけしかけようとした魔女だったが、振り上げた右腕を強く掴まれ、止められた。オーレリーだ。
「あんた、邪魔するつもりかい!?」
「あなたが人を手にかけるのを見たくありません。あれほど弱っていれば、彼女もしばらく悪さはできないでしょう」
「まだ魅了の術が解けていないってのか」
 苛立ち紛れに食ってかかった魔女に、オーレリーは真剣な眼差しを向け、頭を振った。
「とんでもない。僕の心はもうずっとあなた一人のものなのですから」
 しとどに濡れた髪が、オーレリーの整った顔に張り付いている。それが妙に色っぽく見えて、魔女はつい怯んだ。いつの間にやら自分のすぐ側に佇んでいる彼から離れようとしたが、腕を取ったままの彼にぐいと身を引かれ、ますます互いの距離が縮んでしまった。
「リシュー、あなたが来てくれてよかった。すみません、本当は僕一人で、何とかあの魔女を皆から遠ざけようと思ったのですが……。このテラスへ移動するのが精一杯でした。本当に、僕はあなたに助けてもらってばかりだ。あなたなしでは生きられない」
 いつにも増して熱っぽく、またあざとい物言いだ。魔女はオーレリーの頭を思いきりはたいてやった。雨はようやく小ぶりになっている。
「そうこうしてる間にあの女が行っちまったじゃないか! 全く、あんたの母親が狙われているんだろ? 捕まえて全てを吐かせなけりゃあ意味がない!」
「それについては大丈夫です。……既にお気づきのようですが、この指輪を貸して下さったあなたのお師匠様が、事情についてもご存じのようでしたので」
 オーレリーは自らの右手にはめられていた指輪を抜き取り、空にかざした。
 何の変哲もないただの指輪に見える。だがやはり、思った通り、魔女の師匠ベリアメルが用意したものだったのか。精神に作用する魔術を無効化する指輪なのだろうが、流石は大魔女と謳われているだけのことはあって、こんなに近くで見ていても、込められた魔力を微塵も感じさせない。
 しかし今はそれよりも、オーレリーの言葉の方が気になった。
「あの人が事情を知っているって? ……そもそも、あんたがどうやってあの人と会えたんだい。向こうから声をかけてきたの?」
「いえ、僕の方から訪ねました」
「訪ねたって、あんた、あの人の存在自体知らなかったはずじゃ」
「実は前に、お師匠様と知り合う機会がありまして」
 オーレリーの話によると、以前彼が魔女への贈り物を探して怪しげな裏市場に足を踏み入れた時、たまたま立ち寄った天然石の店の主がベリアメルだったという。素人が裏市場に立ち入りなさんなと忠告をくれた彼女だったが、同時に、魔女の師匠だと名乗る彼女によって、魔女とオーレリーとの関係を根掘り葉掘り聞かれたという。
 むろん、「たまたま」店の主がベリアメルだった訳がない。ベリアメルが狙ってオーレリーとの接触を仕掛けたに違いないと魔女は思ったが、とりあえず黙っておいた。
 まあとにかく、その時は他愛もない世間話の域をでないまま、二人のちょっとした会偶は終わったのだが、オーレリーはその時のことをよく覚えていた。
 今回の舞踏会開催にあたって、何の役にも立てない自分なりに何かがしたいと思ったオーレリーは、ベリアメルに助力を請うことを考えついたのだ。再び件(くだん)の裏市場へ出向いたオーレリーだったが、市場の入り口近くにあったはずの天然石の店は、跡かたもなく消え去っていた。
 それから根性でベリアメルの居所を見つけ出し――魔女にも困難極まる所業をよくぞやってのけたものだ――かいつまんで事情を説明したオーレリーに彼女が譲ってくれたのが、この指輪だったというわけだ。見た目には相手の術中にはまったように見えるが、心までは支配されることはない、その性質を上手く使って相手を出しぬけ、と。当然指輪の対価を支払おうとしたオーレリーだったが、ベリアメルは受取ろうとはしなかった。「今回のことは、私にも無関係じゃないから」と。
「無関係じゃない?」
 素っ頓狂な声を上げた魔女に、オーレリーは頷いて見せた。
「さっきの彼女は、お師匠様の元弟子なのだそうです」
「なんだって!」
 ベリアメルの元弟子。つまり魔女にとっては元兄弟弟子! そんな存在がいたなんて、今までこれっぽっちも聞かされたことはない。
「どういうこと?」
「あまり話してはくださらなかったのですが、遠い昔に破門した、ディージアという名のはぐれ魔女なのだとか。今回彼女が母を狙っているのも、破門の理由と関わりがあるようです。詳しいことは母に直接聞くように言われました」
 なんと、思わぬところから真実が尻尾を見せたものだ。まさか今回の暗殺騒ぎに、魔女の師匠すら関わっていようとは。あの人は世界中の厄介事と関わりを持っていいるんじゃないか……魔女は目まいを覚えながら、そんなことを考えた。