06.

 頭のてっぺんから足のつま先までびしょ濡れになってしまった魔女たちは、ほうほうの体で室内へと逃げ込んだ。特に魔女などは、水を含んで重くなったドレスのせいで、歩くことすらままならない。自分で仕掛けた魔術の結果とはいえ、本当に今日は魔女にとって厄日である。
 二人の様子に気づいた使用人が大慌てで大判のタオルを持ってきてくれた。魔女は大人しくそれに包まり、ほっと一息をつく。この雷雨の中、まだ外でいちゃついていた男女がいたのかと、他の招待客たちの視線は冷たいものだ。全くの誤解だと大声で抗議したい魔女だったが、もはやそれすらも面倒くさい。もう、好きなように解釈してくれ。
「一度、服を着替えましょう。母のドレスで申し訳ありませんが、すぐに用意しますので」
 オーレリーの提案に、魔女は頷いた。彼はと言えば、頭からタオルを被って顔を隠している。さすがにこの状況下で領主の三男坊だと周囲に知れるのは、色々な意味で良くないだろう。それを言えば、魔女とて同じ。つい先程までユーベルにエスコートされていた身分なのだ、全く別の男とテラスで逢瀬を楽しんでいたなどと吹聴されては、ユーベルの顔を潰すことになってしまう。魔女もそそくさとタオルを被り、使用人達に促されるままフロアを後にした。

 借りたドレスは胸下で切り返しのある亜麻色のシンプルなもので、魔女にとっては最初に着ていたフリルまみれのドレスよりよほど身に馴染んだ。濡れた髪は魔術で起こした風であっという間に乾かし終え、再び一つにまとめ上げている。ソファに身を沈めるともう二度とそこから立ち上がれなさそうな気さえしたが、まだ後始末が残っていると自らに言い聞かせ、魔女はほどなくして立ち上がった。
 ちょうどそのタイミングでオーレリーが様子を伺いに顔を見せた。今度はモスグリーンと黒を上手く組み合わせた衣装を身にまとっており、先程までとはまた違った雰囲気だ。どこかやつれて見えるのは、さすがに今日一日の騒動で疲れが溜まったからか。
「少し落ち着かれましたか?」
「ああ、私は大丈夫」
 それよりも、オーレリーこそ先刻の雷のとばっちりを食らっていないかが若干気にかかった。直前まで魔女ディージアを羽交い絞めにしていたのだ、腕をやけどしていてもおかしくはない。そんな胸中とは裏腹に、素直に心配だと口には出せない魔女である。だがしかし、それもいたしかたのないことだ。魔女が自らの術に巻き込まれた人間を労わってやるなど、古今東西聞いたことがない!
「ゆっくりしてはいられないね。あんたの母親のもとへ向かおう」
 オーレリーの隣を通り過ぎざま、ちらりと腕の具合を確認する。どうやら問題はなさそうだ。
「ええ、母から事情を聞きましょう」
 そんな魔女の微妙な視線に気づくことなく、オーレリーは固い表情のまま頷いた。

 ダンスホールは、変わらず熱気に包まれている。
 テラスで繰り広げられていた魔女同士のいざこざなど、誰一人として知る由もない。このホールで繰り広げられているのは、男女の駆け引き、お家(いえ)の駆け引き、ああ、なんとも平和なことだ。
 ホールの最奥では領主夫妻が隣り合って腰掛け、楽しそうに皆のダンスを見守っている。その脇にはユーベル、そして真剣な眼差しの護衛たち。長男は妻を連れて、遅れてやって来た来客へ両親の代わりに挨拶をして回っているようだ。
 魔女とオーレリーは、人波を縫ってユーベルの元へと向かう。時折オーレリーに気付いて声をかけてくる者もあるが、オーレリーがその都度上手くあしらい、ほとんど足止めされることはなかった。いやはや、本当にこの男は人の扱いだけは上手い。
「兄上、ただいま戻りました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
 ユーベルの元まで辿り着いたオーレリーは、まず兄へ頭を下げた。
「どういう状況だったんだ」
「予想通り、敵はオーレリーを狙っていたようだよ。だが、オーレリーはそれを承知の上で、なるべく人気(ひとけ)のないところまで相手を誘い出していたんだ。まあ、結果としては、それでだいぶやりやすくなった」
 女の尻をほいほい追いかけていったと解釈されてもさすがにオーレリーが可哀想だ。魔女は二人の会話に割って入り、軽く釈明しておいた。
「ひとまず、敵は撃退した。――だが、まだこれで終わりじゃないよ。事情をあんた達の母親に詳しく聞かないことにはね」
 魔女のその台詞が聞こえていたのだろう。上座に腰掛けていた二人の母が、ホールに向かって浮かべていた笑みを引っ込め、魔女の方を振り返った。何もかもを承知している顔だ。
「魔女様、あなた様には大変なご迷惑をおかけしてしまいました。まさか私の息子達にまであの者の手が伸びるとは……。私一人の問題だと高をくくっておりました。全て、私の過ちでございます。魔女様、息子をお救い下さり本当にありがとうございました」
 そして彼女は立ち上がった。隣の夫に何事かを耳打ちし、上座からゆるりと降りる。
「場所を変えましょう。そちらで全て、お話しいたします」

 通された応接間は、すっかり人払いをしてあるらしく、魔女、オーレリー、ユーベル、そして彼ら兄弟の母親以外には誰もいなかった。
「父上には何と?」
「少し具合が優れないので休ませて頂きたいとお願いしました。あの方には、後ほど改めて、全てをお話します。この舞踏会の席で領主までもが下がってしまうわけにもいきませんから」
 兄弟二人は、無言のまま互いに目配せをした。母親の中に、夫にすら話していない深い秘密が隠されていたという事実は、二人を密かに打ちのめしたようだ。
「早速だけどね。あんたを狙っているのは、ディージアという魔女だそうだ。ひとまず何とか追い返しはしたが……あれは、どうにも性質の悪い魔女だよ。そんなもんに命を狙われるとは、一体何をやらかしたんだい?」
 ここまで来て腹の探り合いをしていても仕方がない。魔女は単刀直入に切り出した。
「ええ……」
 兄弟の母は、ふと視線を落としたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「私は、かつてあの魔女と契約を交わしたのです」
「契約?」
「はい。魔女様は既にお聞きおよびでしょうか。私の家は、代々魔力に恵まれた人間が生まれることの多い家系であると」
 魔女は頷いた。そういえば、オーレリーから聞いたことがある。ユーベルの類まれなる魔力は、母親の家系から引き継いだものに違いないと。
「しかし、魔女様もご存じの通り、魔術師というものは、王家直属にでもならない限り常に迫害の的とされてきました。昔は今よりももっとひどい差別がまかり通っていたものです。だからこそ、魔術師としての道を歩むと決めた人々は、彼ら独自の組織網を作り、一般人とは一線を画したところで生活をするようになりました。ただ、私の一族は曲がりなりにも貴族の家系でしたから、そういうわけにはいかなかったのです」
 魔女には彼女の話が良く分かる。魔を操る者は、長い歴史上、ずっと影に隠れた存在だった。
「私の家系で強い魔力を有する者、とりわけ女性は、非常に疎まれておりました。私も、本来であればその一人になるところだったのです。私は一族の中でも稀有なほどの魔力を有していましたので」
「母上、そうだったのですか……」
 オーレリーが呆然と呟いた。
「しかし私の両親は、一族の誰にも私の力のことを話しませんでした。どうにか隠し通そうと、常に心を砕いて下さった。幼い頃の私にはその意味を知るはずなどありませんでしたが、成長するにつれて、この力が恐ろしいものであると理解するようになったのです。普通の女性として暮らしていくのに、この力は必要ない。むしろ邪魔なものだと、思春期の頃には随分と思い悩みました」
 魔女ディージアが彼女の前に現れたのは、ちょうどそんな折だったという。
「ある日の夕方、避暑で訪れていた田舎町の川のほとりに、私は一人座りこんでいました。そこへあの魔女がやってきたのです。そうして私にこう持ちかけました。私の中にある魔力を、そっくり自分が引き受けてやろうか、と」
 他人の魔力を吸収し、我がものとする――そんな術は魔女とて聞いたことがない。魔女の疑惑の眼差しに気づいたのか、彼女は冷静に話を続けた。
「それが魔女の示した『契約』だったのですが、私も半信半疑でした。それに、魔女と契約を交わすだなんてこと自体が恐ろしかった。けれど、見返りは一切いらないと彼女は言い切りました。私は魔力を手放したい、彼女は強力な魔力を手に入れたい。互いの利害は一致しているのだから、彼女としてもそれ以上のものを望むべくもない。契約は今この場で履行され、もう二度と互いに出会うこともないし、恐れることは何もない。……それに、他人の魔力を引き受けるだなんていうのは秘術中の秘術で、他の誰にも真似できるものではない、とも。自分の申し出を受けなければお前は一生無駄な魔力を持て余して生きることになるのだと言われてしまい、私はついに頷きました」
 その後の流れはあまりよく憶えていない、と彼女は言った。
 気がつけば彼女は川のほとりに倒れていて、魔女ディージアの姿は消えていたという。気だるい体をゆっくり起こすと、いつも無理やり抑え込んでいた、溢れんばかりの魔力がすっかり消えてなくなっていることに、彼女は気がついた。
 その時は、飛び上がらんばかりに喜んだという。
 今のこの体の、何と軽いことか。誰にも自分が凄まじい魔力を宿した者だったなどと分かるまい。これから先は、一族の誰かに会うたびに息がつまりそうな思いをする必要もない。普通に結婚をして、普通に子供を産んで、普通に幸せな人生を歩む権利を手に入れたのだ!
 一人喜びに浸っていた彼女のもとに、不意に何者かが近づいてきた。振り返ると、そこに立っていたのは、先程の魔女とは別の、長い黒髪の若い女性だった。女性は冷たい眼差しで、浮かれる娘を見下ろしていた。ただ事でない気配に恐れをなし、身をすくめた彼女に、女性は淡々と告げた。
 ――哀れな娘。魔女との『契約』は恐ろしいものだというのに。
 どういうことかと恐る恐る尋ねれば、女性は平坦な声のまま先を続ける。
 ――あの術は、禁術だ。私があの魔女に使うことを禁じたものだよ。その上、あの魔女の術は未完全だった。このままでは終わるまいね。あの魔女もお前も、この先いつか、この契約のために苦しむ時がやってくるだろう。
「長い間、その言葉の意味は分からないままでした。私は普通の貴族の娘として暮らし、今の夫と出会い、結婚して……。三人の息子にも恵まれ、まさに思い描いていた通りの人生を歩むことができました。けれど、ここ数年で、私の体にある異変が起こり始めたのです」
「異変?」
 問いかけながらも、魔女には何となく先が見えた気がした。
「ええ。私の中に、魔力が戻り始めてしまったのです。まるで、干上がった泉に水が湧き戻るように……。恐ろしいのは、その泉が、もっともっとたくさんの水をと欲していることなのです。恐らくは、件の魔女の中にある魔力を、私の無意識が絞り取ろうとしているのではないかと思います。止めたくても止められない。むろん魔女の方でもそのことに気づいているでしょう。だからこそ、魔力の流出を止めるために、私を殺してしまおうとしているのに違いありません」
「……」
 遠い昔の『契約』。それが、時を経た今、再び二人の頭上から影を落とした――。
 魔女はそっと息を吐いてソファの背もたれに背中を預けた。
 彼女の話に登場した黒髪の女性というのは、ベリアメルと見て間違いない。そして、彼女のかつての弟子ディージア。禁じられた未完成の術を行使したことで、ベリアメルはディージアを破門した。それでも彼女は、有り余るほどの強力な魔力を以って、しばらくは自由に暮らしていたのだろう。だがしかし、ある時を境に自らの魔力が体から零れ落ちていると気付いて……。
「やっぱり、このまま終わらせるわけにはいかないようだね」
 魔女は低い声で呟いた。
「ディージアという魔女は、まだ諦めていないと思うか?」
 ユーベルの問いかけに、魔女はゆっくりと頷いた。
「恐らくはね」
 魔女が魔女だからこそ分かる、ディージアの「力」への執着。
「確かにディージアにとって、反撃に出るには絶望的な状況のはずだ。今回の騒ぎであんたたち一家に思惑が知れてしまったことだし、私の攻撃で受けた怪我も軽いものじゃないだろう。オマケに刻一刻と魔力が失われているときた。普通に考えれば、魔力の奪取は諦めて、身を潜めて暮らすところだ。だが、魔女ってのは、己の力が存在意義の全てと考える面倒な奴ばかりだからね。それが失われるくらいなら、死んだ方がマシだと考える魔女は山ほどいる。追い詰められているからこそ、ディージアは捨て身の行動に出るかもしれない」
「……」
 ユーベル、オーレリー、そして二人の母は沈痛な面持ちで押し黙った。
「……やはり、あの時とどめを刺すのをためらってはいけませんでしたね。僕があなたを止めてしまったばかりに……」
 オーレリーは俯いたまま、小さく呟く。
 「とどめを刺す」などという物騒な台詞がとことん似合わない男だ。魔女はそんなことを考えながら、軽く頭(かぶり)を振った。
「あれはあれで正解だったさ。ディージアの魔力をあんたの母親が吸い上げている、って事実が分かった今となってはね。あの時ディージアが死んでいたら、魔力を吸い上げ途中のあんたの母親にも負担がかった可能性があるのだから」
「それならば、良かったのですが……」
 落ち込んだ様子のオーレリーの隣で、兄のユーベルはいつも以上に険しい表情だ。
「つまりは、魔女ディージアを活かさず殺さずで捕らえなくてはならないということになるが」
「まあ、そうなるね」
 言っていて、魔女はとことん自分の立ち位置を呪った。
「……やれやれ。師匠の不始末は、弟子の私がつけるほかないのかねぇ」
 だが、やるしかない。“元”とはいえ、とち狂ったはた迷惑な魔女が姉弟子なんぞ、魔女人生の沽券に関わる大問題だ。全てが繋がっているというのなら、ここらで嫌な連鎖を断ち切ってやる。そうして今度こそ、誰にも邪魔をされない魔女生活を謳歌してみせるのだ。
 
 ホールの喧騒も遠い、暗く長い渡り廊下。
 魔女はオーレリーに連れられながら、ゆっくりと歩みを進めていた。
 ひとまずの危機は去った。今後については、魔女の側でも一旦体制を立て直す必要がある。それで今日は洞窟へ帰ろうという運びになったのだが、案の定、オーレリーが泊まって行けととにかくしつこい。オーレリーどころか、ユーベルにその両親と、一家そろって魔女を留め置こうとするからまた面倒だ。こんなお屋敷で世話になれば取れる疲れも取れやしないとさんざん主張し、ようやく帰宅を許されたところである。
「今日はありがとうございました」
 隣を歩くオーレリーが、労わるような視線を魔女に落とした。見送りはいらないと伝えたものの、こればかりは相手が折れず、仕方なしに魔女が折れることとなった。
 魔女はふん、と鼻を鳴らしてやる。
「全く、本当に踏んだり蹴ったりな一日だったよ」
 思い返してみても、近年まれに見るほどの大厄日だった。しかも、面倒事の根本は未だ解決されていないままだ。ああ、明日の朝になったら、何もかもがなかったことになってはいないだろうか。
「――リシュー」
 不意に、オーレリーが甘い声で魔女に呼びかけた。
「……なんだい」
 また面倒くさい話が始まりそうだ。魔女は極力平坦な声で、前を向いたままぶっきらぼうに答える。
「ダンスホールの音楽が、ここまで聞こえてきますね」
 思ってもみない方向に話題が飛んでいったので、魔女はぱちぱちと目を瞬いた。確かに、陽気なメロディーがわずかながらもこの廊下まで響いている。だがしかし、それがどうしたというのか。
「一曲、踊って頂けませんか」
「はあぁ?」
 思いもよらぬ申し出に、魔女は腹の底から呻いてしまった。
「何を馬鹿げたことを言ってるんだい。踊りたけりゃ一人で踊りな」
「いいじゃないですか、一曲だけで我慢しますから」
 薄闇の中でも分かるくらいに瞳を輝かせながら、オーレリーは魔女の右手を素早く取り上げた。慌ててその手を取り戻そうとする魔女だったが、思いのほか強い力で握りしめられ、それも敵わない。
「嫌だね、絶対嫌だ!」
 ぶんぶんと首を振る魔女に、オーレリーの方は余裕の笑みを向ける。
「リシュー、本当はあなたをこのまま連れ去ってしまいたい気持ちなんです。でも今夜は、ダンスを一曲ということで譲りましょう。ね、大人な対応だと思いませんか?」
「ちゃんとした大人は他人の嫌がることをしない!」
「ディージアとテラスで過ごさねばならなかった時、あなたが迎えに来てくれて、僕は嬉しかったのです。拗ねた顔で、そんな女の隣にいるなと言ってくれたあなたは、とてもとても愛らしくて」
 魔女の抗議などまるで聞こえていないのか、オーレリーは一人で夢心地の表情だ。一方の魔女は、顔じゅうに熱が集まってくるのを感じ、大慌てで喚き立てた。
「そんなもの、あんたが人質なんかになっていたから仕方なくだろ! 私は拗ねていたんじゃなくて怒っていたんだよ! 情けない、煩わしいってね!」
「何だっていいんです、本当のところは。僕にとっては、あの時のあなたのいじらしい姿が全てだったのですから。兄の影に怯えてあなたすらも諦めるなんて絶対に嫌だと、再びそう決意させられました。僕はもう、迷いません」
 そう言いながら、オーレリーはステップを踏み始める。いつの間にやら腰に回された腕が巧みに魔女を誘導するせいで、不格好なダンスは強制的に始められた。
「ちょっとちょっと! 冗談じゃないよ!」
 ひたすら抗議の声を上げながらも、魔女は本気でオーレリーを突き放すことができなかった。
 あの時の自分の心境が、自分で分からない。単純に煩わしいという理由で腹が立っていたのではないことは、魔女自身にも分かっている。さりとて、オーレリーとうら若き令嬢の逢瀬に嫉妬していただなんて……そんなことは絶対にないはずで……。
 あああ、もう、訳の分からないことは、考えないに限る!
 魔女は魔女らしくもなく、人一倍強いはずの探究心をかなぐり捨てて、自らの感情に蓋をした。今は、無理やり付き合わされているこのダンスに集中するべきだ。足を絡めて転んでしまったら目も当てられないではないか。
 魔女の手を握るオーレリーの掌は、大きくそして温かかった。
 魔女はほんのわずかにその手を握り返すと、遠くに響く音楽に乗せ、ぎこちなくステップを踏むのだった。