01.

 にゃあ、と黒猫が鳴いた。
 残念ながら、それを愛らしいと思う心根を、魔女は持ち合わせていない。

 にゃあ、ともう一度黒猫が鳴いた。
 魔女は眉一つ動かすことなく、自らの研究に没頭し続けている。

 にゃあ、と三度猫が鳴いた。
 はてさて、魔女の忍耐力というやつは、いかほどのものなのか。
 もしも、そのささやかな疑問を自らの身をもってして明らかにしようというのであれば、これはなかなか肝の据わった黒猫であると認めねばなるまい。

「先に断っておくが」

 魔女は振り向きもせず、低い声で小さく呟いた。

「次に鳴いたら、アンタを、この鍋の中へ放り込む」

 魔女の前には、彼女お手製の闇鍋がぐつぐつと煮え立っている。
 色合いからして、到底人が――いや、猫であろうとカラスであろうと――口にできるような代物ではない。

 黒猫は、もう鳴かなかった。

 ようやく舞い戻ってきた静寂に、魔女はやれやれと息をついた。
 背後には、まだ猫の気配がある。静かに魔女の様子を窺っているようだ。

 普通の娘ならば、この賢く健気な猫に胸を打たれ、存分に可愛がってやることだろう。だがしかし、魔女は普通の娘ではない。第一、外見からして娘ではない。そんな魔女であるから、上っ面の良し悪しだけで心を動かされるようなこともない。
 いかに愛くるしい見目をした小動物であろうとも、他人の「使い魔」を、それこそ猫かわいがりするようなおめでたい頭の作りをしていない――ただ、それだけのことなのだ。

「納得がいかないなぁ」

 洞窟の静寂は、しかし長くは続かなかった。
 猫の代わりに、鈴のように軽やかな少年特有の高い声が、魔女の背後で不平不満を並べ立て始めたのである。

「全く、信じられないよ。いたいけな猫を怪しげな鍋に放り込もうだなんて、その発想自体がありえない。さすがは誰もが恐れる森の魔女サマってやつ? ――ま、偽者らしいけど」

 魔女は鍋の中身をかき混ぜていた手を止めて、とうとう後ろを振り返った。

「いたいけな子供を鍋に放り込むのもやぶさかじゃないんだがねぇ」

 日ごろ魔女が愛用している汚い椅子には、艶やかな黒髪に真っ白い肌の、釣り目気味の少年が腰かけている。遠慮など欠片も見えず、まるで生まれた頃からその椅子の主であったと言わんばかりのふてぶてしい様子だ。

 少年は、仕立てのよさそうな黒地の半ズボンから覗く足を組みながら、魔女を仰ぎ見た。

「怖い怖い。そもそも、あなたのその顔からして既にとんでもなく怖いんだから、態度ぐらいはもうちょっと柔らかくてもいいんじゃないの」
「ふん。優しくされたきゃ、ご主人サマのところへ帰って尻尾でも振ってくるこったね」
「えー、だって僕、もうご主人サマなんていないしなあ」
「いるだろう。禁術に手を出した、馬鹿で間抜けで愚かな魔女もどきが」
「あはは、随分な言いようだね」

 主人を愚弄されたとは思えないほど楽しそうに、黒猫は笑う。
 そう、この黒猫――今は少年の姿をしているが――は、魔女ディージアの使い魔だ。

 自らの力を高めるため、禁忌の術を用いて他人の魔力を吸い上げた、愚かな魔女ディージア。
 大魔女ベリアメルのかつての弟子であったという彼女は、この洞窟の魔女にとっては姉弟子ということになる。しかし魔女自身は、その姉弟子の存在を長らく知らずに過ごしてきた。魔女がベリアメルの弟子になった頃には既にディージアの姿はなかったし、師匠が姉弟子について語ったことも、一度としてなかったからである。

 それが、何の因果か、その使い魔に付きまとわれるような事態に陥ってしまうとは。
 魔女は大きくため息をついた。
 これはなかなか厄介な猫である。

 魔女の付きまとい第一人者であるオーレリー青年が、彼女に助けを請うてきたのは今から数週間前のことだ。
 彼の母親が、何者かに狙われている。
 その何者かから母親の身を護ってほしいというのが、オーレリーの依頼だった。
 そして、豪華絢爛な舞踏会の最中(さなか)に炙り出された犯人こそが、かのディージアという訳だ。かつて彼女が行使した不完全な術のせいで、長い年月を経た今になって、オーレリーの母との間に歪んだ魔力の流れを生み出してしまったのである。その流れを断ち切るために、ディージアは彼女を亡き者にしようと企んだ。

 そんなディージアの企みを何とか阻止できたまではよかったものの、結局、彼女を捕まえるまでには至らなかった。這(ほ)う這(ほ)うの体で逃げ出したディージア。窮地に立たされた彼女が次にどんな行動に出るか――魔女にとっても、非常に頭の痛い問題である。
 そして、更に魔女を悩ませているのが、この黒猫の存在なのであった。

 これは魔女ディージアの使い魔である。
 件(くだん)の舞踏会にて魔女を足止めしたのも、これの仕業であった。彼の変化(へんげ)はなかなかに見事なもので、魔女などは言い訳のしようもなく、完全に彼に出し抜かれてしまったのだ。今思い返しても、どうしようもなくはらわたが煮えくり返る。
 しかし、そうした私怨を抜きに見てみれば、この黒猫が使い魔としてはかなり上級な部類に入ることを認めないわけにはいかなかった。

 まず、人ではない生き物が自在に姿を変えること自体が難しい。その上、流暢に人語を操るとなれば、それこそ至難の業だ。どうしたって、人ではない者特有の違和感が付きまとうのが通例である。
 その点、少年の姿を模したこの黒猫は、どう見繕っても人そのものであった。
 魔女の使い魔であるカラスとて、人型を取ることは可能ではあるものの――本人はそれをひどく嫌がるのだが――、ひとたび喋らせてみれば、わずかに生じる違和感を完全に拭い去ることはできない。

 そもそも使い魔の技量というものは、本人の元からの才能に依るところが大きい。修行や訓練などによる伸びしろは、残念ながらほんのわずかなものである。
 そんな彼らを「目覚め」させることにより使い魔へと仕立て上げるのは、魔女たちの領分だ。簡単に言えば、魔女の「気」を彼らに送り込むことにより、彼らは知に目覚め、魔を操り、時に変化し時に人語を操るようになる。
 通常であれば、使い魔は自らに送り込まれた「気」に馴染むものだ。つまり、「気」を送り込んだ相手を主人として認めるようになる。だが、本人の魔力が主人のそれを凌駕するようなことがあれば、簡単に、その絆はほどけてゆくことだろう。
 ――この黒猫と、堕落の魔女ディージアのように。

「簡単に主人を見限るような発言は、ここでは控えてくれないかね。うちのカラスが真似をするといけない」
 そして厄介ごとを持ち込むのもやめてくれ。
 魔女は言外にそんな気持ちを込めて、苦々しげに黒猫を牽制した。
 しかし、当の本人は、やはりどこ吹く風である。
「僕だって、そこまで薄情な猫じゃないんだよ? 現に、この間の舞踏会では、もうこれで最後だと思ってディージア様の命令に従ってあげたでしょう。あなたにとっては屈辱的な出来事だったわけだから、覚えていないはずがないよねえ?」
「ああ、瞼を閉じれば今でも鮮明にあの日の晩が思い起こされるね」
 魔女は額に青筋を浮かべながら頷いた。
「で、どう? そんな運命的な出会いを果たした僕が、あなたの使い魔になってあげるっていうのは?」
「冗談じゃない!」
 魔女は即座に却下した。
「みだりに主人を乗り換えようとする使い魔なんて、ごめんだよ」
「そんな、誰にでも簡単に尻尾を振るみたいに言わないでよ。これでも一応、ディージア様とは長い付き合いだったんだからさ」
 黒猫は唇を尖らせて反論をする。
「あの人の魔力って、昔は魅力的でさ、気に入ってたんだよね。一応、僕の力を解放してもらった恩義もあるわけだし。でも今では、穴の開いた風船みたいにどんどん力も魅力も抜けていくばかり。力を失ってからのあの人ったら、やることもセコいし、無駄に若作りなところも気持ち悪いしで、すっかり嫌になっちゃった」
「……無駄に婆(ばばあ)の主人よりもいいんじゃないか」
「んー、正直そこは、どっちもどっちだよね。でもあなたは、ちょっと面白そうじゃない」
「こんなのが大魔女ベリアメルの弟子だなんてガッカリで、新しい主人候補としては論外だっていう、この私がかい」
「わーお、あの晩のセリフ、よく覚えているね。根に持つタイプだね」
「お黙り! いいからさっさと元のご主人のところへ帰りな!」
「まあまあ、落ち着いてよ。僕は、ちょっとあなたを見直したんだ。ディージアを撃退した時の魔法なんてなかなかよかったよ。それに――」

 黒猫の目の奥が、ギラリと光を放つ。

「ディージアに引導を渡すのは、きっとあなたなんだろう。元ご主人の行く末を見届けるには、あなたの隣が一番の特等席のようだから」

 ……ディージアも、また面倒なのを使い魔に仕立て上げたものだ。
 魔女はもはや適当な言葉を見つけられず、黙って彼に背を向けて、鍋の中身を引っ掻き回す作業を再開することにした。
 洞窟の天井近くのくぼみに収まって密かに様子を見守り続けていたカラスは、やれやれとでも言いたげに、カアと一鳴きしたのだった。