02.

 黒猫が魔女の「居候」となってから、はや数週間。
 魔女の元に、ユーベルがやって来た。

 彼はオーレリーの兄であり、この土地一帯を収める領主の次男坊でもある。
 そしてまた、類まれなる魔術の才能を持ちあわせているという点において、魔女にとっては下手に放置しがたい人物であった。いや、あれこれ魔女が構う義理もないのだが、いかんせんあまりに強力な魔力の持ち主であるがゆえに、魔術に無知な彼を放っておくのは気が引けたのである。そんな理由から、魔女自ら、週に一度程度のペースで彼に魔術の手ほどきを授けてやっているのだった。

 これで彼が謙虚で殊勝な若者だったりしたのなら、まだ指導のしがいもあったことであろう。だがしかし、そんな気性とは対極に位置する性格のユーベルであったから、魔女の胃痛はいつまで経っても治まらない。その上、弟のオーレリーが、兄を(なんと恋の!)ライバル視していることもあって、魔女は近頃、ほとほと師匠業に嫌気が差していた。

 それでも投げ出しきれないのは、殊勝でこそないものの、ユーベルがこの上なく優秀な生徒であるがゆえだろうか。正直に言えば、光り輝く才能の芽がぐんぐん伸びていく様を目の当たりするのは、魔女にとってはなかなかに楽しいものだった。

「ディージアの拠点がつかめそうだ」

 やって来るなり、ユーベルはそう切り出した。

「ディージアの拠点が?」
「ああ。まだ確証はないが、恐らく、ジオレドネの領地で、領主の愛人に収まっている」
 勝手知ったる様子でガタついた椅子に腰を下ろしたユーベルは、険しい表情を緩めようともせず、淡々と言葉を続けた。いつもとろけるような笑みを湛えているオーレリーとは正反対。この男の整った口元が笑みを刷くのを、魔女はまだ見たことがない。

「どこからその情報を?」
「国家魔術師からだ」
「国家魔術師……」
 魔女はわずかに眉を顰めた。

 この国で、魔を自在に扱う者の数はそう多くはない。
 その中でも、国から認められた正式な魔術師となれば、更にごく少数である。

 国は、魔術の専門家をその懐に囲い込んでいる。彼らは国家魔術師と呼ばれている。その枠からはみ出す者は、いずれもはぐれの魔術師だ。一般的に、はぐれ魔術師はひどく厭われており、一国民として暮らしていくにはあまりに国から冷遇されている。魔女も然り。国に飼われることなく魔の道を貫くのなら、日の当たらない世界を生きていくしかない。そんな覚悟を決めた者たちが、裏で独自の組織網を築いている――それが魔女社会というものだ。
 そういう訳だから、国家魔術師とはぐれ魔術師たちは犬猿の仲だった。
 魔女とて、当然のごとく彼らにはいい印象を抱いていない――そこには、個人的要因も多分に含まれているのだが。

 魔女の表情に翳りが差したことに、ユーベルはすぐさま気づいたらしい。
 しかし、その場を取り繕うこともなく、冷静に話を続けていく。

「今度のことは、領土内で収めるにはあまりに大きな話になり過ぎた。領主の妻が命を狙われているというのもそうだが――、その妻が、知らなかったとはいえ、はぐれ魔女の禁術に加担していたというのも大問題だ」
「それで、国に相談をもちかけたってわけかい」
「ああ。魔女ディージアの今後の出方が分からない以上、母の身も危険に晒され続けているわけだしな。結果、国から魔術師が派遣され、今は彼らが母の身辺警護を担ってくれている。ディージア捕縛に協力するという大前提のもとに、だが」
「そうか。まあ、妥当な対応だろう」

 オーレリーとユーベルの母の近況については、魔女も密かに気になっていたところだ。
 頭の切れるユーベルが問題を放置しているはずがないとは思っていたが、そういうことならば安心だろう。認めたくはないが、正式な国家魔術師ならば、そこいらのはぐれ魔術師よりもよほど信頼がおけるというものだ。

「で、国家魔術師の協力を以ってしても、ディージアに手を出せないってのかい?」
「今、相手は完全に息を潜めているからな。表向きは普通の女だ、魔女だという確証が未だ取れない。歯がゆいが、向こうからもう一度仕掛けてくるのを待つしかなさそうだ」
「なるほどね」
 納得したというように頷いて見せた魔女だったが、実際のところ、魔女も同じように考えている。

 魔女は、魔女の矜持のために、ディージアを捕えるつもりだ。
 だから魔女も、密かにユーベルたち領主一家の屋敷周辺には気を配っている。そして、ユーベルの言う通り、今のところディージア側に目立った動きはない。

 だがしかし、遠からず向こうから再度接触を図ってくるのは間違いなかった。このままでは、ディージアの魔力は完全に枯渇してしまう。魔女たる者にとって、己の力を失うことは死と同義。特に、更なる力を求めて禁術にまで手を出したディージアであればこそ、だ。

「そういうことなら、アンタももうここへは来ないほうがいい」
「……と言うと?」
「分かっているだろう。国家魔術師に力を借りている以上、はぐれ魔女の私と関わりがあると露見すれば面倒なことになるよ」

 それが領主の息子となれば、事はなおさら厄介だ。権力者が密かにはぐれ魔術師を抱えているというのは実際よくある話ではあるのだが、それが公になってしまえばただでは済まされない。――それに、領主の「お抱え魔術師」などという立場に落ちぶれるのは、魔女にとっても甚だ不本意なところである。

「アンタも、魔力の扱いにはだいぶ慣れてきたようだ。もはや自分一人で十分力を制御できるだろう。魔術講義は今日で終わりにしてやってもいい」
「……」

 魔女の言葉に、ユーベルは何とも言えぬ表情で押し黙った。
 洞窟通いを嫌がっていた彼だ、せっかくお望み通り解放してやろうというのに、この反応は心外である。魔女は眉間の皺を深くして、彼に問いかけた。

「なんだい、何か文句でもあるってのかい?」
「文句はない。だが、俺よりも先に説得すべき相手がいるんじゃないかと思っただけだ」
「は?」
「オーレリーの奴は、相変わらず一週間と空けずにここへ通っているようだな。同じ忠告はあいつにもくれてやったのか?」
 その名前を出されると頭が痛い。
「……あれが、人の話を素直に聞くような男かい」
「だからあいつの存在は受け入れるってことか」
「そんなことは言ってないだろう」
 魔女は苛立ちをわずかに声に滲ませた。
「この洞窟に、余所者は何人(なんぴと)たりとも歓迎しない」
「そうは言うが、だいぶ絆されているように見えるぞ」
「アンタ、私に喧嘩を売ろうってのかい」
「そういうわけじゃないが」
 ユーベルは投げやりな溜息をついた。
 ――なんなのだ。どうにもこうにも様子がおかしい。
「じゃあ、一体どういうわけなのさ」
「……俺はあいつが羨ましいのかもしれないな」
「はああ?」
 今日一番の大きな声が出た。
「アンタが、オーレリーを、羨ましいって?」

 こう言ってはオーレリーには申し訳ないが、この兄がわざわざ弟を羨むような要素がおよそ見当たらない。オーレリー自身も言っていたではないか。ユーベルは尊敬すべき完璧な兄で、オーレリーが欲しくても手に入れられなかったものをたくさん手に入れてきた男なのだと。その評価には、魔女も概ね同意する。短い付き合いながら、これはまあそういう人間だろうと納得できるからだ。

「言っておくが、オーレリーはあれで、案外あざとい男だぞ」

 ユーベルは唐突にそんなことを言い出した。
 何の話だと胡乱げな視線を送る魔女を気に留める様子もなく、彼は言葉を続ける。

「自分が女によくもてることを十分承知している。だから、昔から、群がってくる女どもを適度にあしらいながら過ごすことが、あいつにとっては普通だった」
 なるほど。そして、きっとそれは目の前のこの男も同じであるに違いない。
「その分、恋愛やら結婚やらには、結局のところ冷めたところがあったように思う。多少女遊びをしてはいても、最終的にはバークソン家の妻に相応しい家の女と結婚するものだと、あいつも納得していたはずだ」
「そうかねえ? 下町で評判だとかいう花屋の娘には、随分な惚れ込みようだったみたいだがね」
 何せ、誰もが恐れる森の魔女に恋愛相談にやってきたくらいである。
「あれは、自分にまるで靡(なび)かない女が珍しかったから、惚れたつもりで躍起になっていただけだろう。きっと本人は無自覚だったんだろうが」
「……そして私も、その延長線上にいるってわけか」
「さあな」
 ユーベルは無感動に首を振った。
「一つ言えることは、オーレリーとは生まれた時からの付き合いだが、あいつがこれほどまでに誰かに執着する様は、これまで見たことがない。何があいつをそこまで突き動かすのかは、俺にも分からないな」
「……」
 全くありがたくない実兄のお言葉である。
「ちなみに、あんたはオーレリーとの初対面の時も老婆の変化を?」
「していたよ。していたとも」
「なら、一目惚れというわけでもないんだな。あいつに熟女趣味はなかったはずだし」
 ユーベルは肩をすくめて見せた。
「そこまで夢中になれる相手を見つけて、人の目も気にせず馬鹿正直にアプローチを続け、ついには本人も絆されつつある。恋愛には無頓着だったくせに、ある意味幸せな奴だ」

「ちょっとお待ち」
 聞き捨てならない言葉を耳が拾って、魔女は刺々しい声を上げた。

「何度も言うが、私はあいつを受け入れた覚えなんてないんだ。第一、絶っっ対ありえないけれど、もし万が一、万万が一、私がオーレリーを受け入れたとしても、アンタら家族がそれを認めるわけにはいかないでしょうが。領主の息子がはぐれ魔女と結婚なんてしようもんなら、それこそお家存続の一大事じゃないか」
「その通りだ、だから頭が痛い」
「……」
 はあ、と魔女は深いため息をついた。
「……まあ、兄のアンタは、せめて早めにまともな結婚をすることだね。そういう話がないわけじゃないんだろ?」
「オーレリーの尻拭いで結婚なんて、冗談じゃない。長兄が既に家庭を持っているから、俺が急いで身を固める必要もないしな」
「尻拭いなんて話じゃなくとも、アンタももう適齢期だろうに」
 いかにも年寄りらしく、いらぬ老婆心がむくむくと魔女の中に湧き起こる。
「アンタなら、群がってくるお嬢さん方から選びたい放題じゃないか」
「あいにく、その中に心惹かれるような相手は見当たらない」
 贅沢者め、と魔女は口を曲げた。
「なら、どんな娘であればアンタのお眼鏡に適うってんだい」
「……そうだな」
 ユーベルは、左手を口元に運びつつ、少し考えるそぶりを見せた。
「男に媚びを売らず、自立していて、物事をよく知り、偽善ぶらず、そのくせお人好しな女……」
 ははあ、と魔女は深いため息をついた。
「アンタもなかなか難解な趣味をしてるんだねぇ。こりゃあ婚期はまだまだ遠そうだ」

 その時、止まり木で大人しくしていたカラスがカアと鳴き、寝床で丸まっていた黒猫がニャアと鳴いた。