03.

 決行は、その日の夜だ。
 打ち合わせが終わったのは、まもなく日が沈もうとする夕暮れ時。
 それからのわずかな時間、各々は思い思いに過ごしていた。

 魔女はと言えば、一人中庭に面した渡り廊下の階段に腰かけて、そよ風に揺れる木々を静かに眺めている。
 魔術を使う前には、なるべく自然界の「気」を取り込むのがよい。
 赤く染まった太陽を見つめ、乾いたそよ風のかすかな香りを嗅ぎ、しっとりとした土の感触を足裏に得る。そうして五感を研ぎ澄ませながら、集中力を高めていくのだ。

 夢繋ぎの術自体は、そう大それたものでもない。
 特に今回は、本人の毛髪という「切り札」を用意してある。一般人が相手であれば、その夢の中に容易にもぐりこみ、本人をいかようにも操ることができるであろう。

 だが、今度の相手は、曲がりなりにも魔女にとっての姉弟子だ。
 ベリアメルが己の弟子と認めたからには、それなりの実力を秘めていると見て間違いない。既にその魔力が枯れ果てる寸前であろうとも、気を抜くことは得策ではない。窮鼠猫を噛む、という言葉があるくらいだ。こちらの猫が噛まれる事態は避けたいところである。

 ひたすら気を研ぎ澄ませている魔女に、不意に一つの影がかかった。
 ちらりと視線だけを動かすと、やって来たのはユーベルである。

「……何か用かい?」

 愛想の欠片もない声で話しかけると、ユーベルは無言のまま魔女の目の前に立ちはだかった。その背に真っ赤な夕日を受けて、逆に表情は暗く翳りを帯びている。

「――よく、自らこの屋敷へ出向く気になったな」

 静かな問いかけに、魔女はわずかに肩をすくめた。

「自分で人を追い込んでおきながら、よくもまあそんなことが言える」
「あのまま、誰も知らないどこかへ行方をくらますことだってできただろう」
「姉弟子の不始末は、身内の私が片を付けると言ったはずだ」
「――それで、自らの出自が目の前で暴かれることになったのに、か」
 魔女は、そっと瞼を伏せた。
「いつかはこういう日がくると分かっていたさ。それが今日になっただけのこと」
「……」
 はあ、と魔女の頭上から呆れたようなため息が降りかかった。
「俺は、あんたに呪い殺される覚悟でいたんだがな」
「おやおや、何か勘違いしてないかい? アンタを許したとは言ってないよ」
「……」
「暫くは身辺によくよく気を付けておくことだね」
 魔女はニヤリと笑ったが、もちろんユーベルが微笑み返すはずもなく。

「リシュール」

 代わりに名を呼ばれ、ぴくり、と魔女は眉を動かした。

「全てに片が付いたら、城へ帰れ。森の魔女ではなく、本来の自分に戻るべきだ」

「……今度は何を言い出すのかと思ったら」
「はぐれ魔女はどの地でも歓迎されない。そんなこと、俺よりあんたの方がずっと分かっているはずだろう。わざわざ後ろ指をさされながら生きていく理由はなんだ? 本来のあんたは、魔術師長の娘で、十分な魔術の実力も持ち合わせていて、度胸も才覚も人並み以上にあるというのに」
「ははあ、アンタに褒められるなんざ、明日は槍でも降るのかね」
 魔女は軽口を叩きながらも、鋭い視線をユーベルへ送る。
「槍の雨も面白そうだが、私個人の身の振りに関して、口出しは無用だよ」
「過去に何があったのかは知らん。だが、今のあんたなら、あるべき場所で自分を貫き通せるはずだろう」
「まるで私の全てを知っているかのように言うね」

 さあ、もう話は終わりだ、と魔女はその場で立ち上がった。
 目を合わせないままにユーベルの側をすり抜けようとしたが、その瞬間、右手を強く捕えられた。

「ちょっと、ユーベル。いい加減にしな」

 それでもユーベルは手を放さなかった。

「確かに俺は、あんたの事情なんて何も知らない。でも、だからって、放っておけないだろう。このままあの森を出て、見知らぬ土地でまた姿を偽って日陰に暮らし、一体それが何になる?」
「私が満足だって言ってるんだから、放っておいてくれ。アンタは確かに大層ご立派な御仁かもしれないが、だからって、他人の生き方にケチをつける資格なんてありゃしないだろ」
「資格なんて知るか。俺はただ――」
「聞きたくない。話は終わりだと言っている」
「待て、リシュール」

「――兄上」

 その時だった。
 緊迫した場の空気を、静かな声が打ち破った。

 声の主はオーレリーだ。いつの間に庭へ出ていたのだろう、彼はゆっくりこちらへ歩み寄ると、ユーベルの肩にそっと手を置いて兄をたしなめた。

「兄上、そこまでに。父上がお呼びです。今夜のことで話がしたいと」
「……」
 ユーベルは一瞬唇を引き結んだが、その次には小さく息を吐き、掴んでいた魔女の右手を解放した。
「分かった、すぐに戻る」
 観念したような声だった。何も言えずに立ちつくす魔女に一瞥をくれると、「悪かった」と小さな謝罪の言葉を残して、彼は館の中へと消えてしまった。

 残された魔女とオーレリーの間に、何とも言えない沈黙が横たわる。

「……今の、領主が呼んでいるってのは、嘘だね?」
 何となく居たたまれなくなり、魔女はつい、どうでもいいことを口にした。
「ええ」
 悪びれる様子もなく、オーレリーは頷く。
「まあ、それは兄も分かっていたと思いますが」
「確かに……、そうだろうね」
 あの男が、ささやかな方便を鵜呑みにするような素直さを持ち合わせているはずがない。頷きながらも、魔女はまだ警戒を解くこともできず、側で佇むオーレリーをそっと見上げた。
「言っておくが、兄から弟に変わったところで、これ以上おかしな説教を聞く気はないよ」
「リシュー」
「頼むから、本当に、今だけは放っておいてくれ。気が乱されると術に響く。ディージアは片手間に始末できるような相手じゃないんだ。今はとにかく、集中したい」
「……分かりました」
 オーレリーは切なげに瞳を細めたが、結局は頷いた。

 こんな言い方はずるいと、魔女は自分でも分かっている。それでも、オーレリーに何かを言わせたくはなかった。魔女の意思は固い。だが、引き留める声に全く気持ちが揺らがないと言えば、それは嘘になる。魔女は、自分がオーレリーにはどうにも甘いのだということを、他の誰に言われるまでもなく自覚していた――今となっては。

「邪魔はしません。ですが、夜風は体を冷やします。日が沈みきる前にはお戻りください」

 オーレリーは、羽織っていた上着を脱ぐと、魔女の肩にかけた。
 いつもならば要らぬ気遣いだと突き返すところだが、この小さな厚意すら突っぱねることは、さしもの魔女にもできなかった。オーレリーの温もりを感じながら、魔女はますます集中できなくなる自分の心を感じ取ったのだった。


 日が沈んだ。
 いよいよ時が巡ってきた。

 一応は用意された夕食の場は、もちろん和気あいあいとしたものにはなり得なかった。
 皆、黙々と目の前に出された皿を片付けていくだけ。時折誰かが口を開くことあれば、それは今夜の手はずについての確認だった。

 魔女も、料理の味などはこれっぽっちも分からない。
 洞窟で、食事とも言えぬ粗末な食物を口に放り込んでは命を繋いできた毎日だ。今夜のようなフルコースを堪能するのは、それこそ何年ぶりのことであろう。それでも、魔女の心は浮き立たない。

 考えることが山積みだ――今夜のことも、これから先のことも。

 いつかは向き合うべき問題が、とうとう目の前に巡ってきただけのこと。自分でそう認めたはずなのに、実際のところ、口にしたほど簡単には割り切れなかった。願わくば、一生その日がやって来なければいいとさえ思っていたのだ。
 それがまんまと、ユーベルの策略に乗せられる形になって――。

 いや。
 ユーベルも、ただ魔女を利用したわけではない。
 それは魔女自身も分かっていた。

 彼は彼なりに、魔女を「正しい」道へ連れ戻そうとしてくれたのだ。自分が恨まれることになっても構わないと、きっと彼は考えている。今回ユーベルが危ない橋を渡ったのも、一つには魔女を救おうという心遣いがあったからなのではないか。何だかんだと言って、あれは面倒見のいい男だ。

(……駄目だ、今は余計なことを考えている余裕はない)

 食後の紅茶を前にして、魔女はふうとため息をついた。
 憂鬱な顔を映したカップの中身が小さく波打つ。

「魔女殿。今夜の術のことで、少しお時間を頂けますか」

 そんな魔女に、国家魔術師であるサラシャが声をかけてきた。
 迷いも憂いもない落ち着いた様子の彼女が少し妬ましい。もちろん、言いがかりも甚だしいことは魔女も自覚している。

 二人が向かったのは、今夜、夢繋ぎの術を行使する予定の小さな客間だった。
 本来この部屋は、客人が屋敷に滞在する際に、その従者の控えの間として使われるらしい。ベッドやソファはあらかじめ部屋から運び出してもらっているから、今はがらんとしたものだ。領主はもっと広い部屋を用意すると言ったのだが、逆に狭いくらいの方が魔女としてはやり易い。無駄に空間が広いと、神経を張り巡らせる範囲も広がってしまうからだ。

「ひとまず、言われた通りの術式を書き終えました。ご確認をお願いします」

 床には、大きな魔法陣が書き込まれている。
 緻密な呪文が一糸乱れず並んで円を描いている様は、いっそ壮観ですらあった。

 魔女は魔法陣の作成といった根気のいる作業を好まないのだが、国家魔術師にとっては最も手慣れた仕事の一つらしい。学術的に魔術を学んでいる彼らは、こうした記述式の術を繰り返し練習してきたのだろう。

 そして、目の前の魔方陣も、文句のつけようもなく完璧であった。

「問題ない。この魔法陣と、ディージアの毛髪と、彼女の使い魔の猫。これだけ揃っていれば、強力な術を展開できるだろう」
「それは良かった」
 魔法陣の仕上がりについて自分から尋ねてきたわりに、サラシャの返事は適当だった。

「ところで、魔女殿」
 魔女は、魔法陣から視線を移し、すぐ隣に佇んでいる国家魔術師を見据えた。
 この女の本題は、どうやらこれから始まるらしい。

「本当に、二度と城へはお戻りにならないつもりですか?」
「……アンタまでそれを言うか」
「魔女殿を翻意させようというのではないのです。純粋に疑問に感じたまでで」
「さすが国家魔術師殿は、何事に対しても好奇心旺盛であられる」
「恐れ入ります」
 魔女の皮肉にも全く堪えた様子を見せず、サラシャは淡々と応えを寄越した。
「長年行方不明になっていた魔術師長のご息女が、国のはずれで森の魔女として密かに暮らしていた。それを知った当初、私どもは、大魔女ベリアメルが幼いあなたを無理やりかどわかしたものと考えました。しかし、今朝のあなたのお言葉によると、そう簡単なお話ではないようですね。あなたは、『家を出たところを魔女に拾われた』とおっしゃった」
「ああ、そう言ったね」
「つまり、家出はご自身の意思だったということですね?」
「そうだ。だから、アンタたちに憐れんでもらう必要もなければ、保護してもらう必要もない。今の暮らしは、私が望んで得たものなんだからね」
「大変理解に苦しみます。何故、何不自由ない令嬢としての暮らしを捨ててまで家を出たいと思ったのですか? 私とは異なり、魔術師長のご息女であるあなたならば、世間の目を気にすることなく魔の才能を伸ばすことだってできたはずです」

「――私は、国家の犬にはなりたくなかった。ただそれだけだ」

 サラシャは一瞬押し黙った。が、小首を傾げると、すぐに次の問いを投げかけてくる。
「国家の犬になるよりも、後ろ指をさされる日陰の者になる方が良かった、と?」
「他人の評価に興味はないもんで」
「国家の犬というのも、あなたの主観的な評価ではないですか」
「そうさ。私を動かすものは、私自身の矜持だけだ。それを独りよがりと言われようとも、浅ましいと言われようとも、後悔はない」

「……魔術師長は」
 サラシャは、ほんのわずかに声の調子を落とした。
「当時、愛娘が突然行方知れずになったにもかかわらず、目に見えて取り乱す様子はなかったそうです。お一人で考え込むことが多くなったようだとは言われていましたが。彼は、あなたが自らの意思で出ていったことを知っていたのかもしれません」
「そうかもしれないね。思い当たる節は十二分にあっただろうから」
「……私は、十代も前半の頃から、魔術師長にお世話になっていたのですが」
 サラシャは独白めいた口調で言葉を続ける。
「もちろん、いなくなった娘さんの代わりのように扱われていたわけではありません。あくまで私は、魔術師長の部下でした。でも、こうしてあなたにお会いして、何だか不思議な心地がしています。もしあなたがあのまま城に留まっていたら、私たちはとてもよく似た人生を歩んでいたのではないか、と」
「へえ、それは面白い見解だ」
 揶揄するように笑いながら、実際、魔女も同じ思いだった。
 サラシャという国家魔術師は、まるで別の可能性を選んだもう一人の自分のようだという気がしないでもない。――とは言え、その可能性を選ぶ自分などは、絶対に存在し得なかったに違いないが。
 それでも、万が一にはそんな未来があったとして、その先で、やはりこうしてオーレリーと出会うことになっていたのだろうか。
(それは、あまり嬉しくない未来図だね)
 ちょうど同じような考えに思い至ったのか、サラシャは少し間を置いてから言葉を続けた。

「私がオーレリー様と結婚することになっても、あなたは本当に構わないのですか?」

 それこそ、大笑いしてやりたかった。
 だが、意外なことに、思ったように口の端が持ち上がらなかった。

「ああ、そうなってくれれば、肩の荷が下りる」

 それだけ言うのが、精一杯だった。