01.

 いつの世も、魔女というやつはとことん個人主義で、非情でありかつ利己的だ。
 今日か弱き者に手を差し伸べたかと思えば、明日には平気で縋るその手を振り払う。そこに良心の呵責などというものは存在せず、そもそも良心それ自体が存在するのかどうかも疑わしい。

 そんな魔女の辞書に、もちろん「義理」などという言葉も存在しない。

 だからこの晩、一人の魔女が何も告げずに姿をくらましたところで、それを責め立てるのはとんだお門違いというやつである。
 もともと魔女は一つ処に留まることを良しとしない。
 森の洞窟には、長く居過ぎた。


 魔女は、領主一家から宛がわれた部屋の窓際に佇んで、間もなく別れを告げることになる我が住処の方角をじっと眺めていた。
 
 まだ夜は深い。
 窓の外に広がる森も、ただただ暗闇だ。

 カラスと黒猫は、恐らく庭にでも潜んでいるのだろう。
 この暗がりの部屋に、魔女は一人きりだった。
 手元のランプの灯りが時折身じろぎする魔女の影を映し出す以外は、動くものは何もない。

(不思議なものだ、こんな夜を迎えることになるなんて)

 一人の夜には慣れている。月の光さえ差すことのない小さな洞窟の奥深くで、もう何年も人の温もりに触れることなく暮らしてきた。今更、暗闇を恐れたりなどしない。

 それなのに、なぜ今夜はこんなにも心が沈んでいるのか。

(私は、この日々を、失い難いと感じている?)

 魔女は、わずかに口の端を持ち上げた。

 馬鹿なことを、と思う。
 けれど、その問いかけを頭から追い払うことができない。

 つらつらと考えてしまうのは、あの傍若無人な若者に出会ってから今日までのこと。
 思い返せば、あれには随分振り回されてきた。
 物腰柔らかなようでいて、その実、自分の主張を決して曲げようとはしない、身勝手で純粋な麗しき若者。変に彼の世話を焼いてしまったことを、魔女は大変後悔したものだ。そう遠くもない日の気まぐれを、山の彼方に放り捨ててやりたいと何度願ったことか。

(――でも、それも今日まで)

 魔女は小さく息を吐いた。

 全てをここに、置いて行く。

 そこまで考えたところで、部屋にノックの音が響き渡った。
 続いて、低く囁く男の声が聞こえる。

「リシュー、入ってもいいですか」
「……ああ」

 姿を現したのは、オーレリーだった。
 魔女は驚くでも嫌がるでもなく、淡々と彼を迎え入れる。

「夜分に突然、申し訳ありません」
「構わないさ。きっと来るだろうと思っていたしね」

 魔女の応(いら)えに、オーレリーはほんのわずかに笑みを浮かべた。
 魔女が彼の来訪を予感したのと同様に、彼の方でも、魔女がこの場を、いや、この領地を今夜のうちに出てくつもりであることを、きっと分かっていたのだろう。

「リシュー、まずはあなたに、お礼とお詫びをお伝えしたくて」
「何だい、急に改まって」
「今回は、母を、いえ、僕たち家族を救って頂き、本当にありがとうございました。もう何度、僕らはあなたに助けられたか分からない。僕の感謝の言葉など価値のないものではありますが、せめてこの気持ちを伝えさせてください」
 オーレリーは魔女の手を取り、ぎゅっと握りしめた。
 彼の体温が、その手を通して魔女に伝わってくる。
「……で、詫びっていうのは?」
「本来ならば、何よりもまず一番にお礼を申し上げるべきだったのに、それが今頃になってしまいました。申し訳ありません」
 オーレリーの真摯な眼差しを受け止め、魔女はやれやれと肩をすくめた。
「礼で腹が膨れるわけでもなし、そんなもんは端(はな)から期待してないよ」
「もちろん、言葉だけではなく、それ相応のお礼は別途させて頂くつもりです。……あなたが受け取って下さるのならば」
「アンタからの贈り物ってのはいつもロクなもんじゃない。謹んで辞退させて頂きたいね」
 笑いながら言って、魔女はそっとオーレリーから手を抜き去った。
「では、どんなものなら受け取って頂けますか」
「何も要らないよ」
「何かしら、受け取って頂きたいのです」
「何もないんだ、本当に」

「……どうあっても、あなたを留め置くことはできないのですか」

 感情を押し込めるような、けれどどうしようもなく切ない声で、オーレリーが呟いた。
 魔女も一瞬言葉を見失いかけたが、一呼吸置いて、ゆっくりと頷く。

「私の答えは変わらない」

 それは、自分に言い聞かせるための宣言のようでもあった。
 自分のすべきことは分かっている。決して、一時の感傷で揺らいでいいものではない。自分は、魔女なのだ。昔から今までずっと、――そしてこれからも。

「……あなたなら、そう仰ると思っていました」
 オーレリーが諦めたように囁いたので、魔女もわずかに目を伏せ、頷いた。
「アンタもようやく私のことを理解してくれたようで、なによりだ」
「けれど逆に、あなたも僕のことをよくご存じでしょう」
 畳みかけるように言葉を繋げたオーレリーに、魔女は片眉を上げる。

「リシュー、あなたが去ると言うのなら。どうか僕も連れて行ってください」

 一度逃れたはずの手が、再びオーレリーに捕らわれた。

「……何を馬鹿なことを」
「僕が役立たずなことも、足手まといなことも、知っています。それでもあなたを諦められない。ここを出ていくというのなら、どうか僕も一緒に」
「そんなこと、できるわけがない」
「いいえ、できないわけがありません。僕には二本の足がある。随分と恵まれています」
「それなら、四本足の猫でも連れて行くことにするさ」
「ええ、猫も一緒に行きましょう。もちろん、カラスも」
「……呆れた」
 魔女は心の底から呟き、そして溜息とともに口の端を持ち上げた。

 全くこの男は、常識外れの天然かと思いきや、意外にあざとく侮れない。兄ほど傍目に分かりやすい秀才ではないが、だからこそ余計に厄介なこともある。
 そして、何より一番手に負えないのは、こうと決めたら絶対に退かないひどく頑固な性質(たち)だろう。

「何というか、アンタにはもはや感心した」
「ありがとうございます」
「褒めてるんじゃない」

 言いながらも、何故だか笑みを止められない。
 本当に――どうしてこんなことになったのか。

 何故あの時、叶わぬ恋に身を焦がすオーレリーの身の上話を聞いてしまったのか。
 何故あの時、恋に破れたオーレリーに温かいスープとパンを出してしまったのか。
 何故あの時――。

 思い返すほどに、魔女は泣きたいような笑いたいような心地になる。

「アンタは、本当に、あり得ないほど変わった男だよ」
 誰もが恐れる森の魔女、しかも皺だらけの老婆に、恋をしたのだと言う。
「誰かに呪いでもかけられているんじゃないかと、初めは気が気でなかったけれど」
 あの、大魔女ベリアメルでさえも認めざるを得なかったのだ。彼のこの想いが、完全なる自前なのだということを。
「花屋小町と同じように、すぐに飽きるものと思っていたのに」
 いつまで経っても、その兆しは見えなくて。
「気づけばいつも、私の隣にはアンタの姿があったね」
 全くもって、遺憾ながら。

 ――認めざるを得ない事実がある。

「アンタは、いつでも真っ直ぐ私と向き合ってくれた。見てくれに惑わされることなく、いつだって、本当の私を見続けてくれた」

 時に人を騙し、時に人を助け、時に人を誑かし、時に人を憐れみ、時に人を突き放し、時に人を恋しがった――気まぐれな、一人の魔女を。
 姿かたちなど関係なく。
 ただ、リシュールという一人の人間を。

「リシュー」
 オーレリーが名を呼ぶ声が、ひどく甘いものに聞こえた。
 本当に、いつからだろう、そんな風に感じるようになってしまったのは。
 どこで、彼を受け入れてしまったのだろう。

「悔しいけれどね、どうやら私はアンタのことがそれほど嫌いでもないらしい」

 魔女はオーレリーに一歩近づいた。
 二人の間にほとんど距離はない。
 間近に見えるオーレリーの瞳が、側のランプの光を反射し静かに輝いている。

「正直に言えば、少し感謝してる」
「感謝?」
 そう、と魔女は頷いた。
「私はずっと、自分という存在を押し殺しながら生きてきた。多分、城を出たあの瞬間から、そうしたい、そうしなければならないと思っていたんだ。だから私は、何者でもない存在として、そしてやがては森の魔女として、魔女本人さえも捨て去った虚影を纏って生きるようになった」
 それでいいと思っていた。
 何の疑問も抱いてはいなかった。
 それなのに。
「でも、アンタは『私』を見つけ出した」
 もう、自分自身ですら忘れかけていた、“リシュール”という存在を。
「そしてその『私』から、一度たりとも目を背けなかったんだ」
 それはひどく居心地の悪い、まっすぐすぎる眼差しではあったけれど。

「――だから、ありがとう」

 今度は、自分がまっすぐ彼を見つめ返すべき時だ。
 魔女は目を逸らすことなく、オーレリーを間近に見据えたまま、しっかりと言葉を紡いだ。

 そんな魔女の眼差しを受けて、オーレリーは何かを告げようと再び口を動かした。
 そのオーレリーの頬に、魔女は優しく手を添える。
 温かい、と思った。
 彼はいつでも温かかった。血の通った人間だった。どこまでも真っ直ぐで、それは時に愚かでもあり、美しくもあった。

(私は、この日々を)

 答えなんて、出したくはなかったけれど。
 でも、はっきりと、分かってしまった。

(――失い難いのだ)

 捨てられないものなど、二度と持たないと決めていたのに。
 どうしようもなく、抗いがたい。手放したくない。

 でも。

「もう、夜も遅いから」

 魔女は静かに囁いた。

「――お休みなさい、オーレリー。良い夢を」

 そして魔女は、わずかに踵(かかと)を持ち上げて、オーレリーの唇に自らのそれを寄せた。