02.
王都から遠く離れたとある街には、高級品から日用品まで何でも揃う大きな市場(いちば)がある。
屋根代わりと言わんばかりに色とりどりの天幕が所狭しと掲げられ、それほど大きくもない通りには、常に多くの人々が行き交っている。様々な商店や工房が立ち並ぶ通りは枝分かれを繰り返し、果てなくどこまでも続いているものだから、市場は通称「蟻の巣」と呼ばれていた。
この「蟻の巣」に、一体いくつの店が軒を連ねているのか。全容を把握している者は、恐らく一人もいないだろう。こちらに一つ店が入ったかと思えばあちらで一つ店が潰れるし、昨日の物置は今日小さな工房になっている。
治安は良いとも悪いとも言えない。娘が一人で買い物に来ている姿もあるが、お日様に背を向けるようにして徘徊している者もある。高級品の中には偽者も紛れているし、ガラクタの中には掘り出し物が眠っていることもあった。
何から何まで、何でもあり。それがこの市場の在り方だった。
そんな中に、埋もれるようにして密かに息づく店がある。
ごくごく小さな、占い屋だ。
他の店と同様に、いつからそこに在ったのか、詳しく知る者はいない。
いつの間にやら、市場の一角――長らく無人であったはずだと言う者もいるが――、二人並んで立つのがやっとという程度の小さな建物の小さな部屋に、机が置かれ、椅子が置かれ、明かりが灯るようになった。
表には看板もない。だから、一見しただけでは占い屋だと知る術もない。
しかし、ひとたび古ぼけた扉を開いたならば、少なくともそこが「まともな」商売を営んでいる店ではないということだけは、誰の目にも明らかになったであろう。
所狭しと積み上げられた古書に、無造作に置かれた火の灯(とも)らない蝋燭の数々。古ぼけた絨毯は、あまりに埃が存在を主張しすぎるせいで、緻密に描かれた模様もほとんど判別できないくらいだ。
傾いた本棚の上には、一匹の黒猫。
無造作に放置された痩せぎすの枝には、一匹のカラス。
そして――部屋の最奥には、一人の若い女が腰を下ろしている。
その女は、歳の頃は二十に届くかどうかというところ。
こげ茶の髪を右肩の方でゆるく三つ編みにしてまとめている。ごくごく平凡な顔立ちで、美しくもなければ特別醜いというわけでもない。一日も経てば、この女の顔をすっかり思い出せなくなってしまうような、そんな地味な女だった。
この女は、実は「はぐれ魔女」である。
国から任命を受けた「国家魔術師」とは異なり、無許可で魔術を生業にしている者達は、総じてそのように呼ばれている。当然ながら、真っ当な形で店を構えることなどできないから、こうして日陰の身として密かに自らの技術を切り売りしている。
この「はぐれ魔女」の店も、占い屋とは名ばかりで、実際は魔道具や呪術の類を取り扱っているというわけだ。たまにその実態を知らぬ者がふらりと立ち寄ることもあるが、それならそれで、お望み通りに占い師として適当に振る舞ってやればいい。
魔女の顔は、地味な上に表情にも乏しい。
来客があっても、ほんの僅かに視線が持ち上がる程度。笑顔で客を迎え入れてくれるような爽やかさを期待してはならない。笑うこともなければ、怒ることもない。だから、訪れる客たちは、まるで人形を相手にしているように感じることもあるだろう。
だが、しかし。
何事にも、例外というものはある。
それは、とある昼下がりのことだった。
その日はまだ来客がなく、店の中はしんと静まり返っていた。
カラスは、ここ最近収集しているガラス玉を色別に仕分けて遊んでいる。黒猫は、定位置の本棚の上でのんびりと毛づくろい。そして魔女はと言えば、分厚い魔術書を読みふけっていた。
その時だ。
立てつけの悪い店の扉が、鈍い音を立てて開かれたのは。
呼び鈴などという上品なものは存在しないから、これが来客の合図である。
魔女は読み進めていた魔術書から顔を上げ――、
そしてぎくりと体を強張らせた。
扉の向こうから姿を見せたのは、一人の青年だった。
絹のようなつややかな金の髪に、彫刻のように整った顔立ち。すらりとした体躯を包む旅の装いこそ何の変哲もないありふれたものであったが、それが却って青年自身の美しさを際立たせている。
「こんにちは」
低く、そしてどこか甘い声で彼は挨拶を寄越した。
扉を閉める所作は洗練されており、彼がそれなりの身分を持ち合わせていることが伺える。
……いや、そんな風に値踏みなどしなくとも、魔女にはこの青年が何者なのか、一目見た瞬間に分かってしまった。彼に最後に会ったのは、もう一年以上前になろうか。たとえ五年でも十年でも、その姿を見間違うことはできそうにないのだが。
「いらっしゃい」
魔女は平静を装い、そう返した。
内心では大いに驚き、この現実に戦(おのの)いている。
何故彼がここに。偶然この場を訪れただけなのか。いや、そんなはずがない。では一体どうやってこの場を見つけた? 分からないことだらけだ。
そもそも彼は――オーレリーは、魔女のことを憶えてすらいないはずなのに。
「素敵なお店ですね」
彼は落ち着いた様子で魔女に語りかけた。
胡散臭さの塊でできているこの店を「素敵」などと表現する辺り、相変わらずである。
「……それはどうも」
どう答えるべきか逡巡したものの、結局魔女は無難に返答することを選んだ。
「それで、今日はどういったご用件で?」
「こちらは、よく当たる占いのお店だと聞きましたので」
はぐれ魔女の隠れ家である、とは、彼も明言しなかった。
「どうしても伺いたいことがあり、お邪魔しました」
「はてさて、一体どんな相談事を携えて来られたのやら」
すると、オーレリーはわずかに目を細め、言葉を探しているような様子を見せた。しかしそれは、途方に暮れているといった風ではなく、すっかり落ち着き払っていて、既に自分の中に答えは揃っているとでも言うような顔つきだった。
「……そうですね、では、恋愛相談を」
魔女は、ぱちぱちと瞬きをした。
この期に及んで、一体何を言い出すのか。
しかし――ああ、そうだ。
そう言えば、全ての始まりも、やはりこんな風だったか。
どこまでもこの男らしいと思えば、自然に苦笑が零れそうになる。
「こんな辺鄙な場所までわざわざお越しになるとは、よほど難儀な恋をしておいでのようだ」
「確かに、人生で一番の難事かもしれません」
「そんな恋なら、いっそ捨ててしまえばいいものを」
「とんでもない。これは、僕の人生をこれ以上なく満たしてくれる恋でもあるのです」
一点の曇りもないまなざしで、オーレリーは言い切った。
「……それは、それは」
魔女は次に続く言葉を一瞬見失ってしまう。
「ならば、何を迷っているのです?」
「迷いはありません。僕の中の答えは、たった一つと決まっていますから」
「おや、それはいけませんね」
魔女はゆるりと首を振った。
「答えがたった一つというのは、確固たるようで、実はひどく脆いもの。特にあなたのような若い御仁は、あらゆる可能性に目を向けてみるのがいいでしょう」
「こっぴどく振られる可能性ならば、あらゆるパターンを嫌というほど想定しているんですが」
オーレリーは肩をすくめた。
「僕にはあなたしかいないという事実は、ただ一つきりの、答えです」
魔女は、とうとう降参せざるを得なかった。
「やれやれ、まったく、嫌な男だこと。どんなに姿かたちを変えようとも、アンタには全然通用しないんだから」
そう言って、ふう、とため息をつく。すると、こげ茶の少し傷んだ髪は、絹のように艶やかな金の髪へ、そばかすの散ったくすんだ肌は、陶器のような滑らかな肌へと一瞬で変化した。不満げに寄せられた柳眉から伸びる鼻筋は美しく、宝石のような瞳もまた輝いている。
これが、魔女リシュールの本当の姿である。
「どうやら、私のことを忘れてくれたわけではなさそうだね」
「ええ、あなたを忘れることはできませんでした、リシュー」
オーレリーはふわりと微笑んだ。
「そういう意味じゃない! アンタの『記憶』から、私の存在はすっかり消えてなくなっているはずだったっていうのに、全くもう!」
「はい、そういう意味だと、分かっています」
「……なんだって?」
魔女は片眉を上げて、胡乱な眼差しをオーレリーへ向けた。
彼は相変わらず、落ち着き払った様子で笑みを浮かべている。
「あの晩の、別れのキス。とても甘くて、頭にぼんやりと霧がかかったような感覚に陥ったのを覚えています」
魔女はぎょっとした。あの瞬間の記憶まで鮮明に残っているなどとは、思いもよらなかったのだ。なぜなら、魔女はあの時、確かに――
「忘却の魔術を、使ったんですね」
「……」
そうだ。その通りだった。
オーレリーと知り合ってまだ間もない頃に調合した、超強力な縁切り薬。ずっと棚のお飾りに成り下がっていたものを、ついにあの晩、魔女は持ち出したのだ。
成分の配合を誤っていたのか、はたまた、調合から時間が経ち過ぎていたのか。目の前の結果の通り、薬の威力は随分と弱かったと認めざるを得ないが、しかしそれでも完全なる失敗ではなかったはずなのだ。あの晩、魔女自身が、唇に含ませた薬に自我を飲み込まれぬよう密かに苦心したほどだったのだから。
「憶えているなら教えてもらおうか。いつ、どんな風に記憶を取り戻した?」
「最初から全部、一度も忘れていません」
「そんなはずない! じゃあどんなカラクリがあるって言うの!」
「愛の力で――と、言いたいところですが」
オーレリーは肩をすくめつつ、身にまとっていた外套の胸元を寛げ、首から下げていた細い金の鎖をを引っ張り出した。
その鎖に通されていたのは、一つの指輪だ。
魔女は怪訝な表情でオーレリーの胸元の指輪をじっと見つめた。
見たことがある……ような、ないような。
「……まさか」
「はい。これは、大魔女ベリアメルから譲り受けた指輪です」
――またあの人か!
魔女は盛大に舌打ちをしたい気分だったが、それすらままならないほどの怒りと動揺でもって、唇をわななかせた。
オーレリーの一言で、魔女はすっかり合点がいった。
この指輪は、以前領主が開催した舞踏会で、令嬢に化けた魔女ディージアを欺くために、ベリアメルがオーレリーに授けたものだ。蠱惑の術でオーレリーを惑わそうとしたディージアだったが、「精神に作用する魔術を無効化する」という指輪の効力を前に、彼女の企みは失敗に終わった。
あの時の指輪を、まだオーレリーが持っていただなんて!
しかも、ずっと肌身離さず身に着けていたとは、もはや反則ではないか。
「リシュー。決して、あなたを欺こうとか、そういうつもりがあったわけではないのです」
「分かってる。どうせ、あの人がそのまま身に着けておけとか何とか言ったんだろう」
花売りの娘やカラスに化けて、散々魔女を翻弄したかと思えば、今度はこの指輪。
あの放蕩師匠は、どこまで弟子をおちょくれば気が済むのだろうか。
本当に、あの人の考えていることは、分からない。
「この指輪がなくても、あなたのことを忘れたりはしなかった――とは言えません。僕はただ運が良かっただけで、僕自身が何かを成し遂げたわけじゃない。分かっては、いるのですが」
オーレリーは、一呼吸置くように、言葉を切った。
「今日ここへ来たのは、本当は、占いのためでも、相談のためでもありません。あなたから、ただ一つの答えを頂きたくてやって来ました」
そして彼は、魔女の右手にそっと触れた。
そのまま大きな手のひらで、ゆっくりと魔女の手を包み込んでいく。
「僕にはあなたしかいません。そしてどうか――あなたにも、僕しかいないと、言ってください」
オーレリーは、迷いのない真剣な眼差しで魔女を射抜いた。
魔女が口を開きかければ、手を握り込むオーレリーの力が一層強くなる。
ああ、全く。
こんな時に限って、カラスも猫も、だんまりを決め込んでいるなんて。
どうやらとうとう、観念せざるを得ないようだ。
魔女はふっと息を吐くと、真っ直ぐにオーレリーを見上げた。
「こんな地の果てまで来て私を捜し出すなんて。――そんな愚かな男は、世界でただ一人、アンタしかいないよ、オーレリー」
魔女がそう答えると同時に、オーレリーは魔女を強く引き寄せ、その唇にキスを落とした。
おわり