04.

「フィーリア!」
 一人夜空を見上げていると、今、一番聞きたくない男の声が背後から聞こえてきた。
「こんなところにいたのか。それならそうと、誰かに一声かけなさい。どこへ行ってしまったのかと心配したじゃないか」
「……ふふ、まるで父親みたいな物の言いようね」
 振り返ると、たいして心配したふうでもないセルダン伯爵の姿が目に入る。
「ずっとここにいたのか?」
 そう。あれから私は、ずっとこのバルコニーで一人たたずんでいた。星を見ているだけで、私は楽しかったから。そういう楽しみ方を、覚えてしまったんだ。近頃ずっと一人だったから。
「ずっと……というのはどれくらいのことを言うのかしら。それほど長い時間でもありませんわ。ただ、ホールの熱気に少し疲れたから、静かなところで涼みたかったんですの」
「一人にしてすまなかったね。ホールは、楽しくなかったのかい?」
「私、友達を作るのは下手ですもの。一人で本を読むことが楽しいような娘なの。ですから、私のことはあまり気になさらないで。お芝居はとってもすばらしかったわ。今日は連れてきてくださってどうもありがとう」
「……フィーリア?」
 どこか怪訝(けげん)な表情のセルダン伯爵。どうやら、私の様子がすこしおかしいことに気づいたらしい。でも、気づかれたくない。さっきの話を聞いていたのだと悟られたくない。
「……一応、素直にお礼は言っておきますわ。でもこんなことで私があなたに懐くと思ったら大間違いなんだから」
 つん、とそっぽを向いてやった。セルダン伯爵はクスリと笑う。
「君らしい」
 そうよ、これがフィーリア=アーヴィングなの。
 私はくるりとセルダン伯爵に背中を向けて、もう一度夜空を見上げた。――今の私の顔は、きっと本心をそのまま映し出しているだろうから。
「せっかく、一人の時間を楽しんでいたのですから、もう少し気遣っていただけません?あと少しで部屋に戻りますわ」
「そうは言ってもね。君を一人寒空の下に残して、私一人だけ戻るなんてできないよ」
「大丈夫ですわよ。誰も、あなたをひどい男だなんて思ったりしないでしょうから。こんな娘の相手をいつまでもしていたくないという気持ちは、みな理解してくれますわ」
「……そうやって自分を卑下するものじゃない」
「卑下なんて、していません。客観的に妥当な評価を下しただけよ」
「フィーリア」
「……わかりました、部屋へ戻るわ」
 ふう、と一息ついて、私はバルコニーの敷居をまたいだ。――ああ、もう。明らかに不機嫌な態度をとっているではないか、今の私は。どうしてもっと自然に返せないんだろう?
 自己嫌悪に陥りながらも扉を閉めた。セルダン伯爵は無言だ。この人の無言は、どんな言葉を口にするよりも、重圧を感じさせるから嫌。……何か、しゃべってよ。

 しかし次に口を開いたのはセルダン伯爵ではなかった。ちょうど階段を上ってきたベックフォード侯爵が、私たちの姿を認めて声をかけてきたのである。
「ああよかった、彼女、見つかったんだな」
 この様子だと、もしかしてかなり大々的に私のことを探していたのかもしれない。
「申し訳ありません、勝手にお屋敷をうろついてしまって……。少し、風に当たりたかったものですから」
「ああ、いいんだ。ところで、これから夜食会が始まるぞ。軽食が中心だし、甘いデザートなんかも用意してある。二人もホールに降りてくるといい」
 私は微笑してうなずいた。しかし、予想に反してセルダン伯爵は
「いや、私たちはもう失礼するよ」
 と簡単に断ってしまった。
「なんだ、このあと何か用事でもあるのか?」
「そういうわけでもないが、このところ少し疲れがたまっているんだ。また次の機会に呼んでくれ」
「それならフィーリア嬢だけでもここに残ればいいじゃないか」
 えっ……。
 ただでさえ残りたくない。なのにその上セルダン伯爵は帰るとなれば、ますます肩身が狭くてイヤだ。でも、そんな失礼なこと、言えるはずがない。
 あいまいに頷こうかとしたときに、
「フィーリアも私と帰るよ」
 というセルダン伯爵の助け舟が入った。……どうやら、私に気を使って、もう帰るなどと言い出したらしい。
「それはお前、勝手というものだろう?フィーリア嬢はこちらが送るから」
「そんな無責任なことはできないよ。それに、フィーリアを送ったときにエレナ……この子の母と会う約束もしているしね」
「フィーリア嬢は、構わないのか?」
「え、ええ。セルダン伯爵と一緒に、おいとまいたします」
「そうか、わかった。……またこういう機会があれば、招待するよ。ぜひ来てくれ」
「ありがとうございます」
「馬車の用意を」
 ひそかに、私はほっと息をついた。ビュッフェなどに参加すれば、またしばらく帰れなくなるのは必至である。セルダン伯爵の配慮には助かった。どん底にまで落ち込んだ彼の評価も、ほんの少しだけ、浮上したかもしれない。

「……ごめんなさい」
 馬車に揺られながら、私は向かいに座るセルダン伯爵にぽつりと呟いた。
「ん?」
「私のせいで、早く帰ることにしたんでしょう?申し訳ないことしたわ」
「構わないよ。別に私も、それほど空腹というわけでもなかったしね。君こそおいしいデザートにありつけなくて逆に怒っていたりしないのかい?」
「そ、そんなに卑しくありません!……じゃあやっぱり、母と会う約束があるというのも、嘘?」
「そうだよ。確か、今日は誰かに誘われてパーティーに行ってるんだろう?なら、まだ帰ってないだろうし」
「まあ、そうでしょうけど」
 “誰か”というのが男であることは、セルダン伯爵も十分承知のはずである。それなのに、さらっとこういうセリフを口にできてしまうものなのか。例え自分が遊びで付き合っている女でも、相手には、自分ひと筋でいてもらいたいとか……思わないものなのだろうか?私なんかにはよくわからないけれど。
 ……でも。
「母は、生まれついての浮気性ですから、いつでも数人お付き合いしてる男性がいますわ。――ただ、たまに本気で相手を愛してしまうことがある。そしてそういう人ができたとしても、何人もの人とお付き合いする姿勢は変わらない人ですの」
「……うん?」
「今回のは、本気ですわよ。他にも色んな人と逢っているかもしれないけれど、あなたのことだけは本気です。本気になったら、母はどこまでも突っ走りますわ。ですから、遊びと思ってあまり油断しない方がいい」
「……」
「……とは、言いませんわ」
 ぴく、とセルダン伯爵の眉が動いた。
「もう手遅れですもの。私から助言をするとすれば、覚悟した方がいい、ということです。でも、少しでも浅い泥沼でとどめておきたければ、早いうちに婚約の約束は解消して、決別した方がいいですわよ。――アーヴィング家とは」
 かなりの脅しをかけたつもりだった。しかし、当のセルダン伯爵はにっこりと笑みを浮かべるばかりで一向に怖気づく気配もない。
「それは、君との決別も含めているのかな?」
 当然だ。私は特に答えもせずに、真剣にセルダン伯爵を見つめた。軽く流されるわけにはいかない話題なのだ。
「エレナとなら明日にでも決別しても構わないよ。でも、君とはまだ楽しいお付き合いを続けていきたいと思ってる」
「楽しいと思っていられるうちに赤の他人に戻る方が、あなたのためになると言ってるのよ」
「あいにくだけど、私のためになるかならないか、それはどうでもいいことだ。最初から、何か有益なものを得られるなんて思ってないからね。いいかい?これはゲームなんだよ」
「ずいぶんと悪趣味なゲームもあったものだわ」
「そう、私は恋愛の仕方に関しては悪趣味なんだよ。修羅場なんていくつも経験してきてる。君には想像もつかないような、ね。だから心配はご無用。すべて承知の上だ」
「……あきれたわ、本当に」
 やれやれと首を振るのが精一杯。
 セルダン伯爵と実りのない会話をするのに疲れてしまい、私は目をつむって眠ったふりをすることにした。そんな私に、彼の方から話しかけてくることもなく、馬車はゴトゴトと帰路を辿っていったのだった。