05.

 まったく本当に、どういう神経をしているのだろうか。
 信じられない。ありえない。
 なにがといえば、もちろんセルダン伯爵その人である。
 ――先日、彼の友人・ベックフォード侯爵の屋敷で舞台鑑賞のパーティーが開かれたときに、心無い人たちに陰口を叩かれ(たりし)てイライラしていた私は、セルダン伯爵に当たってしまったのだが……。
 次の日に、何事もなかったかのように私を訪れるだろうか、普通?
 帰りの馬車の中でなんとなく気まずい雰囲気になったから、それに懲りてあの人もしばらくは身を潜めているだろうとふんでいたのに。次の日のティータイムにちゃっかり姿を現すんだから、怒りを感じるというよりむしろ脱力してしまった。
 しかもそれから今日までの一週間、欠かさず毎日やってくる。うざったいことこの上ない。第一、あの日馬車の中で、脅しもしたし説得もしたし文句も言ったというのに。効果はまったく無かったわけだ。
「セルダン伯爵……、あなた、相当ヒマなのね」
 あきれきった声でつぶやいたが、それにもムッとする様子も無い。
「お互いさま」
 フッ、と嫌味な笑みを浮かべて彼は答えた。
「この時間はティータイムなんだから、お茶を飲んでるのが当たり前じゃないの!ティータイムに他のことをしてる方がおかしいじゃない!そこへ毎日わざわざ馬車を出してちょっかいかけにくるあ・な・た・が・暇人なんでしょ!」
「君に逢いたいと思うから、忙しい合間をぬってこうして来ているのに。そんな言い方はないんじゃないかな」
 はあ〜、と、わざとらしく大きなため息をついてやった。わざとではあるけれど、本心からのため息だ。 
 まさかこういうクサいセリフを毎日毎日聞かされるハメになるとは、一年前の私に想像できただろうか。それも、相手はあのセルダン伯爵。あの頃の私には雲の上の人、たぶん一生言葉を交わすこともないだろうと思っていたのに。
 世の中というのは不思議な作りになっているものだ。
「あなたねぇ、いいかげんに……」
「おや、きれいな細工のオルゴールだね」
 人の話を聞こうともせずに、セルダン伯爵はチェストの上に飾ってあったオルゴールを手に取った。――それは、私の父が、誕生日に送ってくれた――
「触らないで」
 思わずきつい調子で言うと、セルダン伯爵はそのままたたずんで一瞬こちらを見たけれど、すぐに柔らかい笑顔を浮かべてオルゴールのぜんまいを巻きはじめた。
「傷つけたりは、しないよ。どんな曲か聴かせてくれてもいいだろう?……それとも私のような男の穢(けが)れた手では触ってほしくない、と?」
 めずらしく自嘲気味に言う。
「そ、ういうわけじゃ、ないけど」
 そんな言い方をされては、強く言えないではないか。
「よかった」
 にっこりと極上の笑顔を浮かべる彼。この人は本当に笑顔の使い分けがうまい。
 そしてオルゴールのふたは開けられた。……私も、久しぶりにこのオルゴールの音を聞く気がする。けっこう手の込んだ作りになっているので、音は幾重にも重なって深い旋律を生み出していった。
「ビショフの『そよぐ風』……だね」
「……」
「昔の舞踏会では、この曲がよく流れたそうだよ。今はにぎやかな楽曲が流行しているけど、こういう優しい曲もいいね」
「これで踊るの?ワルツにしたって、スローすぎじゃないかしら?」
「曲にあわせて、ゆっくりとステップを踏めばいいんだよ、基本は同じ」
 そう言いながら、セルダン伯爵は私の前までやってきて、手を差し出した。……なに、この手は。
 その手と彼の顔とを交互に見やっていると、
「一曲踊っていただけますか?」
 と言い出したからびっくりだ。オルゴールの音色に合わせて踊ろうだなんて、とことんキザな男である。
「嫌です」
 当然のことながらキッパリ断ったが、そんな一言であとに引くセルダン伯爵ではなかった。ムリヤリ手を取って座っていた私を立たせると、踊る姿勢をとって部屋の真ん中まで引っぱっていってしまった。
「こんな曲で、踊れないわよ」
「大丈夫、なんだっていいんだから」
「じゃはっきり言うけど、別にあなたと踊りたくない」
「いつか大切な男性と踊るための練習だと思えばいい。ね」
 ね、じゃないってば。
 けれど、久々に聴いたこのメロディーが私に魔法をかけたのか、それ以上拒否することはできなかった。こんなに近くに男の人がいるなんて、初めてかもしれない。たま〜に行った社交パーティーで踊らされたときは、せいぜい手が触れ合う程度で、あとはリズムに乗ってはねたり回ったりする、カドリーユにしか参加しなかった。そう、こうしたワルツを踊ったのは、社交界デビューをしたあの晩以来だ。今はその時よりも身体を寄せて、まるで抱きしめられているかのような体勢。私ってば、いいのだろうか?こんなことをしていて。
 しかし恥ずかしさよりも、懐かしさが私の心を支配していた。……幼い私が、父にじゃれついたあの頃。広くて温かい父の背中はとっても安心できたっけ。……もうずいぶん長い間、忘れていた感覚のような気がする。
「フィーリア?」
 耳元でささやく声が、父のものとは違う。そうだ、この人はセルダン伯爵なんだった。
「誰か、他の男のこと考えてただろう」
「……ふふ、そうよ。世界で一番大切な男の人のこと」
 そうしてやがて、オルゴールの音は止まってしまった。

 次の日。
 私は従者を一人だけ引きつれて、バラ園に遊びに来ていた。秋の空は高くて、どこまでも澄んでいる。
(キレイだなぁ……)
 ぽけーっとしながらバラと空を眺め、ゆっくりと歩く私。
 ……でも少し、良心が痛んでいる。
 というのも、今は、いつもならばお茶を楽しんでいる時間なのだ。多分、セルダン伯爵は、今頃私の家を訪れていることだろう。
 実は前々から、「ティータイムにわざと出かけてセルダン伯爵を放っておく」作戦は、考えていた。それで怒ってわが家に来なくなればいいな、と。……でもそれはものすごく失礼なことのような気がして、実行できなかったのである。まあ、セルダン伯爵がうちに来る動機自体が不純なんだから、礼儀など気にする必要もないかと思ったりもしたけれど。
 今日それを実行してしまったのは、……昨日のことが今更気まずくなったからだ。なんだか、とことんあの人のペースに乗せられている気がする。このままじゃヤバい。……いやいや、好きになっちゃいそう、なんてことは全く全然一切ないけれど、あの人と一緒にいると、いつも掌の上で踊らされている気がしてならない。それが嫌でたまらないのだ。昨日だって結局つっぱねることができなかったし。
(ま、今日はお母様が家にいるから、訪ね損にはならないわよね)
 セルダン伯爵は私と会った後で、母が家にいれば必ず彼女のところに寄っていく。だから母は、セルダン伯爵が私のところに顔を出すのは自分と会うついでなのだと思いこんでいるくらいだ。「私と結婚するために、娘に懐いてもらおうとあんなに頑張ってくれてるなんて」と感激しているようなので、あんな母でも不憫になってくる。

「……フィーリア、さん?」
 一人物思いにふけっていたその時、後ろから柔らかい女性の声で話しかけられた。――振り返ると、そこには、社交界一の美少女と名高いステラ=エリソンが立っているではないか!
 どうやら彼女もバラを楽しみにきていたようで、数人の従者を連れてこちらへゆっくりと歩み寄ってきた。
 ――繊細可憐、触れると消えてしまいそうな儚い姿は、噂どおり。いや、それ以上だ。遠目でしか見たことがなかったけれど、こうして近くで見ると、まさに息を飲むほどの美少女っぷり。ふわりとそよ風に揺れるドレスは彼女のために神様があつらえたかのように似合っている。……そうだ、この間もセルダン伯爵が「ファッションセンスがいい」と褒めていたっけ。
「あら、突然ごめんなさい。私、ステラ=エリソンと申しますの。はじめまして」
「は、はじめまして」
 ふわりとした彼女の微笑には、同性の私もくらりとしてしまう。
「このようなところでお会いできるなんて、思ってもみませんでしたわ」
「ええ……私も」
「この秋のバラはすばらしいですね。色も、香りも。ずっとここにいたい気分にさせてくれます」
「そうですわね」
 かなり上の空でバラを見ていたことは、とりあえず忘れておこう。
「……私、フィーリアさんとはぜひお話ししてみたいと思ってましたの」
「えっ、私と?」
 天使の微笑を浮かべて、彼女はうなずいた。…どうして、こんな美少女が私と話してみたいなどと思っているのだろう?私のことを知っていただけでも驚きなのに。
「少し、二人きりでお話しませんか?」
 そう言って彼女はバラ園の奥の方を指した。
「……はあ」
 よく分からないけれど、せっかく社交界一の美少女に誘ってもらったんだから、少しくらいならいいか。そう思って、私は従者に馬車の近くで待っているよう言いつけた。ステラさんのお付きたちも、同じようにもと来た道を戻っていく。
 私はステラさんに導かれるままに、バラ園の奥へと進んでいった。どんどんバラの密度が深くなっていき、四方八方バラだらけ。バラの甘い芳香が強く漂ってくる。
 不意にステラさんは立ち止まり、こちらを振り返った。
「この時間に、このようなところにいらしてるなんてとっても意外でしたわ」
 唐突なそのセリフに私は混乱する。
「は?」
「だって、いつもはお茶を飲んでいる時間でしょう?」
 にっこりとして彼女は言った。……どうして知っているんだろう?
 私が戸惑っていると、さっと彼女の微笑みが消えうせ、突然真顔に戻ってしまった。とても冷たい表情を瞬時に浮かべたのだ。
「あの……」
「しらばっくれてもムダよ。知ってるんだから。毎日毎日、あなたがキースレイ様と逢ってること」
 ……え??
「冗談じゃないわ、私とはせいぜい週に1度しか逢ってくれないのに。いえ、最近はその1度すらも。――それなのにどうしてあなたには毎日、せっせと逢いに行くのよ!」
 ……な、なんだ?この豹変ぶりは。
 あっけにとられて何も言えずにいると、ステラさんは更に文句を言い続けた。
「いい?あまり調子に乗らないで!キースレイ様は、年頃になっても男っ気のないあなたに同情して相手をしてくださってるだけに決まってるんだから。本命は私の方なのよ。いいっ?」
 キースレイ……つまりセルダン伯爵のことだ。どうやらステラさんは、彼が私と毎日会っていることが相当気に入らないらしい。
 ……別に気にしなくても、そういうんじゃないのに。
 そう思ったが、ステラさんのあんまりな態度に腹が立って、思わずその喧嘩を買ってしまった。
「なによ、本当にあなたが本命なら、訪ねもせずに放っておいて、ほかの女のところに毎日通ったりするかしら?」
「なんですって?」
「できれば変わってあげたいけど。私なんかは、逆にちょっと困ってるくらいなのよね。毎日毎日押しかけてきて、あーんなキザなセリフばっかり言われちゃうと」
 ふう、と肩をすくめてみせた。――ああ、我ながらなんて嫌味な対応をしてしまったんだろう……。
 などとさっそく後悔していることは露も見せずにいると、ステラさんは肩をワナワナと震わせて声も出ないようだった。
「ふ……ふざけないでちょうだい。初対面でその態度、どういうつもりよっ!」
「それはこっちのセリフじゃないの!」
 可憐で儚いなんて嘘ばっかり。ものすごく根性の座った、たくまし〜いお嬢さんのようだ。どうやら、いつもはネコを三匹も四匹もかぶっているとみた。
「……っ、ひどいわ……」
 くちびるをぎゅっと噛みしめたかと思うと、とたんに大粒の涙が彼女の大きな瞳からこぼれおちた。
「わたし……わたし……」
「う」
 泣かないでよー!まるで私が悪者みたいじゃない!っていうか確かにどっちもどっちだとは思うけど!
「近頃やっと、エレナ=アーヴィングに飽きてきたみたいだと思って、喜んでたのに。やっと私だけを見てくれると思ったのに。そしたら、次はその娘?冗談じゃないわ……」
 そしてギッと彼女は私をにらみつけた。確かに冗談じゃなかろう。……だがしかし、どうして怒りの矛先が私に向くのだろう?どう考えても悪いのはセルダン伯爵ではないか。
「絶対、キースレイ様をあなたから取り戻してみせるから!」
 そう宣戦布告すると、ステラさんはきびすを返してその場から立ち去ってしまった。その勇ましい後姿といったら。彼女に夢中の男たちが見たら一体どう思うだろうか?
 ……やれやれ。なんだかわけの分からない、突然の嵐が吹き抜けていった、そんな午後だった。