06.

「ひどいじゃないか」
 次の日のティータイム。セルダン伯爵の第一声は、それだった。
「あー……ごきげんようセルダン伯爵」
 とりあえず無難な挨拶を返しておく。が、彼はそれを無視してなおも私に詰め寄った。
「まさかこの私が女性に約束をすっぽかされるとはね。こんな経験初めてだ」
「あら、だって約束なんてしてないもの」
「約束をしてない?……ああ、確かにはっきりとした約束を交わしたことはない。だが言葉よりも重要なものというのはあるだろう?愛する人に、毎日『愛してる』と言わなければ気持ちは伝わらないと思うかい?まさか。一度もそんな言葉を口にせずに三十年連れ添った夫婦だっているだろう。それと同じで、口にはしなくても君はいつも私のことを待っていてくれてると思っていたんだがな」
 なんなのだ今日のセルダン伯爵は。いつもに増して道化がかった様子だ。
 思いっきり不審がってその様子を見ていると、セルダン伯爵はやれやれと肩をすくめた。
「君にこんな言い方しても、響くものは何もないようだね。――まあとにかく、ショックだったのは事実だよ」
「セルダン伯爵の華麗なる経歴に傷がついて?」
「そういうところだ」
 私は軽く笑った。
「昨日は、バラを見に少し遠出してきましたの。だからお茶の時間には帰ってこれなかったんですわ」
「それならそうと、私のところに使いを出してくれればいいじゃないか。私が来ることは分かっていたんだから」
「まあまあ、それより昨日は、バラ園で意外な方にお会いしたのよ」
「というと?」
「ステラ=エリソン嬢」
「へえ」
「噂どおりの方ね。すごく繊細で柔らかい雰囲気の方だったわ」
 ――雰囲気はね。と、心の中で付け足しておく。
「少し話しただけだったからなんとも言えないけれど、性格もやっぱりそういう感じなのかしら」
「そうだね。女性らしく控えめな人だ。でも頭はいいよ。話していて、こちらが疲れることがない。さりげない心配りのできる人だ」
 あらあら。やっぱり男の前では“そういう”かんじなんだ。
「でも女どうしでお話しすると、普段は隠れている本音が見えてくることもあるわ」
 昨日のは……、ちょっと恐ろしいくらいに見えてしまったけど。
「彼女、あなたのことが好きなのね。そういう感じがしたの」
「ふうむ」
「社交界一の美少女で、器量もよくて、一緒にいて安らげる。そんな人に対しても、一途になれないものなの?」
「どうだろうねえ」
 セルダン伯爵は適当にあいづちを打つばかりで、一向に話が先に進まない。
 ……もしかして、口で言っているほどステラさんのことを気に入っていないのだろうか?――だとしたら、この男の好みはいったいどうなっているのだろう。私が男だったら絶対に虜になっている程の完璧な美少女なのに。……あ、そうか、上辺は完璧・中身はめちゃくちゃという同類の匂いを嗅ぎとって敬遠しているのかもしれないな。
 などと、おそらくセルダン伯爵本人にしてみればひどく不本意な結論にいたり、一人うなずいていると、
 コンコン
 と控えめにドアがノックされた。
「お嬢様、お客様でございますが」
「お客様?」
 続いて聞こえたメイドのセリフに驚いて、すっとんきょうな声を上げてしまった。
 私を尋ねてくる人なんて、そうそういないはずだ。というか、セルダン伯爵くらいしか思い当たる人はいない。だが、当のセルダン伯爵はすでにここにいるわけで……。首をかしげながらドアを開けると、メイドの後ろに控えていたのは――
「ベックフォード侯爵!」
 なんと、先日舞台鑑賞に招待してくれた侯爵ではないか!
 まさかこんな落ちぶれた家に(しかも今日は母はいない)足を運んでくるとは!一体、何があったのだろう?もしかして私、何かしただろうか。……あっ、やっぱりあの時、早々に帰ったことを怒っているんだ。それとも話を立ち聞きしてたのがバレたとか!?つまらなさそうにしていたことを見抜いていたのかも。……いやいやもしかしたら……
 一瞬のうちに大混乱に陥り、頭の中をさまざまな考えがぐるぐると回りに回る。目の前が真っ白になっている私に、ベックフォード侯爵はにっこりと微笑みかけた。
「入ってもいいか?」
「えっ、あっ、すすすみません、どうぞ、その、むさくるしい所で恐縮なんですが」
 私と同様に、ベックフォード侯爵までもをそのまま突っ立たせていたことに気づき、大慌てでドアから飛びのく。
 そんな私を見てくすくすと笑いながら部屋に入ってきた侯爵だが、中にいた先客を見て驚いたように声を上げた。
「あれ?――キースじゃないか」
「オーウェン。一体、何の用なんだ?」
「いやなに、ちょっと、フィーリア嬢にプレゼントがあってな」
「プレゼント?」
 私とセルダン伯爵の声が重なる。意外も意外な返答だ。
「プレゼントって?」
「お前にじゃないぞ」
「分かってるよ」
「なら、聞くべきはお前じゃないだろ。なぁフィーリア」
「は、はぁ」
 どう対応していいものか全く分からず、そのまま立ちつくしていると、「失礼します」という新しい声がかかり、ドアから若者が一人入ってきた。手には、数冊の本。立派な装丁のもので、一冊がかなりの分厚さになっている。
「これが、プレゼント」
「……これって?」
 若者――おそらく、ベックフォード侯爵の従者が置いていった本に近づき、その表紙を覗き込んでみた。
「――えっ、ローディスク……全集?」
 驚いてベックフォード侯爵の方を見ると、彼は満足そうに頷いてみせた。
「一部の貴族限定で配られた、ローディスクの戯曲全集だ。たしかローディスクの戯曲は、全集は出てなかったと思ってな。君がたいそうローディスクのファンのようだったから、プレゼントしようと思って持ってきたんだ」
 ……うそ。
 ペラリとページをめくってみる。……紙はとても上等なもので、字も美しく丁寧だ。そのままペラペラとめくってみると、その字体は最後まで変わっていなかった。つまり、同一人物が一冊を手写しきったということ。こんなキレイな字を書く手写のプロが、このページ数を一人で書ききるって……。――表紙といい中身といい、これは相当な値打ち物だ。それにローディスクの戯曲は、侯爵が言うとおり、一般には全集が出されていない。
「こ、こんなスゴイもの……いただいてもよろしいのでしょうか?」
 だめですよやっぱり。
 そう思うが、驚きで声が続かなかった。
「すごいといっても、ローディスクに興味のない者にはゴミ同然の品だ。すごいと思ってくれる君にこそ送る価値があるというもの。受け取ってもらえるか?」
「こ、光栄です。本当に、すごく嬉しい……。まさかこんな……、でもやっぱり、私なんかにはもったいないような」
「あげると言ってるんだから、もらっておけばいいんだよ」
 妙に冷めた声で、セルダン伯爵の横槍が入った。
「こういった類のものは、彼のところには腐るほどあるんだからね。……それにしてもオーウェン」
 不意にセルダン伯爵は、ベックフォード侯爵の方を向き直った。
「なんだ?」
「本を贈るくらい、さっきの従者一人で十分済ませられる仕事だろう。一体またどうして、侯爵直々にいらっしゃったのかな?」
「別に、毎日フィーリアに逢いにきている君を冷やかしに来たわけじゃないさ。この間は、せっかく来てくれたというのに大して構うこともできないまま帰ってしまったからな。少し、フィーリアと話をしたいと思ったんだ」
 やれやれ、とでも言うように、セルダン伯爵は肩をすくめた。
「よっぽど暇らしい」
「毎日来てるお前が言うセリフか?」
「私は、フィーリアに会うために時間を割いて来ているんだ。そのへん誤解しないでほしいな」
「それはそれは。……で、このあとはアンナのところへ“時間を割いて”行くのか?それともイザベラ?」
「そんな女性は知らないな。自分の“知り合い”と混同しているようだよオーウェン?」
 ……こ、この二人は、本当に友人どうしなのだろうか。ものすごく冷え冷えとした会話が続いているんですけど……。
「フィーリア、そんなところにいつまでも突っ立ってないで、座ったらどうだい?」
 ふと、何事もなかったかのように穏やかな声で、セルダン伯爵は私に席をうながした。
「ええ……」
 なんとなく、この二人とテーブルを囲うのは気が引ける。たぶん、会話についていけない。
 とは言うものの、私だけが遠くに座るわけにもいかないので、大人しく席についた。
「……」
 ど、どうしよう。さっそく会話が思い浮かばない。
「ほら、オーウェンが急に訪ねてくるから、フィーリアが気まずそうじゃないか」
「な、なに言ってるんです!そんなわけありませんわ。ただ、少し緊張しているだけで……」
 しれっとした顔でとんでもないことを言い出すセルダン伯爵の言葉を慌てて否定した。――侯爵相手になんてことを言うのだ、この男は。
「緊張なんてしなくていいよ」
 と、セルダン伯爵。…あなたが言うセリフじゃないってば。
「全く、口の減らない男だ、君は」
 軽く笑いながら、ベックフォード侯爵は紅茶を飲んだ。……どうやら気分を害したわけでもないらしい。なかなか度量の大きい人のようだと分かって、肩に入った力が少し抜けた。
「本当ですわ。親しき仲にも礼儀あり、というではありませんか」
「その通りだ。こんなに礼儀を欠いた男を毎日相手をするのも疲れるだろう、フィーリア?」
「疲れるだなんて……。失礼に当たってしまいますから、お答えできませんわ」
「ほらキース。このように何事にも恥じらいを持って接せねばならんぞ」
 ぺらぺらと好き勝手にしゃべる私たち二人を、セルダン伯爵は苦笑を浮かべて皮肉った。
「……どうやらお二人は大変気が合うようだね」
「そういうお前とフィーリアは、運命的なほどに気が合わない様子だな」
「フィーリアが一方的に私を嫌っているんだから、“気が合わない”とは違うと思うけどね。フィーリアの冷たい態度には私は毎日傷つけられている」
 どの口が、そんなふてぶてしいことを言うのだろう。全く、この男は口から先に生まれたに違いない。フィーリアの冷たい態度には、私は毎日面白がっている、って自分でこの間言っていたばかりなのに。
「セルダン伯爵は、傷ついたときにあんなにも楽しそうな笑顔を浮かべるものですの?あなたのあの満足そうなお顔を見るたびに、私はもっともっと冷たい態度を取るべきかしらと迷うのですけど。そうすればあなたはもっともっと楽しめるのでしょう?せっかくいらしてくださっている方に、退屈させるのは申し訳ないですものね」
 ベックフォード侯爵の前ではあるが、一言言ってやらねば気が済まなくなり、ついつい皮肉が口を突いて出てきてしまう。セルダン伯爵は右手を口元に当てて、かすかに苦笑しただけだったが、一方のベックフォード侯爵は豪快に笑い飛ばした。
「はっはっは、一杯食わされたな、キース。すばらしいお嬢さんだよ。お前だけの相手をさせておくのはもったいない」
「いやですわベックフォード侯爵、そのようなことおっしゃって。道化と評されるのは、セルダン伯爵にだけで十分です。……ああ、残念ながらベックフォード侯爵もそう評するお一人になってしまわれましたけど」
「道化だなどと、思っているはずがないだろう。感心しているのだからな。君ほど聡明な令嬢はそうそういない。キースも、きっと同じ気持ちだろう。なあ?」
「そうだねえ」
 その間延びした返事はなによ?そう、心の中で問いかけたとき。思いもよらず、セルダン伯爵は席を立ってしまった。
「私たちはそろそろおいとましようか、オーウェン」
「あら、もうお帰りになるんですの?」
「まだ来たばかりなんだがな」
「そうですわよ、せっかくいらっしゃったのに……」
 わかってないなあ、とセルダン伯爵はわざとらしく肩をすくめた。
「君が他の男と意気投合して話しているのを見せつけられて、やきもちを焼いてるんじゃないか。……と、いうことでオーウェンは連れて帰るよ」
 軽くウインクなんかしちゃって、ベックフォード伯爵を押し出しながら、セルダン伯爵は部屋をあとにしてしまった。……やきもちなんて焼いてるわけがないのは子供だってわかるというもの。きっと他に、何か思うところがあったのだろう。でも、それがなんなのかは私には分からない。あの人の考えることは、いつもいつも私には分からない。自分の本心を、ほんの少しも見せないような相手を、好きになれるものなのだろうか?それとも、そういう態度は私にだけ?他の女の人たちには、ちゃんと心を開いているの?……分からない。
 私は一人、複雑な思いで窓の外に目をやった。