08.
それから一週間後、ベックフォード侯爵の豪邸へ遊びに行くまで、セルダン伯爵は本当に来なかった。別にいいけど、最後くらい挨拶しに来てもいいんじゃなかろうか。あんな別れ方でハイ次の女、だなんて、無神経も度が過ぎている。
(別に、いいけど!)
そんなことを考えながらベックフォード侯爵邸へ行くと、さっそく彼に
「何か嫌なことでもあったのか?」
とつっこまれてしまった。
嫌なんてとんでもない。非常に喜ばしいことがあったのだけど、相手の自分勝手さがちょっと気に障っただけだ。
「最近、キースが来ないんだろう」
「……たぶん、もうずっと来ないでしょうね」
「それで拗ねてるわけか?」
「まさか!」
私はキッパリと否定して、出された紅茶に口をつけた。
――改めて入ったベックフォード侯爵の部屋は、意外にもシンプルなものだった。回廊などは立派な像が飾られていたりと、けっこう華やかだったのだが、ここは非常に落ち着いた渋い色合いの調度品で整えられている。
部屋はやはり広いもので、私にはなんだか落ち着かない。大きくてふかふかのソファに身を沈めても、なかなかゆったりとした気分にはなれなかった。
……前に来たときは、あのドアの向こうで立ち聞きしていたんだっけ。そして聞きたくもない話を聞いてしまった。まあ、自業自得ではあるけれど。
「まさか!……か。では逆に聞くが、それ程キースが嫌いなのか?」
「……ご友人の前で、いない人の悪口をいうのは好きではありませんわ」
「なるほど、分かりやすい答えだな」
「……」
「私は君に、非常に興味がある。あいつが目をつけて、落とせない女はいなかったからな。放っといてもどんどん女が寄ってくるようなやつだ、キースは。それが、君を相手にするとまるでてんてこ舞いになってしまうんだから」
「私自身、このような何のとりえもない娘ですから。顔だけで男の方を選んでいては自滅することくらい、身にしみてようく分かっております」
「母親はあのエレナ=アーヴィングだ。磨けば光るだろう」
歯に衣着せぬものの言い方をする人だ。だが悪気はないのだろう。変に皮肉った喋り方をする誰かさんと比べれば、よほどいいか。
ベックフォード侯爵のソファの隣には、布に包まれた四角い物体が置かれている。おそらくあれが、手紙でいっていた絵なのだろう。こんな話をしているよりも、早くその絵を見てみたい。だが、彼にとっての“本題”は絵ではなくセルダン伯爵のことなのだろうから、催促するわけにもいかないのだが。
「私には、セルダン伯爵の考えていることがさっぱりわかりませんわ。一度に何人もの女性を、どうして相手にすることができるのかしら?私のことは別として、同時に何人もの女性と付き合っているんでしょう。……ずっと昔から、私の中にあった疑問なんです。……母も、そういう類の人だし」
「答えは簡単だよ。誰も、愛していない。それだけだ。全てがゲームなのさ。フィーリアだって、本を読むこともあればオペラを見に行くこともあるし、芝居を見に行ったりもするだろう?色々な娯楽を楽しんでいるはずだ。あいつや私の場合、恋愛はそういうものなのさ。一つだけではすぐに飽きてしまうから、平行して色々な恋愛をする。――君の母君は幸運だったね。彼女も私たちと同じような人間のはずなのに、本当に愛する一人を見つけることができたんだから。それが君の父君というわけだろう?本物の愛をはぐくみながら、ゲームとしての恋愛をこなすなんて、実に器用な人だよ」
「……でも、今はセルダン伯爵に本気で恋しているわ」
「――君の父君が亡くなって、どれくらいだったかな」
「……一年と少しです」
「母君とキースが出会ったのは?」
「詳しくは知らないけれど、多分半年前くらいだと」
「おそらく、母君はあいつに本気で恋などしていないさ。父君がいなくなったのが辛くてどうしようもなくて、支える何かがほしかったのだろう。それで、あいつに恋していると思いこんでる。同じ穴のムジナを本気で好きになるなんてありえないね、私に言わせれば」
「そう……でしょうか」
「そうですとも」
にっこりと彼は微笑んだ。
“同じ穴のムジナ”の人にそう言われると、少し救われた気分だ。……母は、今も、父を一番愛している、……と信じてもいいのかもしれない。
でも、そうだとしたら、二人はなんて実のないゲームをしているのだろう。
「……空しくありませんか?」
つい、思ったままのことが口を突いて出てしまった。一見すれば挑発のような嫌なセリフだったとすぐに気づいて口をつぐんだが、ベックフォード侯爵は怒らなかった。
「空しいさ。だが、どこで間違えたのか、私やキースの恋愛の価値観というものはそういうものでね。まあ君が、本気であいつを好きになることのないよう、祈っている。そんなことになっても、あいつは答えてやることができないだろうからな」
「……わかって、います。――でも本気で人を好きになれない人なんて、いないと思います。ただそういう人に恵まれていないだけですわ、きっと。私のように容姿に恵まれていないと誰も寄ってきませんけど、恵まれすぎている方にも寄ってこないものですのね。……見目で自分を、判断しない人って。私たち、同類のようですわよ」
「そのようだな」
二人で苦笑を浮かべた。なんだか妙な連帯感のようなものが生まれた気がする。それはちょっと、おこがましいだろうか?でも、ベックフォード侯爵は、思ったことをずけずけと言う分、とっつきやすい人だ。何を考えているか分かる気がするからだろう。それに比べて、セルダン伯爵のあの鉄壁は……。私ではくずせそうにもない。
「まあ、キースのことも、懲りずに相手してやってくれよ」
私の心の中を見透かしたかのように、ベックフォード侯爵は言った。
「ここだけの話、公爵の娘にダンスを教えるなんて嫌で嫌でしかたがないようだからな。どうやらその娘というのがキースの好みの対極に位置するような娘らしい。フィーリアと時間を過ごしている方がよほどいいと、漏らしていたよ」
「会ったんですか?セルダン伯爵に」
「昨日の晩にな」
そうなのか……。別に、公爵家の娘に手を出そうというのではなくて、本当にしかたなくダンスを教えている?……だとしたら、私やステラが心配していたことは、ただの取り越し苦労だったというわけか。
―――ん?
いや、違う違う。私は心配なんてしていない。それはステラだけだ。
それにしても、私と過ごしている方がいい、なんて言っていたんだ。まさかそんな風に言われることがあるとは思いもしなかった。……自分の好みと対極の女との引き合いに出されたというのが、ちょっと気に入らないけれど……。
「今度、君からあいつを訪れてやればきっと喜ぶだろうよ」
「つけ上がる、の間違いでしょう」
そう言うと、ベックフォード公爵は大きく笑った。違いない、と、なんとか笑いを押し殺しながらつぶやく。そんなに面白いことを言ったつもりはないのだが。多分、あのセルダン伯爵をここまでコケにする女がいること自体が面白いのだろう。
「そうそう、今日は絵を見せるために我が屋敷に招待したんだったな。……これなんだが」
がさり、と、脇に置いてあった絵を取り出すベックフォード侯爵。包み紙の下から姿を現したそれは、風景画だった。港町――の絵のようだ。私は本物の海というものを見たことがなかったので、その絵の深い青にじっくりと見入ってしまった。
「……きれいです」
「そうだろう。カナンテという港町の風景だそうだ」
「カナンテ?」
聞き覚えのある単語に、私はぴくりと反応する。そんな私を見て、ベックフォード侯爵は満足げに頷いた。
「私の友人が、このカナンテにある大学へ通っていてな。ふと、そのことを思い出してこの絵を引っぱり出してみたんだ」
「その……ご友人というのは」
「エルバート=フランシス」
「!」
エルバート=フランシス。エルバート――お兄様。……私の、従兄だ。
「……本当に、お顔が広いんですのね」
あきれたように私はつぶやいた。ベックフォード侯爵のこの満足そうな表情を見るに、おそらくエルバートが私の従兄だという情報をキャッチした上で、今回私を招待したのだろう。――もしかしたら、私は彼が大好きだということまで知っているのかもしれない。
――そう。私の父の、姉……つまり伯母の息子が彼、エルバート。幼い頃からおたがいの家を訪ねたり訪ねられたりして、よく遊んだものだった。血筋なのだろう、私の父がそうであったように、彼は優しく紳士的な人だった。つい最近までこんなさえない私の話し相手になってくれたりと、まさに理想のお兄さん。それが四年前、学者になりたいからと、エルバートは遠いカナンテの大学に行ってしまったのだった。そのときの私はかーなーり落ち込んだ。大好きなエルバートお兄様と会えなくなるなんていや!と、大暴れして父や母を困らせたものだ。優しい優しいお兄様はカナンテに行ってからも定期的に私に手紙を送ってくれたから、この四年をなんとか耐えられたと言っても過言ではないだろう。
……そのエルバートとベックフォード侯爵が、友人同士だなんて。
「エルバートからの手紙に、時折従妹の話が出てきていたんだがな。それが君だと気づいたのはつい最近だった」
笑いながら、ベックフォード侯爵は言う。
「……私の話って、どんな?」
気になって思わず聞いてしまったが、侯爵はにやにやと笑って「それは教えられない」ともったいぶるだけだった。……さっすがあのセルダン伯爵と馬が合うだけはある。類は友を呼ぶのだ。この様子は、まるでセルダン伯爵と同じ!……エルバートともお友達というのは、……まあ何事にも例外というものはあるのだろう。
「人の手紙の内容をそうペラペラと喋るのは、行儀がいいとは言えまい?」
もっともらしいことを言っているが、私をからかって楽しんでいるのが本音だということはすぐに分かる。
「そう怖い顔をするな。この絵は君にあげよう」
端正な顔をへらっとした呑気な微笑みで崩しながら、ベックフォード侯爵は絵を差し出した。この絵を見てエルバートに想いを馳せろとでも言うのだろうか?……まあもらっておくけど。
「エルバートが帰って来るまで、あと半年。やっぱり、四年半というのは長いものですわね」
「あと半年、か」
またまたもったいぶった調子で、ベックフォード侯爵は呟いた。……なんなんだ、さっきから。
「君はまだ知らないようだな。エルバートは、二週間後に帰って来るよ」
「――え!?」
唐突な重大発表に驚いて、私は思わずソファを蹴飛ばすようにして立ち上がった。――だって……あと半年のはずが、二週間て、それは、――ええ!?
「まあ知らないのも無理はない。私も、大学関係者のあるツテで聞いた話だ」
にやっと口の端を上げて侯爵は笑う。私のこの反応を待っていたとばかりに。
「ど、どういうことっ?」
「なんでも非常に成績優秀で真面目な生徒だったらしく、半年分は飛ばして学科の修了を許可するというお達しが出たそうだ」
「本当ですか!?」
「ああ本当だ。こんな嘘をついても仕方あるまい?」
――――――やったあ!エルバートお兄様が帰って来る!ずっと待ってたエルバートお兄様が、帰って来るんだ!!
私は嬉しさのあまり、両手をがっちり組んで、今までのどんなミサのときより心を込めて神様に感謝の気持ちを表した。――ああ、ありがとう神様。色々踏んだり蹴ったりな人生を送らせていただいてますけど、ほんの少しの希望すら失わずにすんだのには感謝いたします!
「ま、これでやっと面白くなってきたわけだ」
脇でなにやらベックフォード侯爵が呟いていたけれど、そのときの私にはほとんど耳に入っていなかった。お兄様が帰ってきたらとびきりの紅茶を入れて我が家に招待しよう、とか、そのときの服は何を着ようかいっそ新しく仕立ててもらおうか、だとか、とにかくエルバートのことで頭がいっぱいになっていたのだ。