10.

 結局その日は、ドレスのほかに髪飾り・ネックレス・イヤリング・靴というほぼ一式を買ってもらった。放っておくとどこまでも買い足していきそうだったので、最後は必死の形相で止めに入ったものだ。――それでも買ってもらいすぎている。何の縁もない人に、どうしてこんなに買ってもらっちゃったんだろう……。
 そんな罪悪感交じりの気持ちももちろんあったのだが、やっぱり、嬉しいものは嬉しい。ドレスは三日後に完成するとのこと。それを待ち遠しく感じてしまうなんて、やっぱり私も一応は女の子のようだ。
 けれど、心の半分ではまた別な気持ちが渦巻いていた。……庭園で見かけた、あの二人のこと。セルダン伯爵のいい加減さがちょっとむかつく。だって彼は、口約束とはいえ婚約している身だ。その上、今でも数人付き合いのある女性がいるみたいだし。それなのに、また新たに一度ふった(かどうかは定かではないけれど)女性とヨリを戻そうだなんて、女たらしにも程がある。それにステラは本気なのだ。 向こうも遊び半分というならまだしも、本気で自分を慕っている女性と遊びで付き合えるだろうか、普通?
 それだけじゃない。私との賭けにも、まだ正式な決着がついていない。いや、私の勝ちは明白だけど、ちゃんとそれを認めるためにも姿を現すべきだ。―― 一度は来なくていいかと思ったけれど、今日の彼の様子を見ているとなんだか釈然としない気持ちが沸き起こってきたのだった。
「気に入らなかったか?」
 馬車の中、喜びと憤りが入り混じった複雑な気持ちで押し黙っていると、少し困ったようにベックフォード侯爵が私に声をかけてきた。
「えっ?」
「何もかもを私が決めてしまったし、フィーリアは楽しくなかっただろう」
「あら、まさかそんなことはありません!買っていただいたことはなんだか申し訳ない気がしますけど、やっぱり、嬉しいです。はやく完成したドレスを見てみたいと思っていたところですわ」
「だといいが……」
 言葉に詰まる侯爵を見て、私は慌ててしまう 。
「本当です!……ただついさっき、セルダン伯爵を見かけたものですから」
「キースを?」
「ええ。まーた別な女の人を連れていました。それで、ちょっと納得いかなかっただけなんです」
「やきもちか」
やっと侯爵が笑ってくれたが、「やきもち」などという結論には納得いかない。
「違いますっ。だって、その女の人というのが、ついこの間私のところに来てセルダン伯爵にふられたと泣いていた人だったから」
「ほう」
 キラリ、とベックフォード侯爵の瞳が光った。気がした。
 ……余計なことを口走ったかもしれない。ごめんステラ。
「めずらしいな。あいつは一度関係の終わった女とヨリを戻すことはあまりないと思ったが」
「でもその人だったんですもの」
「なにか事情が……」
 ふと、侯爵は呟いたが、途中でぴたりと黙りこくった。
「――いや。そうだな、その女性がよほどの美人だったりしたら、話は別だろう」
「超美少女ですわ」
 結局男はそんなものなのだ。まったく、これだからちょっと顔のいい男はいやだ。やっぱり男性は、何においても普通に限る。改めてそんな結論に達した私だった。

 さて、当のセルダン伯爵がわが家を再び訪れたのは、その二日後のことだった。
 もう来ないと思っていたから少なからず驚いたものの、快く迎える気には到底なれなかった。
「久しぶり、フィーリア」
「本当に。今日はどうなさったんです?忘れ物でもなさったことを思い出しました?でもあいにく、あなたのものは何一つわが家にはなくてよ」
「相変わらずのようでなによりだ」
 そういうセルダン伯爵も相変わらずのようだ。いちいち癪(しゃく)に障る態度はいつもどおり。
「だがつい先日、思いもかけないところでめぐり逢ったようだけど」
「え?」
「君が、サンクローゼのテラスにいるのを見たときは、かなり驚いたよ」
 サンクローゼというのはあの服飾店の名前だから、どうやらあのときセルダン伯爵のほうでもこちらに気づいていたらしい。まったく、目ざとい男だ。
「だれかの紹介で?」
「ええ、まあ」
 ステラのことで彼を詰問するのもいいのだが、その前に何故自分があんなところにいたのかを説明するのは、かなり気が進まない。ベックフォード侯爵にドレスをプレゼントしてもらったことはあまりいいことではなかったと今でも思っているから、言いたく、ない。それに、仮にそれを話したとなれば、どうしてプレゼントしてもらったかも説明することになるだろう。……エルバートのことはもっと話したくない。なんだかセルダン伯爵に弱みを握られるかのようで、嫌なのだ。
 そんな思いから、自然と答えも歯切れの悪いものになってしまう。
「あんな高級店を紹介できる知り合いが、君にいるとは意外だけど」
 もう、そんな話はどうでもいいじゃないの。心の中で抗議したが、セルダン伯爵のほうは一向にこの話題を取りやめるつもりはないようだ。それどころか、とんでもない言葉があとに続いた。
「――そういえば最近、オーウェンと仲がいいようだね」
「……」
 ――見透かされている。
「……仲がいいというほどでもありませんけど」
「おたがいの家を行き来して、共に遊びに出かけているのを仲がいいと言わずに何と言うんだい」
「ベックフォード侯爵から聞いたの?」
「聞いた話もあるし、風の便りで耳に入った話もある」
「もう、何だっていいじゃないの。あなたには関係ないわ」
「関係ある」
「ない」
「ある」
「ない」
「ある」
「ない」
「ある」
「ない」
「ある」
「……しつこいわね」
「そっちこそ」
 にこりと秀麗な笑みをたたえ、平然と切り返すセルダン伯爵。年頃の娘が、年頃の男性と二人きりで、どうしてこんなバカみたいな会話をしていなくてはならないのか。だがしかし、相手がセルダン伯爵である以上は、これよりも実のある会話など望めそうにもなかった。そういう、二人なのだ。私たちは。
「――いいわ、なら、あなたに何がどう関係あるのかはっきり言ってみてちょうだい」
 少し切り口を変えてみた。どうせ返ってくる答えは、「私は君を慕っているのだから」とかなんとか、その辺の薄っぺらな台詞に決まっている。それならばいくらか反撃ができるというもの。
 しかし、セルダン伯爵の反応は思った以上のものだった。
 にっ、と不敵な笑みを浮かべると、つとこちらへ歩み寄って私の手を取る。そしてあろうことか、その手に唇を寄せ、キザったらしくキスをしたではないか!
「!!!??」
「自分の想い人が我が親友と恋に落ちるなど、それほど心重く苦しいことはないだろう?この気持ち、君にはわからないかもしれないが」
 この気持ちもどの気持ちも、何がなんだか分からないが、セルダン伯爵が妙に切なげな微笑を浮かべて更に一歩近づいてくるのは目に映る。―――わー、近寄るなーっ!
 これはちょっと、反則だ!
 思わず私も後ずさるが、右手をセルダン伯爵に囚われているままだったのでそれもうまくいかない。一気に顔が上気していくのが自分でわかった。混乱する頭の片隅で「これは単なる伯爵の策略に過ぎないんだ、赤くなったりしたら思う壺じゃないか」と警鐘を鳴らす自分がいるが、だからといってどうしようもない。恥ずかしくて恥ずかしくて、私はそのまま硬直してしまった。
「この二十日ほどの間、君に逢えずつらい思いをしたよ。公爵の娘の所へ向かうたびに、途中で馬車をこちらに向けてしまおうかと思った。今日はついに実行してしまったけど」
 すぐ近くで囁くセルダン伯爵の息がかかりそう。どうして、どうしてだろう。こんなセリフ、女を落とすためにセルダン伯爵が蓄えてあるレパートリーから引っ張り出してきた口説き文句に過ぎないのに。もはや私の顔はユデダコ状態だろう。セルダン伯爵の顔もまともに見れない。
(こ……こんなことって)
 うつむきながら、私は茫然自失になってしまった。
「一日逢えないだけで寂しい思いをしたのに」
 こんな奴にキザなセリフで口説かれて、赤面してしまうなんて。
「私が来れない間、オーウェンと仲良くしていたと知って」
 しかもそのセリフに、本心はこれっぽっちも含まれていないのに。
「どれだけ私が辛い思いをしたかわかってる?」
 これでは完全にこいつのペースに巻き込まれているじゃないか。
「オーウェンとは、ただの知人だと言ってほしい」
 だめだだめだ。この人、顔だけはいいから、のぼせ上がってしまうんだ。気をしっかり持たないと。
「フィーリア、私の来れなかった間、オーウェン以外の男とは逢っていないだろうね?」
 こんなの相手に取り乱してしまった自分が恥ずかしくて恐ろしくて、頭まで上りつめた血の気が、だんだんと引いていくのを感じた。死ぬほど嫌いな男に上辺だけの口説き文句を並べ立てられて赤くなるなんて……なんて……なんて……。
「―――――聞いてる?」
 うって変わって真っ青な顔でうつむく私の顔を覗き込み、セルダン伯爵は眉をひそめた。
「――れない……」
「ん?」
「信じられないわ……」
 ふらり、と私は窓辺に寄り添い、外の風を求めて窓を開け放った。
「フィーリア?」
「……き、気持ち、悪い……」
「はあ?」
「ご、ごめんなさい、ちょっと今日は……ダメみたい」
「おいおい……」
 先ほどまでの切ない表情はどこへやら、興ざめしたというようにセルダン伯爵は肩をすくめた。
「私がフィーリアを口説いたから、気分が悪くなったというのかい?そこまで嫌われてるとはさすがに思わなかったよ。――やれやれ、大丈夫かい?」
 怒ったような顔をしながらも、セルダン伯爵は私の隣まで来て背中をさすってくれた。……でもやめて、さすがにこんなところで……たくない。
「だ、だ、大丈夫。黙っててくれれば」
 よろよろと、手でセルダン伯爵を制し、向かい合う姿勢をとった。
「……了解」
 憮然とした表情で、彼は低くつぶやく。納得がいかないという感じだ。こんなセルダン伯爵は初めて見るが、今の私にはしてやったりと喜ぶ気力もない。そしてそのまま、一言二言で彼を無理やり帰してしまった。

 その晩、私はベットの中で何故だか涙を流していた。
 あの時は恥ずかしくて悔しくて信じられなくて、と混乱しどおしだったが、日が傾きやがて落ち、全てが静まり返った今になると、悔しい思いだけがどんどん膨らんでいって、耐えられなくなってしまったのだ。
 何が、私の来れなかった間、男とは逢っていないだろうね、だ。そういう自分はどうだというのだ。ステラという美少女と一緒に楽しげに庭園デートをしていたくせに。たまに出かけても見かけたのだから、私の見ていないところでは存分に女と遊びまくっているに違いない。
 悔しい。きっと、私のことをバカにしてる。陳腐な口説き文句でのぼせ上がったくだらない女だって。……悔しい。――なにより、自分自身が。そんなことで泣いている、今の自分もバカみたいだった。