11.

 わけもわからず一晩泣きはらした次の日、私はいくらかスッキリした気分で朝食をとっていた。ふと窓の外に目をやる。文句の無い快晴だ。
 やっぱり、朝日というものはいい。夜は嫌い。……いろいろなことを考えてしまうから。それに、心がとても不安定になってしまう。昔は、そんなとき父と母の元へすり寄って、甘えることができたけど。父がいなくなってしまってからは、私も母も不安定になって互いにすがることもできなくなったんだ。――そうだ、昔はこんなにも母と疎遠ではなかった。でも今は……。
 母には、すがれる男たちがたくさんいる。でも、私にはすがれる人なんて誰もいない。そう思うからますます母が憎くなった。
 父のことだけじゃない――私は、自分のことでも、母を許せないと思っていたんだ。
(……)
 今も一人、自分の部屋で朝食を取っている。
 母はまだ自室にて熟睡中だ。――昨日の晩、セルダン伯爵のところへ出かけて遅くまで帰ってこなかったから、まだ寝たりないのだろう。いい年して、そういうところのわきまえというのもさっぱり持っていないらしい。
(セルダン伯爵もセルダン伯爵よ。昨日、私にあんなことしといて、その日の晩にはその母親と仲良くしようだなんて。あてつけのつもりかしら!)
 ――まさかそんなつもりもないだろうが。「あんなこと」といったって、ただ手の甲に口付けされただけのこと。貴族の間なら、いくらだってあるやりとりだ。向こうはなんとも思っていないのは、火を見るより、あきらか。それをグダグダ気にしているのは私のほう。
(……わかってるわよ)
 男慣れしていない、こんなガキ――セルダン伯爵にとっては、ターゲットにすらなるわけない。一人で気合入れてから回ってる私は、ホントにどうしようもないガキだ。

 ――――フッ。

 ……ああ、なんか、悟ってしまった。こういうのを無の境地とでもいうのだろうか。そうだ、セルダン伯爵は、私を振り回してるわけじゃない。私が一人、彼の前でから回ってるだけなんだ。伯爵は、そんな私をただ見ていただけ。それで「バカなガキだな」と鼻をならしていただけだ。
「あーあ。ばっっかみたい!」
 声に出してつぶやいてみた。そう、本当に、ばっかみたいだ。
 ……今日は従兄のエルバートが、帰ってくる日だ。ベックフォード侯爵があの高級服飾店の庭園を貸しきってくれたから、そこで会うことになっている。考えるべきは、そちらではないか。――会ったら、笑顔で迎えよう。きれいになったね、なんて言われなくていい。変わってないね、って。笑って言ってくれたら、それで最高に幸せだから。
 私は朝食の最後に紅茶を飲みほし、立ち上がった。
 ベックフォード侯爵が大枚はたいてプレゼントしてくれたドレス一式、せっかくだから着なければ悪いだろう。私にあれが似合うか未だにはなはだ疑問だが、私はすぐに召使を呼んで手伝いを頼んだ。

 そして――その日の、午後。
 私はそっと馬車のステップを下り、サンクローゼの庭園に降り立った。――なんて立派な庭だろう。まるで、林の見える野原にいるみたい。整然と区分された人工的な庭が今の主流なだけに、これほど開放的な庭は圧巻だった。庭にも、こんなに広くて自然なものがあるんだ。
 少し歩くと、控えめな噴水が穏やかに水の雫をはじき出しているのが見えた。その側には大仰(おおぎょう)なバラ園があるわけでもなく、ただただ緑が美しい。
(わあ……すごく素敵)
 ここへ来た目的も忘れて、もっと奥へ行ってみようと足を踏み出した、その時。
「……フィーリア」
 私の背中に、穏やかな柔らかい声がかけられた。
 この、声……。
 一気に心拍数が跳ね上がる。早鐘のよう、とはまさに言い得て妙だが、このときの私の心臓の早打ちっぷりといったら、鐘なんかで例えることはとてもできそうに無い。もしもこれが鐘ならば、ガラガラガラブチッガラガッシャーン!と音を立てて無残にも壊れていることだろう。ううん、もしかして本当に壊れるかも……。
 一瞬のうちにそんなわけの分からない考えが頭に浮かんだが、それをなんとか振り切って後ろを振り返ることに成功した。
 そこに立っていたのは――まさしく、エルバートで。
 変わっていない。優しそうな物腰も、その笑顔も。エルバートそのものだった。
「……エルバートお兄様……」
「――フィーリア、きれいに、なったね」
「えっ?」
 思いもかけないその一言に、私の早鐘はガッシャーンどころかドッカーンと粉砕した、……かに思えた。が、どうやらなんとか大丈夫だったらしい。けれど瞬時に頭へと血が上っていくのははっきりと感じられる。
「ああ、ごめん。一言目に言うセリフじゃないね。――久しぶり、元気だったかい?」
 そう言ってから、エルバートはくすりと苦笑する。
「……なんて、いまさら挨拶しても白々しいかな。フィーリア、この三年ちょっとの間で、すっかり大人の女性になったんだね。びっくりしたよ。もしかして人違いしたかなと思ってしまったほどに」
「ありがとうお兄様。すごく嬉しいわ」
 照れながら、私はドレスのすそを少しつまみ上げた。
「でもホントは、何も変わってないのよ。ただいつもとちょっと違うドレスを着てみただけ」
「そんなことないよ。顔立ちも、すっかり大人の女性になった。エレナさんに良く似てきたね……いや、むしろエレナさんよりきれいになった」
「そんな!」
 私は真っ赤になって首を振る。あぁ、首を振るとますます血が集まってきてしまうわ。……それにしても、褒めすぎじゃないだろうか。母に似てるだなんて言われたのは、覚えている限り初めてだし。それどころか母よりきれいなんて……もしかしてこれは夢じゃないだろうか。エルバートがこんなこと、言ってくれるなんて、ちょっと、都合が、良すぎるような……。
「お兄様は、お変わりない?向こうでは色々あったんでしょうね」
「たいしたことは何もなかったよ。ただ、勉学に励むのみだった。だからフィーリアから手紙が来るのがいつも楽しみだったんだよ」
「本当に?私も、お兄様からのお手紙、いつも楽しく読ませてもらっていたのよ。それに、全部とってあるわ。時々読み返すのも楽しくって。だって私、ずっとこの土地で暮らしているでしょう?だから港町のことを想像しながら読むと、私もそこへ行った気分になれて嬉しかったの」
「そう?良かった、喜んでくれて。しょっちゅう手紙を出していたから迷惑になっていないか心配だったんだ。それでも、ついつい書いてしまったんだけどね」
 にっこりと微笑むエルバートは本当に穏やかで、私は心の底からほっとした。――変わらないこの笑顔が、父のいなくなった私にとって、どれほどの支えになるか。
 そう思うと、私は目頭が熱くなるのを抑えきれなかった。つと、涙が頬を伝ってしまう。
「フィーリア?どうしたの」
「ごめんなさい……ただ、すごく、心が……じーんとして。嬉しいの。お兄様の笑顔はずっと変わらないから。お父様が、いなくなってから、ずっと見れなかった笑顔だったの。まるでお父様が側にいてくれてるみたいで、ほっとする……」
「……フィーリア……」
 エルバートはそっと私の頭をなでてくれた。大人になったね、って言ってくれるけど、エルバートにとっての私は、いつまでたっても子供なんだろうなぁとふと思う。それでもいいや。こんなに温かい手で、いつでも包み込んでくれるなら。
「そうだね、まだ父君のことがあってから、一年ほどしか経っていないんだね。――時というのは残酷なものでもある。傷を癒せるのは、時間だけなのに――癒しが必要な者に対しては、ひどくじれったく、ゆっくりと流れていくんだ」
「でも平気よ。お兄様の笑顔を見たら、元気になった」
 私は本当に自然に笑うことができた。エルバートも、柔らかく微笑み返してくれる。
 さっぱりと短く整えているブラウンの髪に、穏やかなブラウンの瞳。すごく美形だというわけでもないのに、どうしてこんなに素敵なんだろう?
「そういえば最近はどうしていたんだい?」
「えっ……、最近?」
 エルバートは何気なく聞いてみただけなのだろうけど、思わず腰かけたベンチの上で固まってしまう。最近していたこと、といえば、主に一つしかないのだから。
「そう、ね。別に特に変わったことは。本を読んだりお芝居を観に行ったり、そんな感じよ」
「そう。聞いたところによると、エレナさん結婚を考えてるんだってね?」
 うっ……。
「え、ええ。まあ。一応」
「確か相手はセルダン伯爵とか。エレナさんには本当に驚かされるよね、色々と」
「本当に……娘の私にも理解できない人だから」
「セルダン伯爵とは、うまくいきそうかい?」
 やはり避けられなかったか。ついにこの話題に突入してしまった。
「…………え、ええ。まあ。一応。それなりに」
「――本当に?」
 不意に真剣な表情で、エルバートはこちらを見つめる。
「う……ん」
「うなずいてみたけど、実はあまりうまくいきそうにない。……というところ?」
「……はい」
 観念してうなずくと、エルバートは小さくため息をついた。
「それも無理ない。父親に二十四歳の男の人、なんてさすがに受け入れがたいだろう。私と同い年なんだから、ね。まさか私たちが親子になるなんて、どう考えても違和感があるよ。むしろ夫婦になる、と考えた方がしっくりくる」
「そっ、そうね」
 さらりと口にした爆弾発言(私にとっては)に、私はますます固まった。もうカチカチだ。……だって、私たちが夫婦になるのが自然って言った?言った?
 ――いやいや、落ち着かなければ。そんなこと言ってないじゃないか。年齢的には親子よりも夫婦だよね、と言っただけなんだから。“年齢的には”、これ重要。そうだそうだ、全く、私ってばこの間から頭の中がちょっとおかしいみたいだ。
「……やっぱり、混乱しているみたいだね」
 心配そうにエルバートが言った。――混乱の内容がだいぶ違ったんだけど、そんなことは口にできるはずが無い。適当にうなずいてお茶を濁した。
「エレナさんもセルダン伯爵も、本気なのかな。本気ならとやかく言うのは気がひけるけど、フィーリアの気持ちを考えると黙ってもいられない。……一度、二人とは話をしたいな」
「お兄様……」
 私はまた目の奥が熱くなるのを感じた。一体、いままでに私のことを思いやってくれた人がどこにいただろう?父が亡くなってからの一年間、誰も私のことに見向きもしてくれなかったんだから。――もちろん、セルダン伯爵の“気にかけ様”は問題外だ。
「大丈夫よ、私のことは、自分できっちり気持ちの整理をつける。もしも本当に結婚することになったとしたらの話だけど。……正直言って、本当に二人が結婚するとは言い切れないし……」
 というかむしろしないだろう。セルダン伯爵本人が、「ただの遊び」と言い切っているんだから。
「――――いや。ちょうどいいみたいだよ」
 ふと、エルバートは私から目線を外してつぶやいた。一体どういう意味なのか分かりかねて、私はきょとんとしたマヌケな顔で続きを促すばかりだ。
「きちんと話をする、いい機会がちょうど今になったみたいだね」
 エルバートの目線の先を追って、私は後ろを振り返った――ら。
 なんと、信じられないことに、ステラと――セルダン伯爵が姿を現したのである。