16.

 どうすれば、この気持ちをかき消すことができるのだろう。

 あのダンスの後、早々にパーティー会場をあとにした私は、疲れ果ててすぐに眠ってしまった。
 セルダン伯爵と久々に顔を合わせて、気まずさのあまり気疲れした……もちろんそれもある。
 けれど、次の日も、また次の日も、体中にまとわりつく倦怠感や無気力感は一向に引いてはくれなかった。それどころか、パーティーの翌日以来、見舞いの品すら送ってくれなくなったセルダン伯爵のことを思うと、気分はますます沈んでいく一方。
 あの時のセルダン伯爵の表情が頭から離れない。エルバートと冗談を言い合い笑っていた私を見る、あの表情。驚いている風でも、軽蔑している風でもなく。もちろん、悲しんでいる風でも喜んでいる風でもなかった。無関心とも違うような――とにかく、私には測りきれない表情をしていた。
 私はすぐに会場を出てしまったけれど、セルダン伯爵はどうだったのだろう?きっと、私を見かけたことなどすぐに忘れ、パーティーで愛想を振りまくのに忙しかったのだろう。もしかして、エスコートをしていたのは例の公爵家の令嬢だったのかもしれない。……いや、その件はもうとっくに終わったのだったろうか。きっとセルダン伯爵のことだから、ダンスの指導もうまく行き、公爵家の令嬢にもそつなく気に入られたのだろう。そう考えれば、昨日のパーティーもやっぱり彼女と一緒だったのかもしれない。あの後会場で、令嬢との婚約が発表されていたりして。――でもそれはないか、口約束止まりとはいえ、まだ私の母との婚約は破棄されていない。外面(そとづら)のいいセルダン伯爵のことだ、きっちり母の件の決着をつけてから次のステップへ進むに違いないだろうから。

(私……、さっきから、セルダン伯爵のことばかり考えてる)

 窓辺に座って、ぼうっと庭を眺める。秋も深まり、咲き乱れる花の姿は少ない。でも、焦燥しきった今の私には、この静かな風景が優しかった。
 そんな風景とは裏腹に、私の頭の中はひどく混濁して不安定になっている。考えまいとしてもどうしてもセルダン伯爵のことを考えてしまうし、どうにか落ち着こうとすればするほど、うまく言葉に表せない焦りを感じてしまうのだ。
(お願い、誰か助けて)
 虚空に向かって、私は声にならない悲鳴をあげた。もちろん、返ってくる答えも、差し伸べられる救いの手もない。分かってる、分かってるけど……。
 眉根を寄せて窓の外を見下ろしていると、ちょうど門から一台の馬車が入ってくるのに気がついた。まさかセルダン伯爵!?と、身体をこわばらせ、やってくる馬車を注視する。が、やがて止まった馬車から姿を現したのは、セルダン伯爵ではなく、従兄のエルバートだった。なんとなくほっとして、無意識に固く結んでいた拳の力を抜いた。それと同時に、しっかり栓をしていたはずの涙腺まで緩んでしまったのか。家の中へ入ってくるエルバートを見つめているうちに、なぜか涙がこみ上げてきたのだった。

「フィーリア、こんにちは」
「お兄様」
 いきなり泣いている私を見て驚いたのだろう、エルバートは少し目を見開き、それから穏やかな笑みを浮かべてハンカチを差し出してくれた。
「入っていいかな?」
「ええ、もちろん」
 ぐずぐずと泣きながら、私はエルバートに席を勧めた。エルバートは微笑を礼に代えて、そっとソファに腰掛ける。
「……どうしたの?」
「お兄様、どうしよう、私、なんだかもう苦しくて」
 エルバートがここへやってきた用件すら尋ねる余裕も無くて――私はただ、こみ上げてくる胸の想いをそのまま打ち明けることしかできなかった。
「――私、セルダン伯爵が好きみたい」
「フィーリア……」
「最初は大嫌いだった。ぜったい、一生そりが合わないって、確信してた。でも違ったの。こんなことになるなんて……」
 今でも、そりは合わないと感じている。けれどそれでも、惹かれている。
「あの人は、私のことなんか何とも思ってない。それなのに勝手に好きになっちゃった。なんだか怖い。それに悔しいし、もういや。セルダン伯爵と会わなければ、そのうち気分も落ち着くかなって思ってたけど、全然ダメなの。日が経つほど余計にあの人のことばかり考えてしまうし……。この間パーティーでセルダン伯爵を見かけたときは、息ができなくなるくらいびっくりしたわ。すごく動揺して、もうどうしようかと思った」
 うん、とエルバートは頷いて、先を促した。
「そもそも、私は別にセルダン伯爵と付き合いたいわけじゃないし。そんなの、想像もできない。今でもよ。だから、セルダン伯爵にも私を好きになってもらいたいとか、そんなのは一切ないの。勝手に気持ちばかりが膨らんでいっちゃう感じ。止めたいけど、止められない」
「……うん」
「――私ね、セルダン伯爵と出会って、自分の余りにも小さな世界が、少しずつ広がっているのに気付いてね。それで、もっと世界を広げたいと思ったの。最近はそのためによくパーティーに顔を出したりして、外の世界と接点を持つようにしてた。そうしたら、少しずつ外に出るのもいいかなって、思えるようになってきたの。社交的な人間になってきたような気もしていたし。でもこのあいだ、そんな時にパーティーでセルダン伯爵と会ってしまって、そういうのが全部崩れてしまったみたいなの。私、無理してたのかな。セルダン伯爵がいてくれたときのように、自然に世界が広がっていかないみたい。……ねえ、矛盾してるわよね?セルダン伯爵と結ばれたいわけじゃないのに、隣にいてくれないとうまくいかない、なんて」
 とにかく私は、ひたすら一人でまくし立てた。今すべて、想いを言葉にしてぶちまけてしまうことで、どうにか平静を取り戻したかった。エルバートはただ黙って、時に頷きながら、真剣に私の独白を受け止めてくれた。自分でも、何を言いたいのかよく分からない。でもエルバートは、口を挟まず最後まで聞いてくれた。
「……それで、フィーリアはどうしたいんだい?」
「え」
 静かに掲げられた、思いがけない問いかけ。
 それで、どうしたい、なんて。
 そんなこと、考えたことも。
「自分の気持ちをただ抑えようとするから、ますます混乱してしまうんじゃないかな。セルダン伯爵への気持ちを、良くないものと決めてかかることこそ、良くない結果に繋がることになると思う。――相手の気持ちとか、お互いの境遇とか、世間体とか、そういったことはとりあえず置いておいて。純粋に、『これから』のことを思い描いてみようよ。そうすれば自然と、気持ちの整理もつくんじゃないかな」
「これから……?」
 そう、とエルバートは優しく微笑んだ。
「私……」
「うん、」
「セルダン伯爵とは、付き合いたいと思わないの」
「それじゃあ、彼を諦めるってこと?」
「諦める、……ううん、それはなんだか違う。だって、最初からセルダン伯爵に対して何かを望んでるわけじゃないもの」
「なら、どうして涙が出るほど苦しいんだろう?」
「それは……」
 言葉につまる。苦しい、どうして?会えない日が続くから。そういう日々が続いても、セルダン伯爵はなんとも思わないから。それがなぜ、苦しい?私の想いは通じなくても、側にいてほしいから。側にいて、少しは楽しいって思ってほしいから。
「――そっか……、結局、思いっきり、セルダン伯爵に対して、望んでることがあるんじゃない」
 苦々しい顔で、私は思わず呟いた。
 完全に一方的なのに幸せな片思いなんて、存在しないのかもしれない。本気で相手に恋しているならば。
「どう?」
 そっと問われて、私は小さく息をはいた。いつの間にか気持ちが少し楽になっている自分に気づく。優しく微笑むエルバートが今ばかりは少し憎らしかった。お兄様は、私の心の葛藤なんて全てお見通しなんじゃなかろうか。
「――うん。何だかんだ言って、結局ただあの人が好きなのね、私。どんな形でもいいから、これからも側にいたいと思う」
「その気持ちを、そのまま伝えればいいのに」
「そんなこと……」
 できない、と思う。想像、つかない。
 どんな場面にどんな顔して伝えればいいの。それに、もし万が一、天地がひっくり返って、両想いになったしたら、そこから先どんな生活が待っているの。想像できない。全然できない。
 私はただ、セルダン伯爵の側にいたいだけ。でもそれを伝えてしまったら、きっともう側にいることすらできなくなってしまう。おそらくセルダン伯爵は私から離れていってしまうだろう。だからって、この気持ちをどう抑えたらいいの?
 ただ、思いは一つ。

 側にいたい。

 ――考え込んでしまった私を、エルバートはただ黙って微笑みながら見守ってくれた。
 その微笑みに包まれていると、何故だかすごくほっとする。右も左も分からない暗闇を照らす、光の道標みたい。
 お兄様には一生かなわないだろうな。それに、お兄様ほど大切な人も、もう一生見つからないかもしれない。
 セルダン伯爵への気持ちとはまた違った「好き」が溢れてくる。エルバートが私のお従兄様で、本当に良かった。こうして側にいて、私の気持ちを全部受け止めてくれて、優しく微笑んでくれる。最高のお兄様だ。
 感謝の気持ちを込めて、私もエルバートに笑顔を返した。
 でもそのとき、エルバートの笑顔にどこか淋しさが混じっているのを、感じ取った。
「フィーリア」
 エルバートは、私の名前を呼んだ。今までの諭すような声じゃなかった。優しさの中に、とても強いものを感じさせる、声だった。
「僕は、伝えることにするよ」
 お兄様。お兄様?

「ずっと、君のことが好きだったよ、――フィーリア」