17.

 がん、と頭を殴られたような衝撃だった。

 エルバートのあの一言が、数日経った今も私の頭の中でリフレインし続けている。
 エルバート。私の大好きなお兄様。この世で一番信頼しているお兄様。彼ほど大切な人には、きっともう一生出会えない――。
 そのエルバートが、私のことを好きだと言ってくれた。
 それなのに、どうして私はこんなにショックを受けているのだろう?
 あの時のエルバートは、いつもとは確かに何かが違っていた。私にとってはイエス・キリストより神に近い存在だったはずの彼が、あまりにも身近で、情熱的で、苦悩する生身の男性であると明らかになってしまったのだ。私はそんなエルバートを受け止めきれなかった。

「今はまだ、返事を求めてないよ。ただ、気持ちを伝えたかっただけだから」
 エルバートはそう言ってまた穏やかに笑ったけれど、私はとても穏やかではいられなかった。驚きのあまり涙目になって、「あの」とか「その」とか気のきかないことしか言えない状態で。
「フィーリアはきっと、僕のことを兄としてしか見ていないだろうね。知っていたけど……気持ちを押し殺すことはできなかった。フィーリアにとって、ただ物分りのいいお兄さん、というだけでは終わりたくないんだ。ずっと昔からフィーリアのことを見てきた。ずっとずっと、大切に思ってきたよ。そしてこれからもずっと、側で君を守っていきたいと思ってる」
 ――うわああああっ、エルバートは、確かにそう、言ったんだ。
 それにしても、エルバートのセリフを一字一句違(たが)わず憶えている自分が怖いっ。どどどどうしよう?これってつまり、プロポーズってことじゃない!?何かの恋愛小説で、こういう話なかったっけ?まままさか、私がそんな経験をする日がやってくるとはっ。で、でも待てよ、お兄様は、まだ答えなくていいって言ってた。もし結婚の申し込みなら、答えなくていいなんてことあるだろうか?あっ、だけどお兄様は「まだ」って言ったんだ。と、いうことは、お兄様のセリフをよーくよーく考えろってこと?考えて考えて、考え抜いてから、返事をしてほしいってことなのか。でも、私はセルダン伯爵のことが好きなのに……。

 はっ、として私は顔を上げた。
 セルダン伯爵。そうだ、今日は自分のことばかり考えて、ああだこうだと悩んでいい日じゃないんだった。
 今――セルダン伯爵がお母様の部屋に来ている。いつもと違うのは――もしかして、婚約話の解消について話し合っているかもしれない、ということだ。
 今日の朝十時前、遅い朝食を食べていたお母様のところに、セルダン伯爵来訪の知らせが舞い込んだ。私はとっくに朝食を終えて自室に引き上げ一人ティータイムを楽しんでいたのだが、お茶の準備をしていた侍女がその時のお母様の様子を見ていたらしく、訝しがって私に尋ねてきたのだ。未来の旦那様が訪ねていらしたっていうのに、ふうとため息を一つおつきになって、ただ一言、「いよいよ終わりかしらね」と呟いてらしたんですよ、と。
 ――いよいよ終わり、この言葉の意味するところは一つしかない。つまりは婚約解消だ。ただ驚いたのは、お母様にもそういう意識があったということ。ひたすらセルダン伯爵にのぼせ上がっていたわけじゃなかったのか……。
 私の心中は複雑だ。私はセルダン伯爵が好き。だから自分の母親とセルダン伯爵が恋仲というのは、なんていうかもう、言葉では言い表せないほど悲しいモノがある。けれど、母とセルダン伯爵の関係が終わるということは、私とセルダン伯爵の小さな関係までもが終わってしまうということに他ならないのだ。
(分かってる、いつまでもこんな希薄な関係が続くわけがないってことは)
 また来た、私の苦手な「変化」の問題。いつも誰もが変わっていくんだ。人との関わりだって変わっていく。変わることが大切だって、ついこの間学んだばかりなのに。
(でも、うまく変わっていかない。いつも私の変化の後には、悪い世界が広がっていく)
 エルバートのことはどうすればいいんだろう?もちろんお兄様のことは好き。だけど、恋愛的な「好き」じゃない。だからお兄様の気持ちは受け入れられない。でも、そういう意味で「好き」なセルダン伯爵との結婚だって、考えられないじゃないか。向こうが嫌がるとかいう問題は捨ておいて、私自身も、とてもそんなことを望めない。
 ならば、やっぱり結婚相手として理想的なのはエルバートなのではないか?それならば、母とセルダン伯爵の関係が終わり、私とセルダン伯爵ももう会うこともなく、この気持ちを捨てて、エルバートと結婚して、平和で幸せな家庭を築く。……それで大団円じゃないか。そう、今この瞬間、確実に、私にとっての最高の「変化」が起こっているんじゃないか。

 でも。でも。――違うんだ。

 コンコン。

 控えめなノックの音。
 私は半ば呆然としながら、ドアの方に目をやった。
 今抱えている問題で手一杯――もう、これ以上は何も受け付けられない、と身体が考えることをやめてしまったかのようだ。返事すらせずに、途方に暮れて、ドアが開くのをただ待ち構えていた。
「……フィーリア?」
 ああ――セルダン伯爵の声だ。分かっていたけれど。
 一体、私に何を伝えに来たのだろう。君のお母さんと別れてきたよ、これで君とももう会うことはない、さよなら元気で――。
「フィーリア、私だ。……開けるよ」
 無視したわけでもなんでもなく、ただ本当に声が出なくて、私は立ちつくした。そうしているうちに、ゆっくりとドアが開かれる。
 ――そしてその向こうには、変わらないセルダン伯爵の姿。
「……」
「返事くらいしてくれてもいいじゃないか」
「……」
 やれやれ、と肩をすくめ、セルダン伯爵は慣れた様子でソファに腰かけた。
「君も座ったら?」
 ここが誰の部屋だと思ってるのよ!なんて、反論する力ももはや湧き起こらない。ただ黙り込んで、促されるままに、セルダン伯爵の向かいに座った。
「少し顔色が悪いみたいだが。大丈夫なのか?」
「……ええ」
 搾り出すようにして、やっと声が出た。でも私の声じゃないみたいだ。
 まもなく侍女がお茶を運んできた。二ヶ月ほど前まではごく当たり前の光景だったのに、今の私にはこんなにもつらいものに映る。
 ひたすら無言で固まっている私の様子を見て、他愛もない世間話や無駄な言い争いをする雰囲気じゃないと察したのか、セルダン伯爵は真面目な顔でじっと私の目を見つめた。
「――今、君のお母さんと話をしてきたよ」
「そう」
 やっぱり。わかってる、続く言葉は。
「正式に、結婚の約束を破棄してきた」
「……そう」
「驚かないんだな」
「……母が、あなたが来た時に、そんなようなことを」
「言っていたって?――ああ、そうだなエレナもすっかり心得ていたようだったし」
「あまり、うまくはいってなかったの?……母とは」
 勝手に言葉が口からこぼれる。少し、かすれた声。私の声じゃない。
「そりゃあ、そうさ。もともと私はエレナを愛していたわけではないし。エレナだって、亡き夫の身代わりとして私を見ていただけだ」
「冷たい言い方するのね」
「ここでは、取り繕って甘い笑顔を浮かべていても、もう意味がないだろ」
 ここでは――私の前では。もう――意味が、ない。
「……そうよね。私なんか、どうでもよかった母よりもどうでもいい存在ですものね。さすがにアーヴィング家をかき乱すゲームにも、もう飽きたでしょう」
 力なく、私は呟いた。だめだ。頭はまだ混乱していて、何も考えられていないのに、言葉だけが口をついて出てしまう。
 こんなひがんだ物の言い方、したくはないのに――。
「そんなひがんだ物言いはやめてもらいたい」
 ぴしゃり、とセルダン伯爵が拒絶の色を示した。はっとして、私は伏せていた顔を上げる。冷たい色を宿したセルダン伯爵の瞳と目がかち合った。
「前々から気に入らなかったんだ。君は、自分を蔑(さげす)む傾向が強すぎる。いつも『私なんか』と自分を卑下してきただろう。そんな君の様子を見ているのは不愉快だった。どうしてもっと物事を前向きに捉えない?君はその後ろ向きな人生観のために、一番充実しているべき貴重な年月を無碍(むげ)にしてきたんだ。わかっているのか」
 強い口調で、セルダン伯爵は言い切った。いつものように、甘い態度でのらりくらりと人の相手をするような様子は、どこにもない。その語気の強さに、私は何も言えず息をつめる。なんで、今頃、きっと最後になるこのティータイムで、そんなことを……?
「君は変に聡いからな、物事の本質を捉える力には確かに長けている。くだらない物事にはなかなか心を動かされない。軽蔑すべきものを軽蔑し、尊ぶべきものを尊ぶ。――だが逆にそのせいで、君の世界はそんなにも小さいんだ。もっとくだらないことにも興味を持ってみたらどうだ?――例えば、私の相手をしてみるとか、ね」
 不意に柔らかい空気をまとって、セルダン伯爵は甘い笑みを浮かべた。直前までとのギャップに、私は面食らってしまう。こんなにも言いたいことを言いたいように言われているのに、私は何一つ言い返せないでいる。
「わ、私……私は」
「なんだね」
「私だって……分かってるわ。だから、自分を変えようと、してるのよ。あなたには、それこそくだらないことなのかも、しれないけど……」
「ほうら、まただ。また自分を卑下している。それが気に食わないと言っているだろう」
 再びセルダン伯爵の雰囲気が厳しくなった。なんなの。どうしたらいいのよ。
「自分の引きこもりぶりを自覚し、変えようとしているのなら結構。だが、今のように君が自分を認めていないような状況で、いくら変わろうとしても無駄だと思うがな。自分の全てを否定して、まったくの新しい人間に生まれ変わることなど、できると思うのか?まずは自分を見つめなおすことだ。君に必要なのは自分を好きになることだよ。でなければ、いくらパーティーに顔を出して若い男どもとちゃらちゃら踊っていたところで、得られるものは何もない」
「――――」
「どうした?いつものように言い返さないのか。私は、君のその強気な性格が気に入っていたんだ。たとえ根拠のない自信でも、臆しもせずそれを私に向けてくるところが好きだったよ。だが今はもう、何も言い返す言葉がないのか」
 何も、何も、何も――出てこない。言いたいこと、伝えたいこと、胸の中では溢れそうになってるけれど、言葉になんてならない――。悔しさや恥ずかしさ、寂しさや切なさ……もう、色んな思いで、胸が張り裂けそうだ!
「とにかく、自分を過小評価しすぎぬことだよ。そうすれば、君はもっと魅力的な女性になるさ。これ以上、自分を卑下して私の気分を悪くさせないでほしいね。いいかい、もっと自分に自信を持ちたまえ」
 もっと、自分に、自信を。
 私はセルダン伯爵の言葉を何度も頭の中で反芻(はんすう)した。
「――以上、君の父親としての、最初で最後の忠告だ」
 はっ。
 私は身体をこわばらせ、伏せていた目を見開いた。
 “最後”――。
 胸の奥が、その言葉に震える。でも、待って、とも行かないで、とも、何も言えない。言葉にならない。――止められないんだわ、この人を。
 一言もしゃべることの出来ない私をよそに、またふわりと柔らかい笑みを浮かべ、セルダン伯爵は席を立った。
「それじゃあ」
 ドアに向かい去っていく後姿を、ただ目線で追う。これでもうセルダン伯爵とティータイムを過ごすことも、二度とないなんて――。

 と、そこで思い出したように、セルダン伯爵が振り返った。
「ああ、そうだもう一つ。忘れていたが」
 なによ。もう、何も言い返せないから、言いたいことは全部言って。
「君――フランシス子爵のプロポーズ、受けないほうがいい」
 フランシス――エルバートお兄様?
 ――は!?え!!??
 なんでセルダン伯爵が知っ……!
「受けたら、絶対後悔するよ」
 ななななな……っ。
「――だって、君が好きなのは、この私なんだろう」

 にやり、と意地悪く笑い、セルダン伯爵は、私の部屋を後にした。